インパール(13/17):コヒマ固守
撃って撃って撃ちまくる!ここではテニスコートの戦いも無名の戦いとして書きました。
陣地には人っ子一人いなかった。
英印軍はインパールに撤退していったのだ。
日本兵A「また撤退かよ!」
日本兵B「やる気があんのか!」
日本兵C「ふざけんな!」
将官A「怒るな、コレは撤退ではなく後退というモノだ」
将官B「逃げ出したのではなく部隊を移動しただけなのだ」
将官C「追撃すれば袋を包むようにして包囲殲滅されるぞ」
英印軍は後退を恥だとは露程も思っていない。
戦術に負け戦略で勝つ、そういう戦闘なのだ。
英語でも同じようなことわざがある。
「It is like beating the air」
<空気を叩く様なモノ>
「He catches the wind with a net」
<網で空気を捕らえる様なモノ>
英語圏でも嫌われる類いのモノだが戦闘では違う。
のらりくらりとすり抜けられて相手が逆上するのを待つ。
「鎧袖一触の意気に燃え」「放たれた矢の如く破竹の勢い」
こういう日本人の気概は英国人にはいいカモなのだ。
挑発、策謀、扇動etc。
あらゆる手段を講じて戦う。
最後に戦場に立っている者が勝利者なのだ。
その勝利の過程や行程はどうでもいいのだ。
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4月5日第31師団の左突進隊がコヒマに突入した。
ディマプール~コヒマ~インパールへの補給路の中間点だ。
これを抑える事はインパールへの地上の補給路を抑えた事になる。
コヒマは英印軍アッサム兵団駐屯地という要害であった。
三重四重の鉄条網が張り巡らされ無数の堡塁があちこちにあった。
戦車を埋めて簡易トーチカにしたものが多数うかがわれる。
砲塔の防楯は最も装甲の厚い部分で、強度は抜群だ。
しかも野砲/自走砲と違い、露天ではないので頑丈だ。
コヒマにはいくつか丘があって陣地はそこにあった。
周辺には物資の倉庫や兵営施設がズラリと並んでいる。
ここには倉庫や病院があり物資が唸っていた。
第31師団の佐藤師団長はすぐ戦利品を移動するよう命令した。
佐藤「ここには兵站部隊しかいない」
「陣地から戦闘部隊の逆襲が必ずある」
そこで物資や機械類を分散して隠す事になった。
こうして倉庫も病院ももぬけの殻となった。
その夜、とうとうインドのディマプールから敵援軍がやって来た。
敵の逆襲は陣地からではなく、恐れていたディマプールからだった。
後から後から湯水のように戦力が増強される。
戦車に、野砲に、装甲車に、兵士と切りがない。
日本軍も増強した戦力で立ち向かった。
ここが踏ん張りどころである。
ここで押し負ければビルマに戻るしかない。
コヒマの三叉路の丘陵地帯で激戦となった。
敵の丘からの攻撃と援軍とで、日本軍は挟み撃ちである。
丘陵地帯は余りにも堅牢で物量は日本軍の想像を絶していた。
コヒマ西と南の高地斜面にはそれぞれ100門の野砲が並んでいる。
偵察によれば1門あたり40発の砲弾と炸薬が積み上げられている。
日本兵「英米は兵器の見本市でもやるつもりか?」
日本兵「まあオレらも人の事は言えないがなあ」
日本兵「よっしゃ、撃って撃って撃ちまくれ!」
最初は兵士と大砲、即ち第一次世界大戦の再現だ。
埋めた戦車は出てこれないし曲射できなくて射程が短い。
どっこいどっこいで戦闘を続ける内に敵は増援を呼んだらしい。
4月中旬になると英印軍はさらなるM3戦車を投入してきた。
こちらも90式野砲で応戦したが如何せん数量が違いすぎる。
戦車で蹂躙され、野砲で滅多打ちにされる日本軍。
もう飯盒で飯を炊く煙で察知され炊けない。
ここはパック飯と缶詰でやり過ごすしかない。
どんな猛攻撃に晒されても、糧食/飲料水だけは確保した。
決死の輜重隊が前線まで飯を持ってきてくれる。
牟田口は砲を揃え、砲弾も充分に用意していた。
だが如何せん敵の野砲には撃ち負けていた。
砲兵「こちらが300門で撃ちかましているのに」
砲兵「撃ち負けているとは一体敵は何門持ってやがるんだ」
砲兵「600門はあると見ていい」
敵はM3中戦車を改造した大口径自走砲を用意していた。
105mmM7自走砲、155mmM12自走砲である。
生産量が少ないため10輛と少ないが、大口径は手強い。
日本軍は山越えなので、大口径は持って来られなかった。
しかも英印軍は盛んに空爆を繰り返していた。
護衛機も付けており、それがまた手強かった。
日本軍も散発的に戦闘爆撃機が250kg爆弾を懸架してやって来た。
50機程度だが間断なくやってくるので力強い味方である。
しかしながら敵機も進出してきており空中戦となった。
それを地上から見ていた陸軍兵士からは溜息が漏れた。
歩兵「こちらも一式30機と三式20機を出しているのに!」
歩兵「空中戦で競り合うとは一体敵は何機持ってやがるんだ!」
歩兵「100機はあるとみていい」
オートジャイロとヘリでは焼け石に水だった。
敵はライトニングとマスタングだったのだ。
敵陣地も恐ろしいほどに固守されていた。
本陣のあるギャリソン・ヒルは高地だった。
この光景に日本軍は見覚えがあった。
日露戦争の旅順要塞攻略戦だ。
日本兵A「3重4重の鉄条網に守られた高地に肉迫攻撃か?」
日本兵B「旅順要塞攻略戦つうのがあってだな」
日本兵C「オレたち白タスキ隊かなんかか?」
サンシャークでは夜襲が功を奏した。
だがここでは余りにも防備が強力だ。
M3戦車をトーチカとして使っており近づけない。
いやここは対戦車ライフルの出番か?
