闇、もしくは病み。
何でもないと片手を振って、僕はその場を後にした。『熊』と『探索任務』とはいえ、時間は限られている。せっかく峰さんが、僕の勝手な目的を、上手に命令の中に紛れ込ませてくれたのだ。何かしらの成果を上げないといけない。
次の扉を開けた。
ここも、物置のようだ。そんなに物置ばかりの家、だったか?
記憶は少しも甦らない。
けれども、考えてみれば、この家には僕と祖父しかいなかったはずだ。
使わない部屋が物置になるのは何の不思議もない。
詰まれて縛られた本。
ビニール袋に包まれた上着類。
四角くて大きな、お煎餅の空き缶には油性マジックで「帽子、手袋」等と書かれている。
眺めていくうち、僕は凍りついた。
実近の冬服。
油性マジックで書かれた箱の前に、無意識のうちに膝を付いた。
これは。…ミチカ?
子供は僕だけだ。
これが子供服なら。僕は、『盤乃沢 実近』という名前だということになる。
震える手で、箱を開けた。
「…これ…」
呟いたことにも気がつかなかった。
見覚えがある。
僕の、服だ。間違いない。
そうか。僕の名前は、そう書くのか。
実りの秋が近いのなら確かに晩夏なのだろう。
夏よりは遅く、秋よりは早い。それが僕の名の由来だ。
「…成程…あはは、思いつかなかった。これじゃ、サネチカかと思うじゃないか…」
だってこれを見て一目でミチカだなんて読めない…読めないよね?
僕が捻くれているだけで、素直に読めば読めるのか?
…施設の同期達を思い出す。
英単語を模したような名前が多かった。僕が含まれた世代カテゴリーから察するに…うん、サネチカでなくば、多分ミニアだな。男女不詳の、半端に英語にされてるやつ。
「…誰が付けた名前だったんだろ…」
知りたい気はしたけれど、きっともう誰にもわからない。
祖父の日記でもあれば別かもしれないが…いや、もしもあったとしても、読むまい。僕の好奇心のために人のプライベートまで暴くのは良くない。僕が暴いていいのは、僕のものだけだ。
そっと箱の蓋を閉じた。
心のどこかが少し、満たされた気がしていた。
立ち上がって、膝を払う。
押し入れの奥を覗くけれど、アルバムらしい物は見当たらなかった。祖父の顔を見てみたいのに。
「ミチカ」
呼ばれて振り向いた。
今度は空耳ではなかったようで、戸口に陸衞さんが立っている。
「はい、どうされました?」
足元の荷物を跨いで戸口へ戻ると、彼の目線が下に落ちた。
つられて目を遣る先は…膝の汚れだ。
埃が布目に詰まってしまっている。
「…うっかり、やってしまいました」
「駄目じゃないですか。せっかく上着は無事だったのに」
「…面目ないです。名前の漢字がわかったので、つい興奮してしまって…きっと洗濯したら落ちてくれると思うんですけれど…」
泥じゃないのが救いだろうか。汚したくなかったのは本当なんだ。
払った程度ではあまり落ちてくれない汚れを、もう一度払う。
陸衞さんは面白そうに問いかけた。
「どうして汚したくなかったんですか? これは作業服だから、汚れてもいいように着るものでしょう? 汚すのが正解なのではないですか?」
それはそうだ。そうだけれども。
「…支給品…だからです…」
「破損したらまた支給して貰えるんじゃないですか? 罰則があるんですか?」
「…それは…わからないですけれど。…職場、好きなんです。だから、せっかく貰えて嬉しかったので、大事に着たかったんです」
峰さんに筒抜けじゃないか。恥ずかしい。
しかし答えないのは陸衞さんにとってみると不審なので、答えないわけにはいかない。
「聞いていませんでした。貴方が働いているのはどんな場所ですか?」
これまた、悩ましい問いだ。
試用期間中の僕には職場の重要な情報など与えられてはいなかった。好きだと言っておきながら、僕は実際、マモレ課のことをほとんど知らない。
そして、無意味な嘘は付けなかった。
「あの…特別防備管理庁の防衛任務遂行課というところなんですが…まだ遂行任務に就ける人材は集まってないそうです。課長の話によると悪と闘うそうですが、峰さんによると正義など曖昧だと…僕も試用期間なので、ちょっとまだよくわからないんです。ただ、僕が施設に出した就職希望は『人を傷つけない場所』で、それが無理なのであればせめて『守るための場所』であることですから、まぁ、そのような場所なのではないかと…」
陸衞さんは案の定、微妙な表情をした。
「すみません…とりあえず陸衞さん達の捜索が当面の僕の任務です…。峰さん、あ、峰さんって僕の直属の上司なんですけれど、その方ならきちんとお話できると思うので、通信をお繋ぎしますか?」
「いいえ。貴方がよくわかっていないということがわかりましたので、今はいいです」
「…えっと…職場のことが知りたいのでは?」
「貴方の状況が知りたいのです」
「状況…ですか。僕の」
問われた意味も、興味の矛先もよくわからない。
陸衞さんは困ったように天井を仰ぎ、それから僕に目線を合わせた。
「聞き方がいけませんでした。もっときちんと言わなければいけませんね。貴方が故郷を出てから、現在までのことを教えて下さい」
「…ここを、出てから…」
「そうです。貴方が故郷を出て経験したこと、施設にいた間のこと、所属する職場が好きだと思うまでのこと。貴方はここでの記憶があまりないという。その理由の考察についてもお聞かせ願えますか」
ざっとこの短い半生について語れということだろうか。
特段隠すようなこともないので、さらりと伝えることにする。
それでも、…目を見て話すことはできそうになかった。
