STAGE:盤乃沢家
「とりあえず、家の探索を試みてもよろしいでしょうか。もし扉を開ける手段をお持ちでしたら、手をお借りしたいのですけれど」
気を取り直して、僕は生家を示して見せた。
陸衞さんは思い出したように家屋に目を遣り、改めて扉を確認する。
「…問題は植物なのですよね?」
「そう思います」
「でしたら開けられます」
何の気負いもなく玄関へと歩を進めた彼は、無造作に扉の取っ手に手をかけた。
そして、何気ない動作で引き開ける。
ブチブチブチッと嫌な音が続いたが、それ以外に何もおかしな様子はない。
歓迎するが如く扉は開いた。まるで当たり前の動作。然程の力を入れたようにも、見えなかった。
僕が、どんなに力を入れても、びくともしなかったはずのもの。
立入りを拒まれているのではないかとさえ、昨日は思った。
祖父が、拒んでいるのではないかと、そう思ったんだ。
「ミチカ。僕が先でも問題ありませんか」
家屋へと入り込みかけた彼が、肩越しに振り向いて確認した。
呆然としていた僕は、慌ててその後を追う。
「は、はい。あの…手、痛くないですか? 結構、力が要ったでしょう?」
「いえ、特には」
小首を傾げてから、僕に笑って見せる。
「力仕事は得意です。こんなことでよろしかったら、幾らでもお手伝いしますよ」
その右手が、壁を貫いていた木の根を簡単に引きちぎるのを見て、ようやく僕は納得した。
資料にあった文言は無闇に読者を怖がらせようとしたものでは、恐らくなくて。
人に似て人でないものだと思い知らされた筆者が、自分の怯えを隠し、無理やり客観的に見せようとした文章だったのかもしれない。
「助かります。力仕事もそうですが、正直、一緒にいて下さることが何より心強いです。陸衞さん、本当にありがとうございます」
祖父を見殺しにした罪悪感で、後ろ向きになりかける僕は。
植物という邪魔者を、祖父の意思にさえ見立ててしまう僕には。
それがただの物体であり、打開可能な事象でしかないと見せつけてくれる彼の存在が、本当にありがたかった。
陸衞さんは、困ったように唇を引き結んで。
それから、困った顔のまま、笑った。
「僕、…僕ね、結構人間が好きなんですよ。だから。本当は貴方に謝らないといけないことが、あるんです」
「…僕に…ですか」
僕が謝ることはあっても、彼に謝られるような覚えはない。廊下の先の扉が二つ。目線で行き先を問われて、迷わず右の扉を示した。
扉を押し退けた先にはリビング。
窓ガラスを割った木の枝と対面するが、陸衞さんは無造作にそれをむしり取る。蜘蛛の巣を払うような動作で窓の外へと放り投げた。
「あの日。僕は本当は…貴方を山へ連れていってしまおうかと思ったんですよ」
「…え?」
「貴方も言ったでしょう、一人では寂しいのじゃないかと。実際、僕は寂しくて。つまらなくて。仕方ないことだと理解はしていても…ただ死ぬまで生きるだけの日々です。せめて人間の暮らしを眺めて過ごすことくらい、許されたっていいじゃないですか。そこに受け入れてもらえないことはわかっています。無理もしません。だから眺めるくらい…」
ぱきりと靴の下でガラスの破片が割れた。俯いてしまった彼が、溜息をつく。