対戦車ライフル97式自動砲もあったが射程が遠い。
M3中戦車装甲は前面38.1mm砲塔防盾51.4mmある。
97式自動砲の貫通の力は420mで25mmだ。
よほど近づかない限り、有効な射撃が行えない。
ではタ弾(対戦車用成形炸薬弾)を使うか?
これは山砲でも使えるが旋条があるとダメだった。
威力が散逸してしまい、思ったような効果がない。
佐藤幸徳中将は行き詰まってしまった。
佐藤「何か良い方策はないものか?」」
宮崎「パンツァーヴェルファーを使いますか」
パンツァーヴェルファーとは多連装ロケット砲搭載装甲車だ。
独国からの技術供与で構造は簡単だ。
Uボートで日本に供与された設計図を参考に組み立てた。
24連装ロケットを2段にした48連装ロケットランチャーだ。
ロケット弾は4式20mm噴進砲のものを流用する。
4式20mm噴進砲は第7陸軍技術研究所で開発中だった。
最大射程は2500m、充分な飛距離である。
日本海軍にもロケットランチャーはあるにはあったのだ。
120mm28連装噴進砲を開発していた。
「陸軍が海軍に頭を下げるのは好かん」
そこで陸軍独自の開発となったのだ。
山本支隊がパレルで使った試製十五糎多連装噴進砲は?
山本支隊はタム~バレル幹線道路の守備に就いていた。
ここがコヒマ/インパールへの唯一の舗装路だったからだ。
コヒマの激戦は分かっていたが、ここを動く訳にはいかない。
日本軍の補給路の動脈になる場所だったからだ。
4月15日。
97式軽装甲車(車幅1.75m)がアラカン山脈を乗り越えて来た。
背中にはロケットランチャーを乗せ、牽引車に弾頭を満載していた。
その数は30輛で1回の発射は48発×30輛=1440発である。
軽装甲車では敵75mm砲の前では紙(装甲8~12mm)みたいなものだ。
そこで夜襲をかける事にした。
深夜に移動を悟られぬよう、援護射撃と煙幕を行う。
その中で1440発ものロケット弾を発射した。
バシューンッ、バシューンッ、バシューンッ、バシューンッ。
もの凄い爆音と発射時の煙である。
再装填はその場では出来ない為、さっさと撤退した。
20秒後、凄まじい轟音とともに高地に弾着した。
ドズーンッ、バガーンッ、ズシーンッ。
弾着音は1440発分続いた。
英印軍陣地は壊滅した。
本陣のあったギャリソン・ヒルは更地になってしまった。
3重4重だった鉄条網は吹き飛んでしまった。
虎の子だった105mmM7自走砲、155mmM12自走砲は燃え上がった。
トーチカのM3中戦車は土砂に埋まった。
そこにさらに砲兵隊は滅茶苦茶に野砲を撃ち込んだ。
100平方m当たり1.8トンの砲弾を撃ち込んだだろう。
それでも英印軍陣地の10%を破壊した程度である。
だが防御陣地に籠もった英/インド兵はたまったものではない。
欧州戦線でも独兵にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の報告がある。
打ち続く爆音と打撃は彼らに酷い心的外傷を与えた。
塹壕の中で打ちのめされ叩きつけられていた。
兵士の人間的な士気は崩壊してしまった。
インド兵「うわああああっ」「もうやめいでええっ」「おぐわたぁ」
まずインド兵が我慢の限界に達して飛び出してきた。
その数は”いるわいるわ”で4000人以上だった。
後にパガール・チャージと呼ばれるこれは「万歳突撃」だ。
小銃の先に銃剣を付け、滅茶苦茶に突進してくる。
それは何か日本軍にとってもの悲しい光景に見えた。
<我々もあんな感じでバンザイ突撃をしていたのか……>
第31師団佐藤師団長「砲兵隊、近接信管付き榴弾用意!」
これが地上戦で近接信管砲弾を初めて使った実践となった。
ドガーン、ドガーン!ドガーン、ドガーン!
近接信管が兵士を感知すると直撃しなくても爆発する。
その為ちょうど高さ2mぐらいの所で自爆し破片をまき散らす。
普通なら地面にめり込み激突して爆発し土砂を巻き上げる。
半径5mぐらいが殺傷範囲だが、この場合は20mぐらいあった。
三斉射で4000人のインド兵は4000人の死体となってしまった。
残った英国人将官は全員が降伏する事になる。
つづけてコヒマ・リッジも噴進弾の餌食になった。
こうして日本側コヒマは戦線維持、英印軍は壊滅した。
その日も空中補給の英貨物機が物資を山のように投下していった。
だがそれを受け取る英印軍はもういなかった。
弾薬、糧食、飲料水。
日本軍はこれを「チャーチル給与」と呼んだ。
次回はインパール(14/17):ディマプールへです




