第八十四話:ネーデの大地
「あー……やべえ、今更になって何か忘れもんしたような気が……」
出発の前というのは、どうしてこんなにも心がざわめくのだろう。
徐々に近づいてくるそれ(・・)と出発の時を目の当たりにして、悠は漠然とした気持ちに押されて、ふと呟いた。
「心配性ね。昨日何度も確認したじゃない。気のせいよ」
悠としては誰に向けた言葉でもなかったが、そばには気の合う仲間が何人もいる。自然と呟きを拾うことになったのは、荷物の確認に付き合ったシエルだった。
冒険者としての歴は最も長いシエルは、事前の準備の重要さをよく知っている。彼女もまた旅立つ前の準備は入念にするタイプだ。
だからこそ、シエルは知っている。まとめた荷物に不備はなく、万全といっても差し支えない状態であると。
二人のやり取りに、あたりから柔らかな笑いが聞こえてくる。
でも、とクララは前置きをして、小さな口を開いた。
「なんだかユウの気持ちも、わかる気はするけどね。そわそわするっていうか……」
「ん、アレを見てしまっては、仕方が無いかもしれないな」
続いたのは、カティアだ。
口元は苦笑いに歪み、眉も所在なさげに垂れ下がっている。
気持ちはわかる──言う通り、悠達の気持ちは、皆同じだった。
「前々から見てたし、アーク(これ)も同じようなモンだとはわかっちゃいるが……宇宙に浮かぶ大陸っつう異次元感は、やっぱこう、怯むよなあ」
眼前に広がる光景はあまりにも非現実的で、今ここに立っている事も夢幻の如くに感じられてくる。
悠達の眼前にあるのは──暗闇に浮かびながらも、その姿をはっきりと浮かび上がらせる、巨大な大陸であった。
背景には巨大な青い星。恒星から受け取った光を神々しくも優しく返す母なる惑星を背に、そこは──
「たどり着いたんだなぁ、ネーデに……」
ネーデと名付けられし、逐われた者達の楽園は存在している。
感慨深げに呟くクララの横顔に、悠はぐ、と眉に力を込めた。
滅んだと言われる人々にのみ伝えられた、存在すらも知られて居なかった楽園は、幻のような光景を背に──確かに、存在していた。
圧倒された。悠達の心境を語るのならば、この一言に勝るものはあるまい。
逸脱した現実を前にして、自分たちの存在がちっぽけに思えた。風が吹けば無重力の宇宙をどこまでも飛んでいってしまいそうな、全能感とは対極の感覚が身を包む。
しかし──悠は、自らの頬を張る。
この非現実の光景を待っていた少女がいる。その先にある光景を願って、今ようやく手が届く所まで来た。
「よし、行くか!」
だったら自分が入り口なんかで尻込みしているわけにはいかない。自分への一喝は、悠を信じる仲間たちをも奮い立たせる。
一つ大きな息を吸ってから、ゆっくりと吐き出す。
たどり着いた伝説に、悠達は一歩を踏みしめた。
◆
ネーデに上陸して少しして──悠達は、あたりを見回しながら道を歩いていた。
現在視界に広がるのは草原と、小高い丘。夜空よりもなお暗い暗黒の空──
「ここがネーデ、ですか。おもっていたよりも、ふつうですね」
「ああ、ちょっと不自然すぎるくらいにな。空は暗いのに地面とかはフツーに明るいし、何より、道がある。……っつうか轍っていうのか。間違いない、ヒトの痕跡だよな」
そして、ヒトの痕跡が、ネーデにはあった。
「向こうの大陸とかでも見た、ありふれた草原ってカンジだよな。そこがまるっと宇宙空間に放り出されたみたいだ。……そういや、ネーデもそうだったけどなんで息とか当たり前に出来てんだ……?」
疑問が一つ浮かぶと、次々と別の疑問が浮かび上がり、疑問点を結ぶ線が絡まっていく。
クララ達は『宇宙』という単語に首を傾げ、悠の解説を待ったが、悠はそれを気にしていられないほど思考に没頭していた。
