③ ぶつけるだけのキス
────「私が必ず撃ち飛ばすわ」
アリアンロッドが高らかな声音と共に放ったのは、決して譲るつもりはない強固な眼差し。
しかしそれでいい。ディオニソスにとって彼女の生命は最重要だが、彼女の誇りも同様に守りたいものだ。
彼女が自身で敵対国の王と交渉したものを、阻むことはできない。しかもそれは、神の力を以て行われたのだから。
「しかしアリアンロッド様、これが罠という可能性も。大聖女を先んじて前に出させ、討つなり捕らえるなり、と……」
「ユング王は家来にそんなことさせない。むしろしくじったら笑い者にするのが楽しみって人よ、大丈夫。さて、ルーン。本腰入れて作戦を立てましょう」
アリアンロッドはルーンがユングに取り立てられるための、計画を練る意欲に満ちている。その笑顔は自信の表れのように、男ふたりには見えた。
「やっぱりいちばん大事なのは第一印象。ルーンならそれは既に合格よ。ユング王は多分、あなたのような美人、大好物なの。ところで今から決戦が起こるという風評は、国民にどのくらい流すものなの?」
「それはあなた様のご希望通りに」
「みんなにはできるだけ、通常と変わらず過ごしていてほしい。国の中をちゃんと回していてもらわないと。でも一部の民の協力も必要だから、まったく知らないでも困るわね」
「分かりました。そのように統制します」
そういったこともルーンの得意分野であった。
「“今から話す計画”が上手くいくように、噂の量、内容、範囲など、完璧な調整をお願い。私は南西、北西の二国に送る手紙を書くわ」
「両国の王から、色好い返事は期待できますか?」
「分からない。でも包み隠さず書くつもり……。次は彼らの番だろうし」
アリアンロッドはここで、無常の切なさを隠し切れず、窓際から遥か遠くを見つめた。
◇◆
その夜、アリアンロッドはルーンといた。彼女は昼間、彼女の考える「計画」の八割を彼に伝えた。今は残りの二割を埋めるよう、ふたりで考えているのだが。
「休まれなくてもよいのですか?」
「う~~ん。なんだかここまで出かかってるんだけど……」
アリアンロッドは下に向けた平手を首に当てる。
「何がですか?」
「いや、だから、それがね……ここまで出かかってるんだけど……」
次は目鼻のところまで平手が上がった。
「それ口を過ぎてますよ」
「あっ!!」
ルーンの綺麗な顔を見つめた瞬間、アリアンロッドの脳天にとある男のとある言葉が蘇った。
「あの男は言った。“思わぬ拾い物”って……」
彼女はしっかりルーンの目を見たまま、独り言をこぼした。ルーンは真摯に耳を傾ける。
「きっと、あなたが、その“拾い物”」
鳩が豆鉄砲を食らったようなアリアンロッドの表情がすぐに、ぱぁっと晴れやかになった。“あの男”の喋りが頭の中で蘇り、それと、彼女の勘、ひらめきが繋がったのだ。
「彼はきっとこの城に来る」
「え?」
「あなたは絶対、ユング王に受け入れられるから! だから、できるだけ派手に挨拶しましょう!」
曖昧だった計画の二割、それはそれを行う「時と場所」であった。これを埋め、かつ、成功の確信を得た。
「勘」の部分も大きいが、それが聖女の、神より授けられし力。
「派手に? 我々の策、“人海戦術”のことですね?」
「そう。ユング王は“その日”、きっと、“ここに”来る」
アリアンロッドは揺るぎない、勝気な視線を彼に投げかけた。
「?」
「私たちが決戦に出払ったら、あなたはここ、王宮で……。武器の準備はいらない、あちら側のスパイに不審がられても困るしね。そう、徴兵はしないの」
「…………」
ルーンは彼女の提言に聞き入るのだった。
アリアンロッドは、その采配の進捗を知る必要もないと、あとは全面的にルーンに任せた。