誤魔化したいことはたくさんあったから。
「身寄りがありませんので施設に引き取られましたが、そこは少し特殊な、暗殺や諜報のための要員を育てる場所でした。頑張ってはみましたが、僕は、どうにも求められるものには応えられそうになくって。施設は十五で卒業になります。本来なら暗殺者にでもなったのでしょうが、幸い今の職場へ推薦いただけて。その後の環境は良好で、充実しています。僕の記憶がないのは…よくわかりませんけれど、施設での生活がちょっとその…色々と強烈でしたので、そのせいで霞んだのかなぁ…と、思ってますね」
陸衞さんの視線が窓辺に投げられたまま、帰ってこない。
あまり余計な感情を挟まないように説明したつもりだったが…少しネガティブだったかな。まずかっただろうか。
「…えぇと。でも。そう。身を守る術を学べたことは良かったかな、と思います」
「ミチカ」
「はい」
「困りました…貴方は本当に困った子です。この後に及んで、良かったとは何ですか」
そんなことを言われても…。
良かったという結論に結び付けてはいけなかったのだろうか。かといって、あの日々をまるで恨み言のように語るのは間違っている気がしてならない。
早くに染まりきれば辛苦も速やかに失くしただろうが、僕が連れて行かれた施設で周囲に同調できなかったのは、特に誰かのせいではないのだ。
自分のせい? いや、それは認めない。
かつて僕は生き延びることこそ優先したが、現在は施設と距離を置いたことに安堵している。結果として、同調すべきではなかったということだ。
思案したままの彼は、確かに困っているようだ。
けれども、何について困っているのかがわからない。僕の答え方には問題があったのだろうか。
どうしたものかと悩みつつ、そっと話題の転換を試みてみる。
「ここでの暮らしは五年程度ですし、自己の確立期から考えるとしっかりした記憶は更に少ないでしょう。本当は、記憶自体はそんなになくても支障はないんです。ただ、名前の漢字を知りたかったのと…何より祖父については一つでも思い出したいのが本心です。貴方の仰ったようにアルバムを探したいのですが、今のところ発見できておりません。特殊能力で、何かわかりませんか?」
陸衞さんは更に深く考え込んだ。
彼の特殊能力が何なのかはわからないが、見たこともないアルバムなんて探しようがないだろう。それはわかっているし、期待もしていない。
手詰まりのこの空気に与える某かの変化と、できれば、実は特殊能力はこういうものだよという説明なんかを引き出したいとは思う。そのための発言だ。
しかし、彼に対して僕の試みはどうにも成功しない。
「…そうですねぇ…」
じっと窓を見つめたままの彼が、不意に頷いた。
「それもいいかもしれません。僕は、記憶の欠損が施設のせいだとは思いませんから」
「…え?」
「二階はある程度見終わったということですから、階下へ下りましょう。まだ開けていない扉が幾つかありました」
はい、と僕は返事をしたが、聞こえているのかいないのか、彼は一人でさっさと階段を下り始めてしまう。
…案外、気分屋なのだろうか…。
リビングまで戻ってみると、陸衞さんはじっと奥の扉を見つめて待っている。
先程、やけに見つめていた扉だ。
後回しにしたことに理由はあるのだろうか。結局入るのならばさっきでも良かったのでは。
「ミチカは強い子ですよね?」
陸衛さんは本当に気分屋なのかな。
唐突すぎて話題についていけないことが…しかし彼を人間の常識に当てはめることこそが間違いなのかもしれない。勧誘した以上、慣れるべきなのは僕だ。
「は、はぁ…どうでしょう」
「そうでないとお勧めしません」
「…そう…なんですか…?」
何の話をしているのだろう。
彼に動く様子がないので、僕は自分で探索を再開することにした。扉に手をかけると、視界の隅で陸衞さんが身じろぎをする。
一体何なんだ…と。思いながら扉を引き開けて。僕は納得した。
生い茂る緑に絡め取られた…白骨。
指先が扉から離れた。
「ミチカ」
僅かに後退る靴にも気づけずに、呼吸を忘れた。
自分の喉から、何か声が出た気もする。
この家に、祖父がいるのはわかっていたはずだ。何を今更。驚くことでもない。
これは。わかっていたことだ。
十年も前に。
僕が故郷を出たときに。
いいや、坑道へ入るときから。
もう、既にわかっていたことだ。
…なのに…何が、こんなにもショックなんだろう…。
ごん、と右上のほうで音がした。
痛い気もする。いや、自分の運動能力は知っている。何もないところで躓くわけがない。ならば、ぶつけることもないはずだけれど。じゃあ気のせいか。疲れているのかな。最近、あんまり眠れていなかったものな。自分の部屋より緑地のほうが熟睡できるなんて可笑しな話。
「ミチカ。あぁ、まずったかな。人間は妙に脆くて困ります。しっかりして下さい」
緑色の部屋か、変わった趣味だな。…緑色…壁が? 違うな、これは畳だ。あれ? そうだったかな。畳なら、十年も放置された家だもの、もっと色が褪せているんじゃないかな。苔かな。よくわからない。
うん。わからない。
何だか急に視界がぼやけて、薄暗い。耳の奥でキーンと高い音が響いていて。
あれ、僕は何をしていたんだっけ。
「ミチカ。ごめんなさい、ミチカ。お願いですからこちらを見て。僕が見えますか。…聞こえていませんね。外に出ますよ?」
何がわかっていたんだっけ。
何がわからなくなったんだっけ。
何だか思考が持続しない。考えなくちゃ、いけないのに。
…何を考えるんだったか思い出せない。
何だっけ。
別に………いいかな…。