宇宙に浮かぶ大陸。地上をそのまま切り取って浮かべたような環境が、どれほど異常な事であるか、悠には分かった。
お世辞にも学校の成績が良かったとは言えない悠だが、一般的な教養くらいはある。詳しい理屈は微塵もわからないが、宇宙で呼吸ができない事をはじめとし、生物が生きて行ける環境がどれほど奇跡的な条件の上に構築されるかは漠然と理解することができる。
『思ったよりも普通』な、いつも通りに活動できるこの環境は、宇宙という世界において異常そのものなのだ。
重力が存在する。光が存在し、植物が生きている、大気が存在する。惑星とは比べるべくもないくらいに小さいネーデが生物の生きていける条件を整えるのは、科学的には不可能だろう。
まるで、小さな『世界』そのものだ。悠のいた地球で大昔の人が夢想したような、平面の地球が、そこにはあった。
「……すごい複雑な魔法の力を感じるよ。風の、土の、木の──あらゆる魔力が流れて、働くようにされてる。だからかな、なんだかちょっと、魔力の流れが綺麗すぎる感じ」
そしてそれらは、紛れもない『意思』によって造られているようであった。
世界を創る。それは正しく神のみが成せるはずの、ヒトの所業だった。
「悠の言うカガクも、クララの魔法観も私にはわからないが、これはいよいよもって、という感じがするな」
ただ──何もわからなくても、それらの人智を越えた技であることは、全員が痛いほどわかっていた。
きっと、今までとは違う決定的な何かが、待っている。恐らくはあの小高い丘の先に──
はやる気持ちと、浮き上がるような感覚。焦燥と期待と不安がないまぜになって、悠達を突き動かす。
口数も少なに歩き続け、そして悠達は、それを見た。
「……でかい、壁?」
「門もあるわね。防壁、かしら」
距離感も狂うような、巨大な壁。汚れ一つ無い、眩いばかりの白を輝かせて、そこにある何かを取り囲む──時の流れからさえも守りそうな頑健な壁が、立っていた。
「あ……あれっ! あれって……っ!」
震える指先で、壁を指す。
アークの中央にあった施設以上に完全な姿を残す白壁に、クララから言葉にならない気持ちが溢れた。
今まで何度か文明の痕跡を目にしたものの、これまで完全な姿を残していたことはない。ひと目で見て分かるその頑強さと、汚れのなさは無機質にさえ見えるにも関わらず、人の技術が息遣いを感じさせた。
今までにない強い人の気配に、クララは溢れた言葉が詰まって、それを発することが出来ずにいる。
追い求めたものが、ようやく見つかるかもしれないのだ。それほどまでに濃い予感だからこそ、言葉を紡げずにいる。だってもしも、そこに何もなかったら──
「何にせよ、行くしか──確かめるしか、ねえよな」
やっと出たクララの問いかけを否定も肯定もせず、悠はただ白壁を見据え、呟いた。
『もしも』の可能性を考えたのは、クララだけではない。
悠達もまたクララと共にマオルの影を追いかけてきたからこそ、その心境が痛いほどに分かる。
だからこそ、悠がクララの手を引いた。
「でも……ううん、そうだね、行こう!」
僅かな逡巡の後、クララは前を向き、毅然と歩き始めた。続く形で悠達がその背を追い、小高い丘を降りていく。
星海の空を背にそびえ立つ白壁が、近づくにつれ大きくなる。
……思えば、旅の最中このように、明確な『ゴール』が見えた事はあっただろうか。
ある意味では輝きの台地がそれに当たるのだろうが、あそこは頂上に登ったその時でさえヒトの痕跡というものは見えていなかった。
対してあの白く大きな壁は、間違いなく自然にできたものではない、人造物だ。
そこに誰かがいるにせよ、いないにせよ、ひとまずの区切りとなることは間違いない。
たどり着くその瞬間が待ち遠しいようで──小さい頃歯医者で順番を待っていたあの時のような。悠は、不思議な感覚を覚えていた。
