物事を行うのに必要な費用、活動のために必要な支出
『はい、峰です』
定時連絡のコール。
相変わらずの1コールで峰さんに繋がった。
しかしながら。
僕が勝手をしたことに…怒っているのだろうか。
通信と同時に色々と話してくれていた峰さんが、今回に限って名前しか名乗らない。
恐る恐る、僕は弁解を試みる。
「…あの…、第一次接触は警戒を持たれないよう短めにと思っていたんですよ…それで」
『気分的に、留守にしています』
「えぇっ? 峰さんっ」
まさかの職務放棄かと戦く僕に、五秒の沈黙。
しかし通信機はその後、順調に先輩の声を届け始めた。
『ほんっとにぃ…定時連絡が接触を切り上げる理由になるだなんて、皮肉な話だよ…。だけど定時連絡がなければ強制回収になるのがこの任務上の規定なのは確かなんだ。例えどんな理由があってもね。そういう意味では、君の判断は実に正しかった』
僕は悔しい、と峰さんが本当に悔しそうな声で呟く。
やはり、まだ話ができそうな状態だったのに、それを切り上げてしまったことが不満だったようだ。
「もしも対象を連れて帰ることができたら、彼の待遇はどのようになりますか? 今日は具体的な提案ができませんでしたので、明日会うときに話してみます」
『ミチカ君、本音と建て前を述べてみなさい。話はそれからだよ』
言葉に詰まった。
何を言われているのか…わからないわけでは、なかったからだ。
上司が無理を強いるのならば、僕が彼を守る…そう、言ってしまったせいだろう。
マモレ課の利益になるように動けないのならば、切り捨てられるかもしれない。
僕は、まだ試用期間中の身なんだ。例えば暗殺対象に情けをかけることや、己の能力を出し惜しみして任務を失敗することは、雇用主が契約を打ち切るに足る理由だ。
しらばっくれるのは簡単だけれど。峰さんは見抜いてしまう。
そして「正直に話せ」と言われたときに話さないのは、余計な疑念を生む。
もしかしたら、峰さんなら僕が本当のことを言っても、許してくれるかもしれない。そんな甘い気持ちが…実は半分くらい、あったので。僕は隠さずに話してみることにした。
「では、まずは建て前を。初接触では警戒を取り除くため、真実かどうかはさておき、如何に僕が無害であるかを見せる必要がありました。故に熱烈な勧誘は行わず、住処を探ることもしていません。何より追えば逃げるのは当然の心理、猫との接触が失敗した理由もそこにあったと考えます。…そして…峰さんだから、言いますけれど。僕の本音は、あの人に言った通りです。僕の恩人であるとわかった以上、無体な真似はできません。マモレ課をクビになるとしても、僕は彼が拒否する事柄には賛同しませんし、峰さんや課長に対しても…心苦しいですが、敵対すると思います。…申し訳ないです…」
吐き出してしまうと、僕は俯いた。
感傷、同情…それは仕事・任務と名のつく行動の前では邪魔なものでしかない。
『そう。クビになっても、言うことは聞けないというんだね?』
ぎくりとした。
僕は失敗しただろうか?
