③ 水のせいにして温め合ってたのに……
ここから、アリアンロッドの緊張の所以となっている“一仕事”の始まりだ。
ちょうど今、1年前の彼女はイナンナと、主の滞在部屋である離れの手前、崖の上にいる。そしてまたこちらの建物のグラウンドフロアに降りてくる。
「ヴァル、準備はいい? さっきの警備兵の衣服はちゃんと隠しておいた?」
ふたりはアンヴァルのいる地下牢へ続く、階段手前の客室に潜み、少しだけ開けた扉の隙間から、廊下の様子を窺っていた。
「ああ」
今からアンヴァルは過去のアンヴァルになりきるため、そのための衣服を着用している。
「ここからは急がないとね」
「あそこまで急がなくてもいいと思うが……」
アリアンロッドが慌て過ぎていたせいで、1年前のアンヴァルはろくに説明がなされなかったのだ。
「じゃあ私、行くから。衣類庫で待ち合わせよ」
アンヴァルが無言で頷いたのを瞳に映して、彼女はそこを出た。
間もなくアンヴァルは扉の隙間から、アリアンロッドが1年前の自分を引っ張り行くのを確認し、牢のある地下へと降りていった。
「少しは説明してやれよ……。あと、脱がすな」
アンヴァルはあの時のことを思い出し、決まりが悪く、拗ねた顔をした。
コツコツコツ──、空の牢内で寝転がっていると、狭い壁を反射する足音が聞こえてくる。
「アンヴァル、気分はどう?」
ゆっくりとした足取りでイナンナは彼との距離を詰める。
寝転んだままのアンヴァルの口角は、自然に上がっていた。目は笑っていないが────
「こんな牢内で良いわけないだろ」
「あなたのためにわざわざ隠れ場を用意するなんて、面倒だったもの。でも今なら大丈夫よ」
落ち着いた口調で彼をなだめながら、イナンナは扉を開けた。
「ある一室でアリアンロッド様と待ち合わせをしているの。出ていらっしゃいな」
イナンナによって彼が連れてこられたところは、3階西側の客室だった。北の崖寄りの方で、大きな窓から見えるのは山を覆う木々、もちろん下には川が流れる。
「アリアンロッドはどこに?」
「お手洗いへ行くと」
イナンナは窓をしっかりと開けた。
「ひとりで行かせたのか?」
「おひとりで行くとおっしゃって聞かなかったんですもの」
呆れたように話し、彼女はアンヴァルに背を向ける。
「私は用があるからいったん下がるわ。ここを出るなら夜明け前がいいでしょ? それまでふたりで待っていて。兵舎にいる護送兵への通達はどうする?」
「……頼む」
「準備しておくように伝えるわ」
そして扉の向こうに消えた。
「……猿芝居もいいところだな、互いに」
アンヴァルが窓から外界に目をやると、ちょうど霧が出てきた。
そろそろアリアンロッドの声が聞こえてくる。イナンナが窓を開けた理由がここにある。
彼の次の仕事は、それが聞こえたら、呼び声を返すことだ。
しかし彼にとってこれは、まったく気が重い。1年前の自身にこちらの存在を示唆する意味もあるが、主な目的はアリアンロッドを川に落とす引き金となることだから。
幾度話し合おうともアリアンロッド本人がそうしろと言うのだから仕方がない。そしてそれを助けるのも自分なのだから、一応、責任は果たしている。それでも彼女が絶望を感じた瞬間は消せない、という事実が心苦しいのだった。
そのように彼が悶々とする頃、とうとう聞こえてきた。自身の名を呼ぶ声が2度。まずはイナンナの、そしてアリアンロッドの声だ。
迷いを投げ捨てるように顔を上げ、
「……っ、アリア──!!」
アンヴァルは窓の外に向かい彼女の名を呼び返した。
◆◇◆
過去のアンヴァルを西側の川沿いに連れて行き、彼に「一年前の自分の救助」を頼んだ後のアリアンロッドは、厨房に戻っていた。
そこに入室した際、迎えてくれたのは満腹でご満悦の侍女クローバーだった。
「いや~~久しぶりにモリモリ食べたわ! これね、この生地の上に具材乗せて焼くとくっつくんだよ。それにこの生地でできた皮、もちもちしてるの!」
「へえ、それなら巻かなくても食べやすいのね」
「巻くつもりだったの?」
「うん、生地が薄ければ具材を包んで……。で、どの具材が合ってた?」
「なんでも大体合うけど、カエルの肉はさっぱりしててオツだよ! あとエビも良かった!」
クローバーが幸せそうで嬉しいアリアンロッドも余った分をつまむ。アンヴァルに持っていきたいなと彼女は思った。
「食べている暇ないかもしれないけど、一応包んで持っていこっと。じゃあ、おやすみなさい!」
アリアンロッドも軽食に満足し、厨房からまた出ていった。
「おやすみ~~。……あれ、あの子どこで寝るつもりなんだろ?」
クローバーがその夜いくら待っても、メイド用の寝室にアリーがやってくることはなかった。
日は完全に沈み、辺りは夜の静けさに包まれる。この暗がりの中で動くなら、アリアンロッドは目が慣れさせたほうがいいのだが──……。
「っ!」
「!? ……ん、アリアか?」
衣類庫に向かう途中、ちょうど3階から降りてきたアンヴァルと鉢合わせした。
「あ、ヴァル。良かった」
「暗いから気を付けろよ」
衣類庫まで辿り着き、アリアンロッドがそこの扉を開けようとした時だった。その手を押さえ、アンヴァルが止めた。
「?」
「あ、あのさ、俺が先入る」
「え?」
「お前はちょっとここで待ってろ」
「ん? どうして?」
この夜陰の中、アリアンロッドには彼が若干慌てている風なのが分からない。
「いいから、お前はここで」
「もう、今は時間との勝負だっていうのに」
何を思ってか彼がたどたどしく話すのを無視し、アリアンロッドは扉を開けた。
「何を言ってるの? ふたりでやった方が早…」
躓かないよう気を付けながらも、ずかずかと奥に進んだ、彼女の目に入ってきた光景は────
「ん? …………」
大事なものをすっぽりくるむように抱きしめられて眠る1年前の自分と、その自分の額に頬を寄せ抱きしめて眠る1年前のアンヴァルだった。
アリアンロッドは小さく、「うわぁ……」と呟いた。
「それはっ、そうしてないとお前の身体が冷たくなって、胸の病になったら困ると……」
後から入ってきたアンヴァルが、気を配った小声で言い訳をする。
「まぁ正直、俺も寒くて、熱が欲しかったってのも、まぁ……」
そこで振り返った彼女は、軽く握った手を口元に寄せ、はにかんだ笑顔で言うのだった。
「じゃあ、ヴァルから私を取り上げちゃって、悪いね」
「…………いいよ」
闇の魔法か、アリアンロッドが存外可愛い女の子に見えて、いたたまれない気分に陥るアンヴァルであった。
そしてふたりは協力し、1年前のふたりを起こさないように気を付けながら、眠る彼女を現在のアンヴァルの腕に流した。アリアンロッドは眠るアンヴァルの肩と膝に織物をかぶせ、その耳元にごく小さな声で、「取り上げちゃって、ごめんね」と囁いた。
「おい、扉を開けてくれ」
「はいはいっ」
ふたりはそこを後にする。