「なのに植物の暴走で、人間達はいなくなってしまいました。僕は…ここから出るわけにはいかないのに。まだ、僕のことを覚えている人間がいるかもしれない。狩られるわけにはいかない。僕にも…、逃げて生きろと言ってくれた人達がいましたから」
でも。一人では本当につまらない。
そう言って、陸衞さんはこちらへ向き直った。
「そこに、貴方が現れた。保護者のいない、このままでは行き倒れて死ぬ子供。それなら、僕が拾ってもいいんじゃないかって。山の中へ隠してしまっても、生きてさえいればいいんじゃないかって。…実は悩んだんです」
伸ばされた手が、僕の頭に乗せられる。
「けれど人の子は、人の世で生きなければ」
一度。二度。
僕の上で往復するその手は、飽きる様子もなく頭を撫で続けた。
「こんなチャンスはまたとないと思ったけれど、諦めました。僕を生かした人間がいたように、貴方を生かした人間がいる。その方の思いを踏みにじることはできません。僕はまた、無為に生きているだけの日々を過ごして。そうしたら…ねぇ、貴方は来てくれたんです。こんなに嬉しいことはないと思いました。僕に会いに、また、ここへ来てくれた。仕事だっていい。理由なんて、何だっていい。そう思っていたら貴方は更に、自分が守るから一緒に来てほしいと言う」
撫でていた手が頬を掠めて、ぱたりと落ちた。
泣きそうな目をする相手に、何と言葉をかけたものかと悩む。
「人間は僕よりずっと脆いんです。なのに…僕を守るだなんて…。そんな馬鹿なことを言ったのは、貴方くらいです」
「…す…、すみません」
「本当ですよ、立場が逆だ。ましてやあの日諦めた、来るはずのなかった二度目のチャンス…貴方が相手では、また諦めるのは難しい」
両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった相手の髪に、僕は手を伸ばした。泣いてしまったのだろうか。かける言葉が未だに用意できなくて、僕は、彼がそうしたように一度、二度とその髪の上で右手を往復させる。
一人で生きるのは寂しい。それは、理解できる。
施設で気の許せる人間もなく過ごした日々でさえ、辛く思った。けれど、会話の一つも交わすことができない生活は…それよりもずっと辛いだろう。
「他の…方とも、会われていないんですか?」
「梟は二度、来ました。鳥は羨ましいです。元の姿でも目立たず移動できる」
『鳥』とは…、梟なのか。
深呼吸を三回して、陸衞さんは顔を覆っていた手を外した。泣いてはいないようだ。
「ごめんなさい…勝手なことばかり言って。僕のほうがずうっとずうっと年上なのに、駄目ですね、恥ずかしいです」
苦笑するようにそう言った彼の前に、僕もしゃがみ込んだ。
「こう…しませんか。僕は貴方を守ります。だから、貴方は僕を守って下さい。勧誘してはいけないと言われているんですけれど…僕、ここは勧誘のしどころのような気がします」
目を合わせて。もう一度。僕は言う。
「貴方のお力が必要です。僕が必ずお守りします。どうか、一緒に来て下さい」
陸衞さんは笑った。
嬉しそうに笑って、一言「はい」と返事をして、それから不意に抱きついてきた。想定外の事態に思わず悲鳴を飲み込んで身を竦め、僕はパニックになりそうな自分に呪文を繰り返す。
任務中、任務中、任務中!