施設での日々が頭を巡る。
戻りたくない。
ここをクビになったら、僕はどうなる。
畳みかけるように、峰さんは言う。
『僕らが対象に危害を加えるのなら、あくまで君は、彼を守るというんだね?』
最後通牒を突きつけられているようだった。
それでも。
彼に危害を加えたくはない。もう…そんなことはしたくない。
「…はい。ここは正義の課だと伺ってます、僕は、…僕は人を傷つけない仕事がしたい。傷つけねばならないのなら…せめて何かを守るためでありたい…」
『…ふぅん。…そう…』
俯いて手を握り締める僕の耳に、ふふっ、と小さな笑いが聞こえて。
峰さんは急にいつもの調子で話し始めた。
『それでいいよ。僕だって危害を加えるつもりなんてない。上がそうしたがるのなら、対象を逃がすつもりでいるよ。君がどうしても守るというのなら、むしろ安心だね』
「…み、ねさぁん…。なんだ、もう…僕もうクビになったと思いましたぁ…」
急激に力が抜けた。
情けない声を出した僕をからかうように、通信機からは明るい声が聞こえる。
『だって。君はマモレ課を正義の課だと言う。課長も言う。だけど僕は、正義なんて曖昧だと思うんだよ。いつ引っ繰り返っても不思議はない。対象に協力をお願いするということはね、いつか僕らの正義が裏返った場合には、せめて逃げてもらわねばならないってこと。そして、そんな不確かな正義に身を寄せてくれと、甘えた寝言を抜かすってことさ』
返す言葉は見つからなかった。
いつか万が一のときは守ると言う…それは、万が一の事態がただの空想でなく、起こりえる可能性を十分に孕んでいることを意味する。
…そうだ。善意で人間に協力した、先の大戦。
日本が負けるや否や、人間は一方的に関係を清算。彼らは狩られる立場に一転した。
『更に。寝言であっても、言わねばならないのが僕らの仕事。…舌先三寸は僕の得意分野だけどね。騙すだけなら、もう飽き飽き』
過去の諜報活動を示唆しているのだろう。
やはり峰さんは、僕と同じような思いを抱えているんだ。
「…僕。クビにならない…ですよね?」
『ならないよ。君の代わりはそうそういない。まだまだ働いてもらうからね』
「良かったです。僕、本当は辞めたくなかったので…あぁ、良かったぁ…」
『…ふふ、意地悪してごめんね。あ、そうだ。僕、君を叱らなくちゃならないんだった。…鮭は経費で落とすからね。ちゃんと領収証を出しなさい。君のとこの特施は経理ってものについて教えてくれなかったのかい。鮭だけで一ヵ月も過ごされるのは困るよ』
予想外の話題になって、僕は固まった。
経費…だと…?
領収証なんて、一枚たりともない。
え。これ、一般人の常識なの? どうしよう。失敗した。
レシートがあれば、その日のうちでなくても買った店で書いてくれるのだろうか。
けれど思い返してみても、スーパーで買い物をした時のレシートだって、とっくにない。むしろ証拠隠滅が身に沁みついている僕は、ご丁寧に焼却処分した。時も経った今、店員さんが僕を覚えていてくれるとは思えない。
購入した証明もできない僕が「領収証を書いてほしい」と店を尋ねるのは、妙に不審ではないだろうか。良くない方向で記憶に残されそうな気がする。
頭の中で可能性を模索したところで答えは見えていた。完全に手詰まりだ。
「…領収証…、ないです…」
『言うと思ったよ。どこで買ったの?』
「色々です…近所でも…インターネットでも…ちょっと遠いデパートの物産展とか…あの、だって、なかなかいいシャケがいなかったんですよ。最終的に使ったシャケは結局、北海道グルメお取り寄せサイトのご贈答用で、熨斗が強制的に…あ、おまけで付いてきた折れたカニ脚は食べてしまったんですけれど、ロシア産だったし、うっかり解凍不足でちょっとシャリシャリ…」
『待って。怒ってない、僕は何も怒ってないよ、そんな意地悪だった? 君は今ちょっと混乱してるよね。落ち着いて?』
語ろうとしたところを制止され、僕はとりあえず口を噤む。
マイクを少し離しているらしいけれど、向こうで笑っているのが微かに聞こえた。…からかわれたのだろうか。今日は何だか、随分と馬鹿にされる日だ。
頬が膨れてしまいそうになる。文句が口から滑り出しそうになるのを忍耐で押し留めた。今は任務中だ、プライベートじゃない。
上司に食って掛かるのは良くない。施設でなら、処分されても仕方のない行為だ。
