MISSION:サクリファイス(任務は始まっているようです)
「はい。僕はどこへ引っ越しを?」
それでも業務指示であれば拒否するという選択はない。
どこだって、今の部屋より悪いということはないだろうし。
気軽に考えている僕を見て、峰さんは仕方なさそうに目を細める。
「陸衞君に部屋を手配したんだけどね。熟考の結果、君にはルームメイトとして一緒に住んでもらおうと思ってるんだよ」
「…峰…!」
がばりと陸衞さんが顔を上げて。
「それは本当ですか!」
軽くなった肩に安堵した途端に、耳元を割と大きな声が突き抜けた。
…ちょっと、油断していた…耳がキーンとする。
一瞬顔を歪めてしまうほどだったが、陸衛さんは気が付かなかったようだ。何だか随分と興奮している。
「うん。ミチカ君の家、誰か出入りするって言うしマモレ課としても万一情報が漏れたら困る。もっとちゃんとしたとこに入居してほしい。…だけど、悪いけどミチカ君には…ここの居住区ならまだしも、外部に部屋を借りられるよう僕が手配する要素がないんだよね。そこで『熊』の日常調査員になってもらう。多少、生態観察はつけてもらわなきゃならないけど、ミチカ君を側につけるなら陸衞君はそれくらい許してくれるでしょ? ミチカ君には任務として、これをやってほしい。他の人間では、まず、できないからね」
「はい。ミチカなら、僕は全く構わないです」
即答する陸衞さん。
仕事と聞いて、僕は少し考え込んだ。
熊の日常調査員…一瞬動物園の飼育係が頭をよぎってしまったが、陸衛さんはむしろ熊の姿を見せないので、自宅が動物園になることはなさそうだ。
日常調査とは何をしたら良いのだろう。今までやったことのない仕事だ。
失敗しないように、きちんと理解してから始めなければならない。
ポケットを探ってメモ帳を出すと、峰さんがそれを手で制した。
「大丈夫、簡単だから。記録簿はこちらで用意するし」
「ですが、生態観察と言うと、具体的には何を?」
多分どれを取っても未知だろう。
研究員が求めるデータがどんなものか、僕にはわからないのだ。
それでも確実に他人を傷付けるための仕事ではなかった。今、詳細を教えてもらえるのかと、実は少しワクワクしながら待っていたのだが…続く言葉には少し困惑した。
報告すべき内容は…どうやら全く特殊なことではない。いや、ある意味では特殊か?
「『熊』が何時に起きて何食べた、とか。何の鉢植えを置いたら喜んだ、とか。観察日記みたいなものをつけて。僕らとしてはぜひ欲しい情報なんだけど…ほら、如何にも研究対象みたいで気分が良くないでしょう。陸衞君自身に記録してもらおうかって悩んでいたんだけど、現場の様子を聞いてたらね。ミチカ君の家のセキュリティ、『熊』の生態調査、陸衞君のメンタルケア、全ての問題が君を生け贄にすれば解決するなって思ってさ」
その表現は一体どうなのか。
笑いを堪え、わざと真面目な顔を取り繕って、僕は峰さんに頷いて見せる。
「そうでしたか。生け贄は初めての仕事です」
「今時、したくてもなかなかできない仕事だよ。ミチカ君、やったねっ。僕ね、今回の君の成果は絶対に上に交渉して、手当に還元させてみせるから。もう食わなくていいから、陸衞君に余った鮭全部やんなさい」
次第に言葉が砕けてきている。
この状況で、峰さんもまた少し興奮状態にあるようだ。僕も、結局堪えきれずに笑ってしまう。
「ムゲン君は予想外だったから、改めて部屋を手配するよ。それまでは陸衞君と一緒に…なに、要らないの?」
「ムゲンは管理されるのを嫌がるので。僕らの中で唯一戸籍がありますし、勝手に上手くやります。それよりも、あの。様子を…聞いていた、というのは…?」
陸衞さんが小さく呟いた。
僕の肩にしがみつく腕が、きつい。痛い。
「すみません、僕、盗聴機が幾つか付いていて。色々と峰さんに筒抜けでした」
「そ。れ、は…聞いてませんよ…」
でも、聞かれて困るようなことなんてあっただろうか。
相手の衝撃の受けっぷりが理解できなくて、僕は重ねて「すみません」と口にしてみる。
「ごめんね、陸衞君。当初は接触の可能性も低かったし、緑地の様子が知りたかっただけなんだけど。でも、お陰で妨害電波にも逸速く気付いたし、今後の対応も適切にできると思うから許してほしいな」
峰さんの弁解に、少し陸衞さんの力が緩む。
しかし、彼の声はまだ硬い。
「…ミチカしかいないと思って色々喋ってしまいました…どうしよう。大変に恥ずかしいです。峰の対応の良さはそのせいですか…通信機で話したときも、確かに状況を理解していて…」
陸衞さんの呟きを聞いた峰さんは、少し意地悪そうな笑顔を浮かべた。
すぐににっこりとした顔にすり替えて、語り出す。
何だか悪戯でもするような雰囲気だ。
「大丈夫だよ、陸衞君。君がヒグマと聞いて、僕には全て合点がいった。ヒグマの獲物への異様な執着は本能だからね。幼いミチカ君を狩り残した獲物だと仮定すると、君の行動は熊としては理性的だったし、山を下りるという決断への早さにも理解ができる。ミチカ君は参考までに、開拓史におけるヒグマ事件を調べておきなさいね。獲物に対するヒグマの執着の怖さがわかる。本当に君、4メートルの熊に付け狙われておきながら、食われないというのは救いだよ。…陸衞君で良かったね…」
一気に言われた内容を飲み込むより先に、峰さんが僕に向かって合掌している。
なぜかいきなり縁起でもない感じに!