ただ、そんな感覚に既視感を覚えたからこそ、その時は必ずやってくるという事もわかっていた。
「……あらためて見ると、すさまじい大きさですね」
「ザオ教の神殿以上だな。こんな、継ぎ目もない壁をどう建てたのやら……」
たっぷりと三十分近くをかけて歩いた悠達の眼の前には、一層大きく見える壁が聳え立っている。
詳細な高さはわからないが、百メートルはくだらないだろう、と悠は思う。
現代の地球にはダムなど、人工の壁でこれよりも高いものが存在するが『なにか』を取り囲むような『大きさ』を含めれば、これは悠の知る限りで最大の建造物と言ってもいい。
──当然、それほどまでに巨大なモノが何の目的もなく造られているわけはない。
この壁に埋め込まれた門を見れば、その用途も想像ができるというものだろう。
堅牢な防壁。神の手さえ感じさせる雄大な盾は、一体何を守っているのか。
「……中の方もぼちぼち確かめなきゃだけど、どうやって入るのかね、これ」
だがその守りが堅固であるが故に、中を確かめる手段が無かった。
壁の中に埋め込まれた門は、壁に比べれば一回り低いサイズではあるのだが、それでさえあまりにも巨大で、悠達でも四・五人で押してどうにかなるサイズには見えない。
悠一人ならば壁を走るロックゴートの力を使って上から入ることもできるが、
他の者達は無理だ。
他の方法が考えつかなければ仕方がないが、それでもできることならばその中は全員で──少なくとも、クララだけは一緒に確認をしなければならない、そんな気がした。
「案外、クララが触れたら開いたりしないかしら。ほら、アークの時みたいに」
「ううん、どうかなあ。試してみるだけみるけど……」
もしもこの建造物がマオル族のものならば、クララを伴わない自分にはそれを侵す権利が無い。少なくとも悠はそう思った。
だからこそ、シエルの案にはなるほどと思う。『資格者』ならば、あの時のように門の方からクララを迎え入れてもおかしくはないだろう。
しかし──弾かれたようにカティアが手を広げ、門に向けて歩き出そうとするクララを、静止する。
「いや、待て! 門のほうが動いているぞ!」
カティアの言葉に、悠達は一斉に門へと視線を集めた。
言う通り、重い音と共に、門が開き始めている。
石の擦れる重苦しい音とともに、地面をも揺らして門が動いている。
開き始めた門の中心からは光が溢れ始め、悠は思わず腕で顔に影を作る。
が、それほど強い光ではないことに、そして光を背に立つ『何者か』がいることに気がつくと腕をどける。
──光の中に、立つ影があった。
旅の終着点で初めて見る、ヒトの姿に、それを追い求めていたにも関わらず悠達は言葉を失った。
やがて、開ききった門の奥に立っていたのは、簡素で古風な衣服を身に纏った──
銀髪の、人々だった。
「此度は随分と活力に満ちた方々がおいでなさったな。長旅の末によく参られた、旅の人よ」
銀髪の人は五人。中でも一回り歳をとった初老の男性は、抑揚なく、しかし柔らかな物腰で悠達にそう告げた。
優しい口ぶりは、敵意を感じない。いや、むしろ歓迎しているようでもある。
悠達が戸惑っていると、柔和な微笑みを浮かべた初老の男性が、クララにその優しげな視線を向ける。
「そして、君にとってこれが適切かはわからないが、それでも言わせてもらおう。おかえり、同胞の少女よ」
靡く銀の髪を見て、男性はそう発する。
数多の思いが嗚咽となってクララの口から漏れた。
塞ぐように口に手を当てるが、それでも溢れてくる何か激しい感情が、止まらない。
クララと初老の男性を見比べて──悠達もまた、暖かな気持ちから笑みを浮かべる。
見たこともない『故郷』と、自分を迎える遠くで血の繋がった人々達──少女の長い長い帰省の旅が、今ようやく一区切りを迎えた。




