ミチカと峰、熊と鳥。
無表情の峰さんを見るのは初めてだ。
相変わらずの資料室での対峙。
経緯を説明し終わっても、返事がない。
…お怒りなのだろうか。
どの段階で盗聴器の音声が復活したのかはわからないが、全行程を余さず知りたがっていた峰さんだ。だというのに謎の組織に妨害されて途中から状況を把握することはできず、フォローするべきはずの僕は、連絡も入れずに戻ってきてしまった。
監視課の足止めに素早いクレームを施した彼が、この現状に憤りを抱えていても、何ら不思議はない。
弁解させてもらえるのならば、僕がヘリの中で通信機を出すのは現実的ではなく…だって既に救助隊員の方はマモレ課と無線で通信していたから…。
駄目だ、この程度の弁で納得させられる気はしない。
恐る恐る説明を終えた僕は、陸衛さんの肩にとまっているムゲンさんを示した。
「…それで…ご連絡できなかったんですが、こちらが梟のムゲンさんです。着ていた迷彩服がお気に召さないそうなので今は元の姿でいます。一応、どこの組織か手がかりになればと思ってムゲンさんの服は持ち帰りましたが…期待はできないかもしれません」
リュックから出したガラス片と薬品のケースを机に置き、更に峰さんを窺う。
未だ無表情…いや、採集物に興味が向いた。少し、先程よりも目が細められている…?
「できるだけ持ち帰ってみましたが、この薬品でムゲンさんを思い通りに指示していたようです。鳥のままだと人の言葉は上手く話せないそうなので、服を調達してくれば直接お話できるかと思います」
「ムゲンはナルシストなので多分適当な服を与えても着ないでしょう。連れたまま買い物に行かねばなりませんし、結構面倒ですよ。しばらくは鳥のまま置いておけばいいと思います。僕が通訳…え、あぁ、そうでしたね。用意するなら女性の服にしてほしいそうです」
思わずムゲンさんを見つめてしまった。
ふるるっと首を振った彼は目が合った僕を小馬鹿にしたように見る。続けて目を細め、低い声で梟が鳴く。何だろう。何を言われたんだろう。気になる。
陸衞さんが言葉を続けた。
「ムゲンは性別を偽って潜伏していたんです。色々と事情があるものですから」
ハッとして僕は姿勢を正した。
そうか。潜伏時に変装するのは何もおかしなことじゃない。たまたま僕には今までそういう機会はなかったが、状況によっては女装が必要なことだってあるかもしれない。
僕らのような人間は、周囲に疑われないことが、まず一番大切なのだ。
「うん。槙島博士の亡くなった娘さんとすり替わったんだってね。…やっと辿りついたばかりの情報だったのに。僕らの情報源は、槙島博士が暗号化して残した文書が主なんだ。今回の北海道もそう。熊は北に帰るだろう、ここには彼を引き止めるだけのものがない、とね。他文書の断片と繋ぎ合わせて大まかな位置を特定した。君達のことを案じて、知人や友人に宛てた手紙なんかも出てきてるよ」
「…そうでしたか。…ムゲンが見たいそうですが…僕らがそれを閲覧することは可能ですか?」
「今すぐというわけにはいかないけれど、後々は解読を手伝ってもらいたいな」
ようやく、峰さんの纏う空気が和らいだ。
ふぅ、と小さく溜息をついて。それから、こちらへ微笑む。
それを見て、僕の肩からもようやく力が抜けた。
「ミチカ君、本当にお疲れ様。何ともまぁ…急激に。事というのは、動くときには動くものだね。僕らが何年かけて文献を解読してきたと思っているのか…」
片手を陸衞さんに差し出して、峰さんはにっこりと自己紹介をする。
「改めて、僕が峰です。マモレ課へようこそ。ご協力に感謝します」