「…え…? ちょっ、合掌しないで下さい、何なんですか、峰さんっ」
うわぁ、と声を上げた陸衞さんが、勢いよく僕の後頭部に突っ伏した。
目の前に火花が散った。
涙が出そうになる。ハナとか各種諸々も。
陸衛さん、僕より石頭だ。
なかなかの強打で痛みに言葉を失う僕とは対称的に、陸衞さんは蹲ろうとでもするかのように頭部を下方へ下方へと下げようとする。
下がらない。そこに僕の頭がある以上はどうしたって下がらないんだ。
むしろ下げられると、ぶつけられたとこに接触して余計に痛い。
陸衛さんは僕の苦しみなど頓着せずに、尚グリグリと頭を沈めようとしてくる。無理だよ、そこには関節とかないから曲げようがない。傾けて負荷を逃がそうにも、きついホールドはそれを許さない。
それ以上押し込まれると頭蓋に影響が出る気がする。
「痛い。陸衞さん痛いです、頭がへこんだら、多分僕死にますからねっ」
「言うことはそれだけですか、ミチカ」
慌てて抗議するが、陸衛さんは呆然としたような声を返してきた。
陸衛さんはびっくりするほど顔を強張らせているが、峰さんは平時の涼しい顔をしている。すごい対比だ。だが、つまりは峰さんの見立てでは、問題は起こりそうにないんだろう。
陸衛さんに言うこと…何かあったかな?
とりあえず確認だけしておくか。
「…えぇと。僕、獲物なんですか?」
「うわあぁぁ…。そうだったんですかね…それなら仕方ない、仕方なかったです…」
「痛い、本当に痛いですって!」
こんなに動揺した様子の陸衞さんは初めてだ。
だが、いよいよ限界を感じる。峰さんの見立てが間違っていたとは信じたくないが、これは病院送りになるかもしれない。入社したてで休職に追い込まれるのは嫌だ。いざとなったら正気に戻るまで鎖で…と右手の指がびくりとしたところで見兼ねたムゲンさんが飛来し、陸衞さんの顔に何度か羽根を叩き付けた。
羽根が舞い散る中、僕はようやく解放される。ちょっと峰さんの方に逃げた。
うぅ、ひどい。痛い。熊の力にはさすがに勝てない。
こんなことで自分の人間らしさを確認なんてしたくはなかった。
「ご飯食べに行くんでしょう。あんまり外で懐かないようにね。梟を連れて入れる店は希だから、服を買ってあげてからのほうがいいね。…となると、それはミチカ君だけでは無理かな。待ってて、僕も行くよ。参加していい? あ、全部経費で落とすから安心してね」
「お仕事はいいんですか? でも、一緒に来て下さると大変助かります」
思いついたように峰さんが言ったので、僕は少しほっとする。
経済的にも心理的にも、女性物の服を買うのは気が重かったんだ。
峰さんが、にやりと笑った。
「庁舎の外に出るのも久し振りだな。ミチカ君にも初披露だね」
「…何ですか?」
思わず問いかけたが、彼は片手を軽く振って笑うだけだ。
「僕はすっぴんで外になんて出ないってこと。素顔はマモレ課でしか見られないんだよ。悪いけど部屋まで戻って着替えてくるから、何なら僕の冷蔵庫からゼリー出して食べてもいいよ」
そう言って峰さんは出ていってしまったけれど、2人ともまだお腹はもつという。
上司の非常食には手をつけないことにする。
とりあえず荷物をできるだけ整理してしまおう。機材は壁際にまとめておいて、提出する採取物はラベルと中身を確認して机に並べる。その様子を見ていたムゲンさんがクルクルと何かを言うが、陸衞さんはしゃがみ込んだまま、通訳してくれない。
クルルー、クルクルルー。
「…えぇと。わからないです、すみません」
盗聴機と発信機を外して机の上に並べる。
作業服の本物のボタンは、峰さんが持っているのだろうか。
ホゥホゥー。
「いや、だから…わざとやってるんですね?」
目を細めたムゲンさんが、ものすごい角度に首を回す。
「首はもうくっついたんですか? まだなら、あんまり回すと取れちゃいますよ。…退屈なのかな。…陸衞さん、通訳して下さいよ…」
全く意図が汲めなくて困る。
ちらちらとムゲンさんを気にしつつ、作業に取り組んだ。迷彩服とヘルメットを机の上に出すと、ムゲンさんはヘルメットを蹴飛ばした。
「あっ! やめて下さいよ」
