インパール(1/17):ビルマ進攻
ビルマ進攻はは1941年12月16日ですがインパール作戦は1943年3月8日になります(正史は1944年3月8日)。1年ほど前倒しになっています。
そもそもビルマ進攻の目的は何か?
それは英印軍をビルマで食い止める事だった。
そしてあわよくばインド進攻の足掛かりだった。
インド・ディマプールには英米の一大補給基地がある。
1939年日中戦争で蒋介石は頑迷に抗日戦闘を続けていた。
英米はディマプールからハンプ航路で蒋介石を援助。
中国奥地・崑崙にいながら蔣介石は抗戦を続けられた。
それはヒマラヤ超えの補給物資のおかげであった。
それ故に国民軍は日本の兵力を中国に貼り付かせていた。
幾重にも張り巡らせた補給路が蔣介石を助けている。
その補給ルートの大動脈の一つがビルマルートであった。
これを断ち切れば、蔣介石を援助するルートが断ち切られる。
それには英領ビルマの英国支配を覆す必要があった。
このアジア辺境の地に日本の軍事力を割くのは無駄だった。
そこで日本軍はビルマの反英運動に目をつけた。
内乱によって英国支配を覆し、悠々日本軍が侵攻する。
そして陸路/空路を断絶して、補給作戦を断ち切るのだ。
ビルマには独立運動のタキン党(Thakins)という反英組織がある。
タキン党にはビルマ学生が数多く参加していた。
日本は、このビルマの学生運動のリーダーに目を付けたのだ。
学生運動を支援して英国植民総督府をひっくり返す。
リーダーの名はアウンサン(Aung San)といった。
1940年、英国は反英分子だったタキン党幹部党員を大量に逮捕した。
反英非協力と武装蜂起を掲げた独立運動は壊滅的打撃を受けた。
もはや外国からの援助も辞さない彼らは、日本の「南機関」と接触した。
南機関とは日本軍の対ビルマ特務機関の事である。
南機関はアウンサンらを日本に招き、独立蜂起を約束した。
彼はビルマ支援の約束を携えて一旦ビルマに帰国した。
帰国したアウンサンは30人の志士を集める事に成功する。
彼は学生活動家30人をこっそり日本領の海南島に渡洋させた。
そこで日本式軍事訓練を受け、ビルマ独立義勇軍創設に備えた。
武器は日本関与を悟られぬよう、外国製を供与する徹底ぶりだ。
1941年12月16日アウンサンは日本軍と供にビルマに進攻した。
英総督府は後退戦術に伴い、全土を焼き払うだろう。
全ての施設は焦土作戦により失われる可能性がある。
そうなれば復興には何年も掛かるだろう。
そうはさせてはならなかった。
アウンサンは学生運動家をあらかじめ全国に散開させておいた。
アウンサン「我々が同士とともに潜入します」
「油田、製油所、発電所、通信施設、警察、鉄道」
「すでに配下の者が手筈を整えています」
「進攻は順調に進むでしょう」
軍事進攻は武力だけがすべてではない。
ビルマの政治/経済に大きな影響をもたらすのだ。
日本軍進攻はビルマに経済恐慌を起こす事も分かっていた。
反英となったビルマの地に英印米は一切交易しないだろう。
インド・豪州との通商は一斉に停止する事になる。
一番多かった英米との流通/輸出入は出来なくなるのだ。
当のビルマ人はまだ茫然としているだけだ。
やがて食べるものに困ろうとは考えも付かない。
基幹作物のコメは輸出するほど豊富だった。
だが砂糖/小麦/バター/練乳は全部輸入だった。
この事がジワリと日本軍政部にのし掛かる。
ビルマには第十五軍(林集団)軍政部が設置されている。
軍政顧問は桜井兵五郎。
政治と実業の二兎を追う麒麟児だ。
しかもビルマは日本軍の兵站の末端にあたる。
日本軍はビルマを辺境の地と考えていた。
全てが日本軍による提供になるならどうなるか?