施設の感覚で言えば、僕は今、三回くらい殺されていても文句の言えない状況だ。意図もなく、こんなに接近してくる人間はいない。
けれど。落ち着け、意図はない。
一般人には、きっと耐えられる事態なはずなんだ。
奥歯を噛み締めて恐怖を堪える。
「あの、本当に僕、清潔ではないので…」
声が震えていないことを祈った。
成功したのかどうかはわからないが、相手はそんな僕の様子を相変わらず気に留めない。
「潰さないように、限界まで自重しているんです。これ以上の自重はもう無理です」
「…そう…ですか…」
言われてみると、相手は巨大な熊だ。
施設の感覚でなくとも、本来なら死んでいる。
そう思うと、なんだ、どちらにせよ死んだか…と妙な冷静さが心中に満ちた。
おとなしく相手の落ち着きを待っていると、然程の時を置かずに彼も冷静さを取り戻した。僕の顔を見てにっこりと笑う。ご機嫌な様子で立ち上がった相手につられて、僕もすぐに膝裏を伸ばした。
「多分、梟にはまた怒られます。学習能力がない、人間を信じすぎだと、いつも言われるんです。それでも僕は人間が好きだから、仕方ないんですよね。…来世ではこんな熊の化け物ではなく、人に生まれたいものです」
「…陸衞さんが熊だったから、僕は二度も助けていただけましたよ。今だって。陸衞さんが熊だから、扉を開けたり道を拓いていただけてます。僕はとってもありがたいです」
「また。あんまり喜ばせないで下さい、思わず貴方を抱き潰したら困ります」
ベアーハグ。
…熊に絞められたらさすがに生き残れない気がする。
ふと、陸衞さんがサイドボードの上の写真立てを手に取った。
「あの日の子供だ。…似てますね、こちらの女性。親御さんですか?」
言われてその手元を見つめる。
記憶はないが、写真は確かに幼い僕のようで。
「…わからないです…。僕、祖父と暮らしていたと思うので…両親のことは知らないんですよね。これが母でしょうか…」
写真立てを置いていた記憶もなかったな。
渡されたそれをしばし凝視してみるが、僕の脳は何も思い出してはくれなかった。サイドボードの上へ、それを戻す。
「…写真帳が…どこかにあるのではないですか? 人間は写真を撮るのが好きです。誕生日や運動会から葬式まで、めでたくあろうとなかろうと記録を残す。僕達から見れば、貴方達はとても脆くて短命だ。そして、それ故に存在の記録に固執する。そう思います」
写真帳と言われてもピンと来なかったが、なんだ、アルバムのことか。
そんなものを見かけた気はしないけれど…僕はこの写真立てのこと一つ覚えていないのだから、探せばどこかにあるのかもしれない。
「そうですね…でも僕の記憶はここまでです。あとはどこに何の部屋があったかわからない。仏間と祖父の部屋がイコールだったのか…子供部屋があるのかも定かではありません」
僕には部屋は与えられていたのだろうか。どこでも開けてみるしかない。
と、不意に陸衞さんが振り向いた。
じっと奥の扉を見つめる。
「…どう…されましたか」
猫なんかは…何もない空間をジッと見つめることがあるとは聞く。熊もそうなのだろうか。
不安になって問うと、突然相手は一つ頷いた。
それから、僕へ目を向けて、微笑む。
「外から見ると二階がありましたから、上から順に回りませんか。子供部屋というのは大概二階にあるものです。何か残っているかもしれません」
「はい。でも…あの部屋、あれ、ちょっ…」
あの扉を見ていたと思うのに。
訝る僕の肩に手を掛け、くるりと向きを変えてしまうと容赦なく背中を押す。反射的に目線を扉に投げようとしたが、背後にいた陸衞さんのほうが大きいので視界が遮られてしまった。
「り。陸衞さん、どうされたんです」
「何がですか?」
「…なにが、って…」
密着度が高い。
先程までは先に進んでくれていたのに、急に僕を先頭にしたかと思うと、背中にぴったりとくっついたまま歩く。
「ミチカ、実は僕、特殊能力があるんです」
「え? なに…」
「歩くときは前を向いて下さい、ちゃんと見ないと危ないですよ」
振り向こうとしたら阻まれた。
思わず悲鳴染みた声が出る。
「今、ミシッていいましたよ僕の首!」
「ごめんなさい、でも折れてません」
振り向きかけた僕の頭を、手で無理に前方に向けた彼が言う。
全く悪く思っていそうに聞こえない。ひどい。ちょっと首が痛い。
「階段はこちらです。絶対に貴方の部屋があります。だから進んで下さい」
「…えぇぇ? あ、ちょっと陸衞さ…」
「後ろが詰まってます。ミチカは若いんですから、しゃきしゃき歩いて下さい」
「は、はぁ。すみません」
よくわからないが、押されるので進むしかない。
ちょっと急な階段を上りきると、またしても強引に左に向きを修正される。
「はい、貴方はここの部屋から探して下さい。僕はこちらを探索します」
ひょいと横から扉まで開けてくれる。困惑しながらも、僕は室内へと足を進めた。
…確かに、子供部屋のようだ。
何なんだ。特殊能力で子供部屋がわかるの?