ごろごろと転がったそれが机から落ちかけるのを、慌ててキャッチする。
そっと机に載せ直した途端、走ってきた梟がコッツコッツと恨めしそうにヘルメットを嘴でつつく。
思わず吹き出すと、満足そうに鳴いた。
やはり、彼は退屈しているのかもしれない。
「そうだ、ムゲンさん、残りの人達のことを教えて下さい」
棚からアルバムを取り出して、集合写真を開いて見せる。
ちょんちょんと机の上を走ってきたムゲンさんが、一声鳴いた。陸衞さんが顔を上げ、こちらに近付いてくる。
「本当だ…わぁ、懐かしいですね」
笑顔が戻った陸衞さんに少しほっとする。ムゲンさんが僕の顔を見て首を傾げた。
聞きたいことを、口にしてもいいのだろうか。
ただの鳥の本能的な動作を勝手に解釈していたなら、ちょっと恥ずかしいけど。
「猫さんはこの方ですか?」
写真の少年を指で示して見せる。
梟は頷いた。
峰さんの推論は当たっていたようだ。続いて、少年の目線の先にいる青年を指す。
「では、こちらは犬さんですか?」
「そうです」
陸衞さんが答え、ムゲンさんもクーと鳴く。
判明した犬、猫、熊、鳥を除けば…残っているのはどちらも少しシニカルな様子の青年が2人。
「どちらが蛇さんでしょう」
陸衞さんとムゲンさんが同時に1人を示す。
ほっそりとして色白の青年だ。若干、周囲の人間との間に空間を置いている。
最後の1人、狼は逆に日焼けしていて筋肉質な感じ。
「ムゲンは狼と交流があるのでしょう? 連絡は…取れないのですか…そうですか。蛇はきっと社に戻ったのでしょうけれど、詳細な場所まではわかりませんね…。密度の濃い時間でしたのに、僕らは、結構お互いのことなんて知らなかったのですね」
少し寂しそうに溜息をついて、陸衞さんが言う。
彼らが写真を見つめているので、アルバムはそのままにして、僕は再びリュックに向き直った。
「ミチカは聞かないの? アタシ達が犬を殺したこと。もっと詰るかと思ってた」
追求しないことがおかしいと、ムゲンさんが意味深に笑った。
「…それは…、僕が口を出すことでは…って、ムゲンさん、全裸じゃないですか!」
ムゲンさん本人の声に顔を上げると、彼は一糸纏わぬ姿で飄々としている。
…あーあ。
僕は今、きっとチベットスナギツネのような顔をしていることだろう。
嫌なものを見てしまったと、言わざるを得ない。
「言葉が通じないの面倒になっちゃったぁ。ミチカだし、もういいかなーって」
「…ちょっと。裸で机に腰かけないで下さいよ。普通にその辺使うんですから、何か嫌です」
額を押さえて溜息をつく僕に、ムゲンさんが腕を伸ばす。
面白がるような気配。
ムゲンさんに危害を加えられると思ったわけではなかったが、これはもう身についた反射のようなものだった。咄嗟に後ろに飛び退く。
警戒態勢になっている僕に、ムゲンさんは楽しそうだ。
嫌がられるならまだしも、楽しまれる要素はないと思うのだけれど…。
「ムゲン、戻りなさい、目障りです」
ぴしゃりと陸衞さんが言う。友人に向ける語調ではないような気がする。
けれどもムゲンさんは全く気にしない。それどころか平気な顔でこちらへウインクしてくる。
「ミチカの服ならアタシ着られそう。彼シャツみたいな感じで可愛くなぁい?」
引きつりかける口元を何とか堪えた。
ムゲンさんは陸衛さんほど身長は高くないし、すらりとしている。
けれどもやはり成長途中の僕とは違う大人の体格をしているから、そもそも着られないとは思うけれど、そんな言い訳をしながらもちょっと、その…貸したくない。
具体的に言うと変にフローラルになって返ってくるか、用途をごく局地的に限られそう。普通に使ってくれる気がしなくて嫌だ。
「二度言わせないで下さい。無理ですよ、ミチカの小ささを見なさい」
陸衛さんの言葉がやけに耳についた。
…そんな言い方はないのではないだろうか。
確かに陸衛さんから見ればそう見えるかもしれない。だが、そう言われると何だか腹が立つ。
「訂正して下さい、大きくないだけです!」
「…ミチカの、大きくなさを見なさい」
何だろう。僕も彼も至って真面目なのに。
わざわざ訂正させてみたその言葉は、何だかしっくり来なかった。




