ナチュラルメイクで。
その時、ピピッと小さな電子音がして、扉が開いた。
峰さんだ、と思って振り向くと、立っていたのは赤い縁の眼鏡をかけた、綺麗な女性。すぅっとその目が細められる。
…その目線の先には。全裸の…。
「わぁ、申し訳ないです!」
資料室には大抵の人が勝手に入っては来なかったから、油断した!
悲鳴を上げてムゲンさんを隠そうとした僕の前で女性はにっこりと笑う。
…見たことが…ある…。
この、既視感。
身長…顔のパーツ…でも…だけど…。
「あら、峰、可愛い。見違えちゃったぁ」
コロコロと笑うムゲンさんの声にも、直感の正しさを…ちょっと認められない僕がいる。え、でも、峰さ…いや。
しかし、陸衞さんにも驚いた様子はない。2人とも普通の顔で、相手を受け入れている。
もしかして世間一般では普通の出来事なんだろうか。僕の驚きが間違っているのか?
『彼女』は扉を閉めて、ムゲンさんへ注意をする。
聞いたことが…ありすぎる男性の声だ。
「ムゲン君、職場でその格好は困るな」
「ごめんなさぁい。爭弌が通訳サボるし、なんか面倒になっちゃったの」
「せめて隠すくらいの配慮がほしいね」
まだこちらの様子を盗聴機で聞いていたのだろうか。全裸の男が身をくねらせる様に動揺も見せず、準備よく取り出したバスタオルを放る。
そこまで考えても、まだどうしても認められない僕に、ついに『彼女』は感想を求めてきた。
「どう? 今日はミチカ君がわかりやすいように、あまり顔は弄らなかったんだけど。外に出たら声も変えるから安心してね」
ウインクが寄越された。何度確認しても女性に見える。
黒いスカートは、職場内では見慣れたマモレ課の制服だ。身長は上げないようにしているのか、靴の踵は低い。目元の…普段はないはずの泣きボクロの存在は印象操作か。
背中に流された茶がかった長い髪も、いつもとはあまりに違う。
なのに、聞こえる声の違和感ときたら…。
自分を信用できず、不安になってしまうのは仕方のないことだと思う。
「…本当に峰さんなんですか…」
「峰さんなんですよ。子供は身長的に無理だけど、伸ばすほうなら如何ようにでも。横幅も性別も障害ではないね。小太りのオッサンにも、がさつなオバチャンにもなれるよ。ムゲン君の服を買うなら女性がいたほうがやりやすいかと思ってね。男3人で女性の服選びもおかしいでしょう?」
「…はぁ…。…美人で驚きました…」
考えてみれば、峰さんは諜報畑の人間だ。変装の心得があっても不思議ではない。
スキルを所持していない僕には真似できそうにはないが、プロの技術で化粧をすれば、男性も女性に見えるものなのかもしれないな。
「大体、これで簡単に弱みを握れるよ。もしミチカ君に技術が必要なときは言ってね」
ご丁寧にマニキュアで彩られた爪は長めだ。付け爪だろうか。
…諜報員って大変なんだな。
もぎゅっと頬を抓られた僕は、脳内で「仕事中」と呪文を繰り返しながら、真面目な顔を取り繕った。
「陸衞君とムゲン君にはすぐわかったようだね。君達相手には使えないんだということがわかった。やっぱり匂いかな?」
「そうですね。峰はあまり匂いがありませんけれど、香水も控えめですし、僕らが間違えるほどの匂いの差ではないです」
首を傾げて問われた陸衛さんが、つられたのか同じように首を傾げ返している。
僕はようやく、動物の姿を持つ2人が動じていなかった理由を知った。
…いや、匂いが同じでも女装してたら疑問に思わ…ないか、既にムゲンさんが女装している。
「美女でも香水がキツイと台無しだからねぇ。ちなみに、今日はミチカ君の好みに合わせて、仕事のできるお姉さんを作ってみました」
「ぼ、僕っ、ですか? そんな好みの話なんてしたこと…」
唐突に話題に放り込まれた僕は目を見開いた。
仕事のできるお姉さん。確かに峰さんの姿はそんな風に見えるけれど。
必要以上に慌ててしまったのは、思い当たる節があったせいかもしれない。
「外したつもりはないけどなぁ?」