英米と同じサービスを提供できる筈もなかった。
国力も規模も桁違いに過ぎるからだ。
ビルマ全土が飢饉になる事は目に見えていた。
帰化ユダヤ人「なんぞその御用でしょうかな?」
また呼んでもいないのにユダヤ商人が首を突っ込んできた。
食糧の流通と供給は彼らに任せておけばよかった。
英印戦線では兵器や弾薬が目立って減ってきた。
また軍需品の欠乏も徐々に現実化してきていた。
兵器・装備品がなければ戦闘にならない。
桜井「地場産業を起こして自分らでなんとかするしかない」
軍需品、食料の入手は遠く日本に頼る訳にはいかない。
今や太平洋方面は米国とがっぷり四つに組んでいる。
辺境の地ビルマは二の次だったのだ。
米国との戦闘にほとんどすべての戦力が集中していた。
待っていてもビルマに物資が届くのは副次的な意味合いになってきた。
現地で入手出来る体制をすぐにでもとらねばならなかった。
これは英国が撤退前に態勢を整えて、すでにやっていたことだ。
鉄工所、生産工場、組配を現地で実現していた。
このビルマの地でどのくらいの事が出来るのだろうか?
かつて中国国民軍は漢陽や金陵に兵工廠を有していた。
清代から独製兵器をライセンス生産していた。
最初は漢陽88式小銃(Gew88)などボルトアクション小銃だ。
後に独M08重機関銃、8cm sGrW34迫撃砲、Kar98k等々を生産する。
重慶に撤退する頃にはSd.Kfz222&Sd.Kfz221も国産化していた。
中国国民軍にやれて日本軍にやれないことはない。
英国の設備があり、日本がやれない道理はない。
英国のは小規模だったが、日本は拡充して大規模にやる腹だった。
軍政部は商工省に対して国内製鉄設備の南方移設を要求した。
日鉄富士、小倉製鋼がただちに呼応し、移設が始まった。
製鉄の進出とともに2次加工メーカー青柳商店がビルマに進出した。
応急的鉄鋼需要を満たすため、製鉄は屑鉄を材料とする電気炉だ。
日本での電気炉の本格的稼働は1915年(大正14年)である。
桜井兵五郎「電気炉にはタングステン発熱体が必要だ」
カヤー州とシャン州の州境に錫/タングステン鉱山がある。
英国が採掘していたこの鉱山を接収して使わせてもらう。
電気炉をビルマで建炉して稼働させねばならない。
しかしどこで?
アウンサン「シャン州タウンジーは比較的新しい街です」
英国司令部のあった街で比較的文化に明るい。
アウンサン「ここなら従業員も集める事ができます」
タウンジーには英国時代の近代設備もあり従業員も慣れている。
桜井はここで各種鉄鉱製品製造を行う事にした。
また各種兵器の修理、製作を行う事にした。
伸延、鍛造、圧延、切削、あらゆる工作機械が必要だ。
これらは英国時代のモノを使わせてもらう。
また窒化浸炭処理や高周波焼入れ等の後処理装置も導入する。
とにかく日本本土に頼れぬ辺境の地なのだ。
一方で中規模な製鉄所の建設も目論見がはじまった。
高炉のための耐火/断熱/蓄熱煉瓦が必要だ。
桜井はその分野では一家言を持つ大家であった。
桜井兵五郎「高炉用の耐火煉瓦だと、まかせとけい!」
桜井は能登が珪藻土日本一の生産地である事を知っていた。
彼は北日本耐火煉瓦株式会社の社長でもあるのだ。
さっそく桜井は原料のシャモットになる粘土探しに出た。
あとは木炭銑の燃料の炭の入手だ。
南方ではマングローブ炭が大量に採取できた。
これを熱源とした応急的鉄鋼政策が木炭銑による高炉稼働である。
年約2万トンの銑鉄と同7万2000トンの鉄鉱石を生産する。
これによる銑鉄を25トン小転炉(成分調節)と結びつける。
出来た鋳鋼を粗圧延工程で半製品を製造する。
従業員は日本人200人、現地人2000人程度をあてた。
日産30トン高炉2基で300日操業。
年産1万8千トンの勘定だった。
戦略物資のゴムも大量に入手出来た。
ビルマ東南部モーン州は先住民族モーン族の支配下にある。
その主要地であるモウラミャイン港。
ここは英国植民地時代チーク材の輸出港として栄えた。
このモーン州の主要農業がゴム栽培であった。
モーン州の主要道路には幹線道路沿いにゴム園がある。