その手を握り返した陸衞さんは、躊躇うようにムゲンさんと目配せをしたあと、口を開いた。
ムゲンさんは陸衛さんの肩の上で、なぜか宙に片足を蹴り蹴りしている…。どういう会話をした結果そうなっているのか、とても気になる。
「よろしくお願いします。会って早々ごめんなさい、…実は峰にお願いがあるんです。もちろん僕らもできることはしますが…」
「うん、わかるよ。仲間の捜索だね? 元々そのつもりではあるけれど、今の話を聞いたところ、僕もそれは急務なんだと思う」
簡単に、峰さんは頷いた。
再び陸衞さんはムゲンさんと顔を見合わせた。
困ったことに話が見えていない僕は、大人しく待機。下っ端とはそういうものだ。
「一度は梟を押さえた組織だからね、油断はできない。他の人達に手を伸ばす前に、皆をマモレ課で保護してほしいんでしょう?」
僕がわかっていないことを察知した峰さんが、わざわざ説明してくれた。ありがたい。親切すぎる上司に、労働意欲が鰻登りだ。頑張るぞ。
ああ、そうすると「猫だけは心配」という言葉もそこにかかっているのか。
一番年若い姿の猫を、年長者として心配しているのだろう。
年長。
…陸衛さんは話を聞くに三百歳オーバーだ。他の人達は一体幾つなのだろう。
しかし特に、ムゲンさんには聞きにくい感じがする。別に女性ではないのに、何となく聞いたら「失礼ね!」と怒られそうな感じがする。
「…ええ、そうなんです。狼や蛇はまだしも…猫が。あの子は一番若いですし、姿も人里に馴染みやすい…つまり見つかりやすい。性格も…何というか少し危なっかしくて」
それから、陸衞さんは僕を見て。
しかし僕が見上げると目を逸らして、峰さんのほうを見る。
何だろう。
「ただ、その。僕らは諸事情で…犬を殺害しました。犬に懐いていた猫は、僕らを許さないかもしれない。追々お話はします…保護を願い出ておきながら、猫から攻撃を受ける可能性もあるんです…それでも…お願いできますか?」
犬の殺害。
初めて聞く事態に僕は口を開きかけた。
けれど…誰に何を言おうというのか。
過去の事象を責め立てる気はないけれど、今何か言えばそう受け取られる可能性はある。それはよろしくない。思い直して、口を噤んだ。
でも…なぜ?
なぜ彼らは、仲間を殺さなければならなかったんだろう。
「うん。僕らは全員との接触を希望している。猫を探すのは全く問題ない。ミチカ君に行ってもらうけど、今の話、いいね? ほら。陸衞君は心配症だな、ミチカ君は任務に文句なんて言わないよ。…けれど、猫は資料が少なくてね、もしもどこか潜伏先に心当たりがあれば、是非提案してほしいな」
もちろん僕の疑問と任務は関係がない。
命じられたのならばきちんと仕事をするべきだ。迷わず僕は頷いていた。
陸衛さんが何だかうろうろと手を上げ下げして、こちらに何かを伝えようとしているが…うん、わからない。彼が熊だと思うと、むしろもうそれはクマダンスにしか見えない。顔に出さないように気を付けるけれど、ほんのり和む。
ふとムゲンさんが小さく鳴いた。頷いて陸衞さんが通訳する。
「普段どこにいるのかはわかりません。けれど、僕らは犬を殺したあと、研究所の庭に彼を埋めました。恐らくあの子は、犬の命日には必ずそこへ行くでしょう」
「…研究所…跡地。待って。犬の命日っていうのはいつ?」
ふと顔を上げた峰さんに、考える素振りも見せずにムゲンさんと陸衞さんが同時に声を出す。
「クー」
「八月十三日です」
「…そう…。あれは墓参りだったのか。成程。十三日ならもうすぐだ、好都合だな…」
困った。ちょっと可笑しかったのは僕だけらしい。