それからまた時が経ち、アリアンロッドのもとにあの医師から包みが届く。アリアンロッドは彼女に人材の育成を任せて以来、何度か謝礼の物品を送っている。しかし彼女からは確かに受け取ったとの、返礼の口上のみで、近況の手紙が添えられるわけでもなかった。
この度はどうも「陣中見舞い」とのことだ。大戦が始まると多くの国民に取り沙汰されているのだろう。
アリアンロッドはその包みを開いた。すると、そこにあったのは。
「貴重品だって言ってたのに……」
かつて彼女に貸し出された方位針であった。空に向かって二本指で掲げてみた。
「北へ向かうといいことがあったりするのかも」
そして護符のように、懐へそれを忍ばせた。
アリアンロッドは決戦日が定まった時から一日と開けず、力の限り弓を引いている。
戦場へ発つ日まであと3日というところ。鍛錬場で、アンヴァルとばったり顔を合わせた。
「「あ……」」
ふたりはこの三月の間、互いに忙しくしていて、対面することがなかった。これほど離れていたのは初めてではなかろうか。
互いにそれを思い起こすこともないほど、心に余裕がなかったのだ。
なのでまさに今、ふたりは何から話せばいいのか、はじめの一言が出てこない。
「……アリア」
沈黙を破ったのはアンヴァルの方だった。
「お前は明後日までにディオ様と逃げろ」
「え?」
アンヴァルがまっすぐに見つめてくる。
「何を言ってるの? そんな冗談……」
彼は急かすように彼女の肩を掴んだ。
「平民に扮し馬に乗って、西の方へ、できるだけ遠くまで逃げて、必ず生き延びろ。今すぐディオ様に言いに行け」
「私がイナンナを助けなきゃ……」
「あいつはしくじったスパイなんだ。とっくに覚悟はできてるよ」
「でもイナンナは、この王宮のしきたりに翻弄された女子なのよ!」
「お前は女が男と同等に認められる世の中を求めてるんだろう? なら同等の責任を負うことも厭うな」
アリアンロッドは反論できず目を逸らした。
「ディオ様が逃げるなんて道、今更受け入れるわけないでしょう……」
「だからお前が共に逃げると言うんだ。お前を生かすためにふたりで逃げると相談すれば、あの方は受け入れる。逃げた先も地獄だろう。であってもディオ様は、何としてでも、お前を守る。十分な力をお持ちの方だから」
言いながらアンヴァルは、アリアンロッドの顔に両手を添え前を向かせた。
だから彼女は彼の目を見て問う。
「なんでディオ様とって言うの? 私の護衛はずっとあなたでしょう!?」
「……お前はディオ様を死なせたくないだろう?」
「それはもちろん。だけど私はあなたも失うわけにいかない!」
アリアンロッドの語気が強まった。
「駄々をこねるな。俺は……」
アンヴァルはいったん息を呑む。それから意を決したように叫んだ。
「ディオ様を死なせるわけにいかないんだ!」
この瞬間、アンヴァルの視線が微妙にずれた。それを彼の後ろめたさと見てアリアンロッドは、すっと潮が引いたような気分の盛り下がりを胸に感じた。
「そっか……。私じゃなくて、あなたはディオ様を守りたいんだものね」
アリアンロッドの目線も足元まで落ちていた。
「……そうだよ。だから、頼む。ディオ様を救うために今すぐ、この王宮の混乱に乗じて、一歩でも先にふたりで逃げてくれ」
「無理」
アリアンロッドは無表情で一蹴した。
「…………」
「あいにくだけど、私はあなたとディオ様、片方だけ救うなんて考えられない。どっちがなんて考えられるわけない。あなたも私には──絶対に大事だから!」
この時アンヴァルに向けたアリアンロッドの紫の瞳は、熱を帯びて青に混ざり、宇宙のような濃紺色に輝いていた。
「どうしてもって言うなら、あなたがディオ様を連れて逃げればいい。私には、あなたを戦場に送ってディオ様だけを逃がすなんて無理……っ……?」
アリアンロッドの捨て台詞の末尾に、アンヴァルは彼女の腕を強く引いた。
そして彼女を抱きこんだら、なんの準備もない口づけを、唐突にぶつけたのだった。