「…向こうの返答次第ではありますが、もし順調に引き抜くことができた場合、予定期間を切り上げたほうがいいですか? 主立ったポイントの水質・地質は調査済なんです」
仕事の話をしよう。
目の前にしながら、中に入れなかった僕の家。それでも、仕事が優先だ。
そう考えた僕の心を見透かしたように、峰さんは少し硬い声を出した。
上司の硬質な声音には、知らず背筋が伸びる。
『いいや。ぎりぎりまで粘ろうと思う』
それは意外な返答だ。
仕事を終えたのなら、速やかに離脱。それが施設で叩き込まれた基本だからだ。
だが、例外は当然、どこにでもある。
『理由は、対象との関係を良好に保つためだ。明日の接触について、マモレ課の話題は最低限…向こうの疑問に答える程度にしたい。できる限りこちらに引き入れるための話題を振らず、君への好意を積み上げる時間を持とう。君は過去に接触があるという点で、他のどの人間よりも彼の心に近い位置にいる。気負わなくていい、ただ仲良くなるよう努めてくれ。君との関係が良好であれば、今回こちらへと連れ帰れなくとも次の機会へと繋がる』
「…了解しました。やってみます」
『そのために、君の生家の探索を許可する。対象が人の姿のまま、どの程度の力を振えるのか、試すいい機会だ。植物に対してなら遠慮も要らない。玄関は植物に閉ざされていた様子だったろう。うまく入口を作れないか、彼に頼んでみてごらん。中の探索時にも、瓦礫を避けるとか、手伝ってもらうんだ』
最後の言葉は、悪戯っぽく響いた。
驚く僕に、峰さんの声は優しい。
『後悔のないように見ておいで。君の私的な部分をさらさせて悪いけど、恐らくそれによって対象の君への興味は強まるだろう。僕にはできない戦略だが…上辺を取り繕わずありのままで人と接することができる君は、警戒を解く術に長けているはずだ』
「…そ…そんな技術は僕には…」
『と、いうことで頼んだよ。通信機は持って行くといい、万一詳細な説明が必要な事態に見舞われたら僕を呼びたまえ。君は期待以上に良くやっているよ。以上だ』
通信は一方的に切れた。
一瞬、実は機嫌が悪いのではないかという想像が脳裏を掠めたが、即座に思い直す。多分、これは峰さんのハイテンション状態なんだ。
「…期待、以上…」
どうしても、顔が緩んでしまう。
呟いてしまってから、盗聴機で筒抜けだったことを思い出して赤面した。
何となく咳払いして誤魔化すが、盗聴機の向こうで笑われているという気がしてならない。
「…えっと。ご飯。晩ご飯を食べなくちゃ。峰さんも、またブドウゼリーばっかり食べてたら駄目ですからね!」
一人言になるのを承知で、声をかけた。
峰さんは僕が食堂へ行くときは気を使って一緒に食事を取ってくれる。けれど僕がおにぎりを持って行く等して食堂を利用しない日は、自席横の冷蔵庫からブドウゼリーを出して食べている。昼休み中に何個も立て続けに食べたりするので、あれは食事なのだろうと思う。ちなみに冷蔵庫は、私物らしい。
…対象は、鮭の他には何を食べるのだろう。
明日は、好きな食べ物から聞いてみようか。説得をしなくてもいいと言われたら、とても気が楽になった。それも、対象と一緒に僕の家を探索することが任務になったんだ。
峰さんは本当に僕の扱いが上手くて…僕はいつも、明日も頑張ろうと思う。
この職場で頑張りたいと、思う。
緑地の調査をして現地の状況を調べるのが任務。そこで対象の痕跡を見つけられれば御の字。対象と直接接触できれば、もう最高。そう言われていた任務で、接触に成功した。警戒されることなく、明日もう一度会う約束も取りつけた。上々だ。
だから明日は何とか対象と仲良くなって、一緒に行くのも悪くはなさそうだなって思ってもらって……いや、焦っては駄目だ。
このままでは僕は失敗をする。
落ち着け。既に一つ、ミスをしたはずだ。
野性の熊に荷物を奪われかけるミス。僕が荷物を地面になど置かなければ、起こらなかったはずのミス。結果がたまたま良かったからといって、驕ることはできない。
褒められて浮かれかけていた気分が、少し落ち着いた。
うん。大丈夫。
明日は『また会っても大丈夫な人間だ』と思ってもらう。それが目標だ。
関わっても不利益はない、無害だと、そう認識してもらうことが大切だ。欲を出すな。任務の際は常に思い出せ。如何に自分が無能な人間かを思い出せ。
任務に失敗するのは、手段や行動、タイミングの選択を誤ったときだ。
そうして取り返しのつかないミスをした時、僕は全てを失う。
本当の敵は他の誰かじゃない。いつだって、自分なんだ。