仕事中、仕事中。
口元に手をやって考え込む峰さん。
それを見て微かに首を傾げた陸衞さんに、僕は小さく耳打ちする。
「前に一度接触しかけたらしいんですが、逃げられてしまったそうです」
「そうでしたか。逃げてくれて良かった。いえ、あの子は『気にくわない』と判断したらすぐ戦いたがるのです。誰にでも挑んではいけないと何度教えても、人間に負けるはずがないと聞き入れない。勝ち負けの注意をしているのではないのですが…、うるさいですよ、ムゲン。僕のことはいいのです」
陸衛さんの話を邪魔するように、ムゲンさんがクッククック鳴いている。それが妙にリズミカルで、途中から全然、話が頭に入って来なかった。
完全にムゲンさんに意識が行ってしまったのは、仕方がないと思う。
「…え、ムゲンさん、何て?」
「…僕だって、何度注意してもすぐ人間に近付きたがる、と言うのです。…うるさいですね。嫌です、聞きません、もう。ムゲン、あっち行って下さい」
鳴き続けるムゲンさんを自分の肩からもぎ取るように鷲掴み、陸衞さんはぽいっと鳥を投げ捨てた。
その扱いに思わず口が開いてしまう。
華麗に宙で向きを変えたムゲンさんは小馬鹿にしたように「ホホーゥ」と鳴いて、近くにいた峰さんの肩に留まった。
ガクンと峰さんの肩が揺れる。
いけない。峰さんはあまり重いものを持つのが得意ではなかったはずだ。
僕が持ちます、と言ってもいいものだろうか。
さっきのクマダンスさながら手を上げ下げして心配する僕にちらりと笑んでから、峰さんはムゲンさんへと声をかける。
「…結構、爪が痛いな…悪いけど僕には重いから、こっちの、そう、そこら辺の椅子の背もたれにしてくれる? 止まり木も用意しなくちゃいけないんだね。…はぁ」
ほんの幾秒かのそれだけで肩が凝ったのか、峰さんがぐるりと首を回す。ボグキ、ボキガキッと重い音が連続して響き、僕は竦んだ。
何か…僕の知っている肩凝りと音が違う…。
困惑する僕の後頭部から肩へと、突然ずっしりと伸し掛かる陸衞さん。
陸衞さんとの接触には多少慣れてきたが、それでも死角から来られると、ぐっと気を付けないと手が出そうになる。
「…どうしたんですか、重たいです」
「ムゲンが悪いので、彼に言って下さい」
「…えぇえ…」
一体何を言われてこうなったというのか。もし「伸し掛かれ」と言われたのであっても、本当にそうする理由なんて何もない。ムゲンさんに何を言われていたとしても、僕に伸し掛かる理由はないのではないか。
やけに乱暴な責任転嫁をされて苦笑する。
ムゲンさんと陸衛さんは何だかんだと言いながら仲良しなのだろう。野生故か少々豪快なところはあるが、彼らを見ていると、仲良く喧嘩する猫とネズミを思い出してしまう。如何にも強そうな羆の方が、ちょいちょい負けて見えるので余計にそう感じるのかもしれない。
本気を出したなら、さすがに熊と梟では戦いにならないような気がするものな。
右手で口元を覆って小さく笑っていた峰さんが、思い出したようにこちらへ声をかけてきた。
「ああ、そうだ、ミチカ君。君には引っ越してもらうことにしたから。今日は帰ったら、荷造りしてね。明日と明後日も君は休暇だ。終わり次第荷物を運ぶから、荷造り出来たら僕に電話して。もし2日かけても終わりそうになかったら、やっぱり一旦連絡して。何時でもいいよ、大体ここにいるから」
全く予想外のことを言われた。なぜ、引っ越しなんて。
2週間前…緑地に行く前には、そんな話はしていなかったはずだ。僕が聞き逃してしまったわけじゃないよな。意図がわからなくて、つい、きょとんとしてしまう。