ふわりと顔を覗き込まれて…思わず口を閉じた。
ショートカットより、さらっと長い髪が揺れる女性の方が、気にならないと言えば嘘になる。それに、可愛いよりは、綺麗な方が。華やかよりも、落ち着いた方が…くっ。た、確かに…。
うぅ、その上でこんな感じの女性が好みだったのだろうかと自問してみても、どうしても「いや、でも、これ峰さんだよね」という合いの手が脳内で入って引っ繰り返してしまう。
美女でも峰さん。峰さんでも美女。混乱してきた。
陸衞さんが、僕の頭にぽんと手を載せた。ついつい考え込んで固まっていた自分に気がつく。
「アタシは同族の匂いだと思ってた。何にでも化ける子の匂いがするぅ」
「これが自衛というところも同じかな。いつまでも、続けられることじゃないけど」
峰さんとムゲンさんの間に謎の共感が発生しているようだ。
気になるけれども、突っ込めない。
女装することの何が自衛になるのか。
「そうなのよねぇ。…アタシも、もうそろそろ本当のアタシに戻ってもいいのかも。いつまでも身内を騙るのは、博士も喜ばないのかもしれない」
「…そうかな。ムゲン君を守るために、槙島博士は娘の戸籍を提供したんでしょう」
「博士は娘の死を認めたくなかったのよ。紙の上だけでも生かしておきたかった。だから、死亡届を出せなかっただけ。別にアタシのために空けてあったわけじゃないのよ」
物憂げな目をしたムゲンさんが、暗く笑う。
槙島博士とは、一体誰なのだろう。
ムゲンさんを操っていた白衣の老人も、陸衞さんも、その名を口にしていた記憶がある。
「…やめるとアタシは槙島 舞言ではいられなくなる…博士との繋がりは消えちゃうわ。娘の戸籍を汚しただけでなく、居もしない孫まで作ってやったのよ。年齢的に、もう娘はババアで使えないから。…でも昔と違って、戸籍弄るのも大変になってきたのよね」
ひょいと立ち上がったムゲンさんが、梟の姿に変化した。タオルが床に落ちる。
僕1人だけ、話についていけていない。
陸衞さんがちらりとムゲンさんを見る。
その途端、威嚇するように羽根を広げた梟が、陸衞さんの顔をびしびしと叩いた。
「ぅわ、何です。すぐ僕に八つ当たりするのはやめなさい。…無理になったらどうしたって無理なんですし、いいじゃないですか、できなくなるまでは槙島姓を名乗っていれば。…別に同情してません。そんな要素ないです。できなくなってから悩めばいい」
陸衛さんの言葉にも、ムゲンさんは攻撃をやめない。
慰めに対する照れ隠し…にしては激しい。鼻っ面を狙うところがまた痛そうだ。
イマイチわからないのだが、彼らのコミュニケーションはこれでいいのだろうか。
結構、乱暴な関係なのでちょっとハラハラしてしまうのだけれど。
「…ムゲン…やめなさいと言いました、いい加減にしないと捕食しますよ」
ムゲンさんは「ケッケー!」と耳障りかつ嘲笑的に鳴いた。
これは僕にもわかる。「やってみなさいよォ!」に違いない。溜息をついた陸衞さんは、顔の前で羽ばたき続ける鳥を、わしっとむしり取る。
「ケッ…?」
そして机に乗せてあった僕の通勤鞄を取り上げ、あろうことかそこにムゲンさんをギュウギュウと詰め込んだ。相手も逃れようと抵抗しているのだろう、ばさばさと抜けた羽根が室内に散る。
「…陸衞さんっ、入らないですよ!」
その鞄が壊れたら替えがないのでやめてほしい。
緑地に行ったのと同じ大型リュックでは通勤できない。かちりとした制服に、大きな迷彩カーキリュック…都市でこれは浮く。一般人らしさが損なわれる。
「入れれば入ります、ムゲンですから。彼は僕と違って、色々と器用なので大丈夫ですよ。ムゲン、何を遊んでいるんですか。僕はミチカと一緒にご飯を食べたいので早くして下さい。ミチカの鞄を壊したら怒りますよ」
グゲェッ、と悲鳴らしきものが聞こえた。
満足げに「よし、入りました」と陸衞さんが鞄を閉める。
いや…はみ出てはおらず、静かにはなったが…サイズ的には…入らないはずだ…。
「ミチカ、これを持って下さい」