まだ痛む首をさすりながら目線を彷徨わせる。
背後から長身の影はするりと消えた。陸衞さんは宣言通り別の部屋へ行くらしい。
「あれ。なんか…見たこと…」
ふらりと引き寄せられたのは棚に飾られた玩具。
割れたガラス戸をそっと寄せて、中身に手を伸ばした。
錆びたブリキの猫。
前足にの間に棒が通してあって、ボールに見立てた玉が挟まっている。何となく、その玉をくるくると指で回した。
引っ繰り返してみると足の裏に車輪がついている。更に眺めていると尻尾の下に、ぜんまい仕掛けの小さなネジがあった。
巻いてみると、尻尾はぐるぐる、底部の車輪はジージーとやかましい音を立てて空回りを始める。
うるさくて汚れていて古くさくて、何だか顔もいまいち可愛くない…けれど…どこか可愛い。
何だか懐かしい気がした。
足元の瓦礫を靴先で少し避けてスペースを作り、そこに猫を放してみた。本領発揮とばかりに走り出したそれに思わず笑う。
しゃがみ込んで眺めていると、やがて猫は侵入者である木の根にぶつかって止まってしまった。
持ち上げるとまだ動力が残っていたらしい。
少しの間ジージーと鳴っていたが、程なくして収まる。動きが止まるのを待ってポケットへと入れた。
立ち上がって辺りを見回すが、他に目を引くようなものは見当たらなかった。
本棚にある絵本はすっかり日焼けして背表紙の文字も読めなくなっている。タンスは開けても仕方がないという気がする。玩具箱もいいだろう。
思いついて机の引き出しを開けてみるが、劣化して黴びた紙が入っているだけだ。詰め込まれたそれには落書きか何かがされているようだが、ちょっと触る気にはなれない。他の引き出しも、折れたクレヨンや汚い消しゴムなんかが癒着しあっているだけ。
他へ行こうと、子供部屋を出た。
そういえば陸衞さんはどこへ行ったのだろう。
気配のある部屋を覗くと、壁に寄りかかって考え込んでいる彼と目が合った。
「ミチカ。収穫はありましたか?」
すぐに微笑んだ相手が、こちらへ歩いてくる。
ポケットに目を落としかけたが、中身を思い出して「いえ」と小さく返した。そうだ、記憶を探しに来たのに、錆びた玩具を拾って喜んでいる場合じゃない。
きょろきょろと室内を見渡すが、ここは…物置だろうか。
割れた窓から雨風が吹き込んだのだろう。段ボールや棚が泥まみれだ。
「ここで…何を?」
「特殊能力を働かせています。お気になさらずに、どうぞ他の部屋を回って下さい」
にこにこと言われてしまうと、突っ込むのも何だか無粋に思えてしまう。
幸い一階ほどのダメージはなさそうなので、道を遮るものがあった場合に呼べばいいだろう。僕の探索に付き合ってくれているだけなのに、休憩するなだなんて言えるはずもない。
「はい。あ、動かれないのなら少しの間、僕の上着を預かっていて下さいませんか。脱ぎたいんですけれど、どこも汚れていて置く場所に困っていたんです。支給されたばかりなので、泥汚れはつけたくなくて…」
「いいですよ、汚しません」
疑いもなく手を差し出す様に、少しの罪悪感。
けれどもこれは任務だから、念のため、峰さんがボタンを付けた上着を彼に渡す。
「ミチカ」
呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「…何ですか?」
「え。今…呼びませんでした?」
陸衞さんは心当たりがなさそうに小首を傾げた。
気のせいだったのだろうか?