南部タンピュザヤには壮麗なゴム長者の屋敷が建ち並ぶ。
ゴム国際価格高騰を受け、モーン州はゴム景気に沸いていた。
日本軍政部の下部組織には民政部がある。
民政部が彼らから優先的にゴムを購入した。
購入資金は日本軍の軍用伝票(軍票)であった。
軍票は貨幣の価値を下げデフレを起こす悪手である。
ビルマの軍票ルピーほぼ無価値となってしまった。
これはもう致し方ないことだった。
ビルマ/マンダレーの北東にはモゴク地区がある。
そこは世界最高水準のルビーの産地である。
帯域精製法の章で述べたように人工ルビーはもうある。
火炎融解法による酸化アルミの単結晶析出の結果だ。
ここでは非加熱ルビーにまだ価値が残っていた。
日本軍政部はこれを担保に信用を得る事になる。
工業地域はすぐに英国偵察機によって発見された。
製鉄所の高炉は英印軍の格好の標的となった。
高炉は小型で16~25m程度の耐熱レンガの塔だ。
日本にある100mを越える唯一無二の巨大高炉とは違う。
すべて修復可能な煉瓦積みで出来ている。
壊されては直し、潰されれば建て直した。
希少金属のニッケルはビルマ・ボドウィン鉱山から産出した。
電気炉の消耗品の電極タングステンはマウチ鉱山から採れた。
場所は違うがシンガポールのビンタン島はボーキサイトが出た。
年間10万トンを下らないボーキサイトの露天掘りだ。
ここにはアルミの電気精錬工場が建設された。
これはジュラルミン(アルミ合金)の生産に寄与した。
1942年03月ついに英領ラングーン陥落。
イェナンジャウン(Yenangyaung)油田で労働者の暴動が発生。
これも予めアウンサンが扇動しておいたとおりの筋書きだ。
油田と製油所は暴動により、爆破と破壊を免れていた。
発電所や通信施設も暴動により英国人は拘束されていた。
放送局、銀行、警察、鉄道が組織的に征圧された。
これは単なる学生運動の発露ではない事は誰の目にも明らかだ。
英国関係者「日本軍の謀略だ」
英国関係者「逃げないと捕虜で資産は没収だ」
英国関係者「逃げるってどこへだ?」
英国軍と英国系の支配層は脱出の必要に迫られていた。
アラカン山脈のフーコン谷地の細道を伝ってインドに脱出した。
アウンサン「とうとう英国人を追い払ったぞ!」
「我々がビルマ国のタキン(主人)となったのだ」
ビルマ独立義勇軍は英国系支配層から略奪し始めた。
英国に加担して私腹を肥やしてきたビルマ人富裕層だ。
今まで彼らに好きなように虐げられていた腹いせだった。
義勇軍は色々なビルマ人で構成される雑多な私兵の集まりだ。
公務員から罪人まで参加し、明確な規律も罰則もなかった。
急激な勢力の増長に統制と制御が追い付かない。
私兵「奪え!犯せ!殺せ!」
私兵「軍人に逆らうな!」
私兵「頭と胴が生き別れるぞ!」
日本軍の目の届かない地方では私刑も行われていた。
この惨状にアウンサンは心を痛めていた。
アウンサン「やはり世情の鎮静化には本物の政治家が必要だ」
「このままでは内戦状態になってしまう」
ビルマ独立義勇軍はここでビルマ防衛軍に改組した。
烏合の衆ではない選抜兵士の正規軍が発足した。
アウンサン「学生運動のリーダーはやはり政治家には向かない」
「英国の政治犯収容所に投獄されている男に最適格者がいる」
英国は植民地経営には350余年の歴史を持っていた。
英国人は植民地経営のノウハウがあった。
支配は地方の隅々の及び、全国を確実に把握していた。
その手腕が学生運動のリーダー・アウンサンにはなかった。
最適格の男の名はバー・モウ。
反英非協力の罪で投獄されていた。
教育大臣を経て、初代植民地政府首相を勤めた異色の政治家だ。
南機関は彼を解放してビルマを任せる事にした。
1942年06月中央行政府長官に任命される。
1942年12月モウは国家代表兼内閣総理大臣に就任。
とうとうビルマ国独立を宣言した。
アウンサンは国防相となった。
辺境の地ビルマに本国は重要視しませんでした。そこで不足分は英国の作った工業設備をそのまま使って現地生産を始めます。次回はインパール(2/17):ビルマ流のやりかたです