渡されてしまった。自分の鞄なのに、受け取るのを躊躇ってしまう。
僕の通勤鞄は値段相応で、入るものと言ったら貴重品と少しの書類がせいぜいだ。鳥が入るような厚さのマチはないのに。恐怖に似たものを感じる。
「え、…えぇと…、中で死んでないですよね? 街中でバサバサ鳴らないです?」
「鳴ったら殴って構いませんよ。いざとなったら首を撥ねましょう。峰。ムゲンのペースに巻き込まれると時間ばかりがかかりますから、遠慮しないで下さい」
僕は呆然としているのに、声をかけられた峰さんは平然としている。
そ、そうだ、仕事中。仕事中だから。
「そう? まぁ、ムゲン君の気持ちも何となくわからないでもないけどねぇ…。とりあえず、この話題はおしまいにしようか」
動作も完全に女性にしか見えない峰さんが、再び僕の前に歩いてきた。
少し屈んで目線を合わせる。
…胸チラしそうで、だけどしない角度がまた、あざとい。
僕の目線が一瞬そこに惑ってしまったことは、残念ながらバレた…。これが…噂のトラップだったのだろうか。辛い。
そっと視線を外した僕に言及せず、軽く胸元に手を添えて笑んだ峰さんは、目を細めて口を開く。
「行きましょ。ここの荷物は私達が出たあとに研究チームが引き取りに来るから大丈夫よ。必要なものがあったらついでに経費で落とすから言って頂戴ね」
こ、声まで違うじゃないですか。どうやってるんだろう。
ひゃあ、と心の中だけで呟いて、僕は呪文の力で平静を保った。何とか「はい」と頷いて見せる。
峰さんが扉を開けると、既に白衣の研究者が数人集まっていた。
その内の二人ほどが、峰さんの笑顔に気圧されて下がる。
「ご苦労様。あとはよろしくね」
残りの研究者が小さく首肯。
その中の1人の女性へと、峰さんは再び笑いかけた。
「あら、マリアじゃない。…よろしく、ね?」
「…はぇ…。…あ…んた、まさかっ…」
顔を引きつらせた女性に、女声のままで小首を傾げ、峰さんは答えた。
「峰ですけど、何か?」
研究者達が一気に峰さんを見た。唖然とする顔、半笑いの顔…恐らく彼らが所持している峰さん情報の量によりそのような変化になるのだろう。ベテランっぽい人々の目には面白そうな色すら見受けられる。
唐突な視線の集中を受けながら、峰さんは微笑みを崩さない。
そして、名指しされていた研究者の女性は…怯えと嫌悪の顔でプルプルしたのちに、ひゅっと息を吸い込んだ。
陸衛さんがそっと耳を塞いだのが視界の端に見える。
「…ひ…いぎゃぁぁっ、このフジオ!」
予想以上の大きな悲鳴に、研究者達が一歩退いた。
…僕も耳を塞げば良かった。ちょっと後悔した。
「ふふ、相変わらずイイ悲鳴ね。でも、峰はアキノブなんですよー」
女声のまま可愛らしく笑って、峰さんが研究者達の間をすり抜ける。
僕らも慌ててそのあとに続いた。
女性は、まだ何か叫んでいた。
「知り合いですか?」
峰さんの隣に滑り込んで問うと、小さな男声が返ってくる。
「うん。彼女、なぜか僕に突っ掛かってくるんだ。面白いから別にいいんだけど。それでついつい僕も、からかっちゃうんだよね」
「…フジオって何です?」
聞いていいのか悪いのか。
よくわからなかったが、峰さんは特に嫌そうな顔をしていなかったので口にしてしまう。
「名字が峰だから。フジコじゃなくてフジオなんだってさ。あんなあからさまに僕に敵意を示してくる子って、今となってはなかなかいないから新鮮でねぇ。ちなみにあの人、阿部 マリアっていうんだよ。フルネームで呼ぶと怒るから気をつけてね」
「フジコって何です?」
僕の隣で、陸衞さんが問う。
どう答えたものかと悩んだ僕と違い、峰さんはにっこりと笑って簡単に答える。
「お色気美女の代名詞」
…えっと。
多分阿部さんはそんな、お色気にじゃなくて、峰さんの変装や諜報技術に対して言っているんじゃないのかな…。
そう思いはしたけれど、陸衞さんが「わかりました」と納得してしまったので、僕はもうそれ以上何も言わなかった。




