③ 長く生きたからこその
────ここからどうやって戻るの……?
祖父の顔を見たが彼はそれどころでなく、少年の元へ無心で向かう。ともかく彼に付いて、気を抜けば即滑り落ちそうな狭い足場を注意深く進んでいった。
「テーハ!」
やはり少年は声が出ないようで、口を開閉するだけだった。右足首が腫れている。この足場を戻るのは困難だと悟ったのだろう。声を失ったのは精神的なものだった。
泣いて祖父に抱きつく彼は猛省している様子。ちょうどそこに町人らも駆けつける。うちひとりが他にも人員を呼んでくると言って戻って行った。
町人らはなんとか向こうとこちらを繋ぐ太い木を用意し、近くで作業を始めた。
その間にもアリアンロッドは、川の水を目にし、恐怖で足が震えてきた。水位が徐々に上がってきている。
「大丈夫だ」
彼はそんな彼女にも声をかける。
そこで、祈り始めるアリアンロッドに彼はこう言った。
「みんながちゃんと丸太を用意してくれる。怖いだろうが、それを伝ってふたりは向こうへ渡れ。腕と太ももに力を集中させて、全力でしがみつき、落ちないように気を張りながら少しずつ進むんだ」
落ちたら一巻の終わりだからな、と彼は苦笑いする。
「……え? ふたりって……。あなたは!?」
アリアンロッドの身の毛がよだつ。
「俺はここで丸太を押さえる。こちら側も押さえていないと、丸太が動いたら渡っている者が危険だ」
「!?」
それを聞いた少年も青ざめる。
「それじゃあなたが向こう岸に行けないじゃない!!」
「それは仕方がない」
彼は目を細めてそう答えた。アリアンロッドは丸太を押さえつけるための岩か何かないかと辺りを見渡すが、細かな石や枝しか落ちていない。
「だめ! こんなところでっ……死んでしまったら」
「未来に繋がる若い命を救うためなら、命の懸け甲斐もあるというものだ」
少年はより一層青ざめて、祖父の腕の中で震えている。
「この子にはまだあなたが必要よ!」
「他人が面倒みてくれないこともない。君も、もし良かったら頼む」
「そんな……。それなら……」
アリアンロッドは思った。自分は新しい命を生むことも育てることもないのだから、子を育てている彼の方が、命の価値が上なのだ、と。
「私が……残ります……」
そして更に思い至る。自分の残りの時はそれほど長くないのだ。もう先の戦いで命を落とすと、神が示しているのだから。余命で言うなら自分のそれがいちばん短いのだ。
「そうよ……。この子に、家族を失うところを見せてはいけない。私が来なければきっと、こんなことになっていなかったんだし」
腕を見せつけながら言い放つ。
「私の木を支える力が信用できないというなら、見てこの腕。女の割に、すごいでしょ……」
だが、その手は震えている。
死が怖い。どうせ遅かれ早かれと諦めているつもりだ。その時が迫っていることはずっと前から理解している。
それでも今ここで死にたくない。再びアンヴァルの「一瞬でも長く」が頭の中で鳴り響く。
────帰りたい。会いたい。……どうしようもなく怖い!
「死ぬのは誰でも怖い」
そんなアリアンロッドを察したのか、祖父は強く伝える。口調は穏やかだが、意志の強い瞳で。
「こんな年寄りになってもだ。しかし若い時のそれと、今のそれは少し違う」
彼は少年の頭を抱いていた手を、アリアンロッドの手に添えた。
「若い頃は知らなかった。時を経た今だから思う。若者は未来への希望を捨ててはならない。たとえ明日の命すら確かでなくても」
「…………」
「十分に生き、共に生きてきた伴侶を見送った俺を、最後に役立てて欲しい。テーハをどうか、よろしく頼む」
彼の覚悟は本物だった。アリアンロッドの、自分はこうありたいというただの理想とは、強さがまったく違う。
それを実感した彼女はついに頷いた。
その頃、男たち数名で力を合わせ、長く太い木を渡してくれた。まず先に、テーハを渡らせることにする。
テーハは泣きながら首を横に振る。祖父に抱きついて離れない。しかし時間にそう余裕のないことは、彼も分かっている。
「立派な大人になるんだぞ」
「…………」
彼は何度も何度も、出ない声でありがとうとごめんなさいを言った。少なくとも祖父にはその声が届いた。
テーハは丸太にしがみついた。
大人たちが見守る中、木を上るように少しずつ前進した。落ちたらまさに一巻の終わり。その恐怖に打ち勝って向こう岸に着く頃、大人たちに引き上げられた。
続いてアリアンロッドも丸太を渡るために、足を踏み出す。その前に、振り返り──。
「必ずテーハを無事に帰します。それから私に、できることをさせてください」
祖父はそれを聞いて幸せそうな笑顔を返した。
アリアンロッドも向こう岸に渡ろうとする間、少しずつ岸が削られて恐ろしい思いをする。しかし迫りくる死の恐怖を思えば、泣いて震えてもいられないのだ。
岸に辿り着いたら手を振る祖父に一礼をし、負われた少年と共に走って帰宅した。
その夜、少年の声は戻り、彼は声をあげて泣き続けた。
ひとしきり泣き叫んだ後、これはただの白昼夢で、祖父はいつも通り帰ってくるのではないかと、できるだけ起きて待っていた。
当然、幾日待っても祖父は帰ってこない。テーハはしばらく洞窟に籠り、そこを掘り続けていた。しばしば仲間がやってきて共に励み、アリアンロッドも同じく手伝っていた。
まだ彼は、それでも祖父がひょっこり帰ってくるのではと、心の隅で希望を捨てていなかった。だから掘り続ける。ここで共に暮らすために。時に寝食を忘れ掘り続けた。
アリアンロッドにしたら、彼がこれにばかり傾倒するのは心配だ。現実逃避以外の何物でもない。今は食料も蓄えがあるし、住居には困らない。衣服も足りている。周囲の人々からの同情も余りある。
しかし彼の日常が止まったままでは、アリアンロッドも安心して元の世に帰れない。
「ねぇ。近所の人たちと一緒に農作業しましょう? 彼らに指示してもらって、いま生活のためにできることをしましょ。これは、その余った時間にやればいいじゃない?」
想像に難くない、彼はただ無心になってこれだけをしていたいのだ。今まで育ててくれた、祖父との思い出にだけ浸っていたいのだ。
「今すぐ誰かの役に立ちたい……」
彼は悲痛のにじむ声でつぶやいた。
「誰かを助けたい。でなきゃ俺なんか、生きていちゃいけない気がする!」
アリアンロッドも当然、彼の祖父への申し訳なさや感謝、尊敬の思いなどが心に在るが、きっと彼は比べようもない。大事な人が自分のために、自分のせいで、命を落とすこととなったのだから。
その自責の念はアリアンロッドにも覚えがある。たった数日で前を向けるわけもないことは、よく知っている。
「お祖父さんは何十年も、一生懸命生きてきたからできたことよ。今すぐなんて言わずに、今は自分の事だけ考えて」
少年は何も答えず、また無心で掘りだした。
「そしていつかそんな、お祖父さんみたいな人になればいい」
────それが罪滅ぼしの方法なのだろう。彼も自分も。
アリアンロッドは借りている家屋に戻り、ここに来た時の衣装に着替えた。それは彼女の普段着であるが、今回に限り“勝負服”だ。いつも首に掛けている2本の装飾品も、彼女の奮起を後押しする。
町の人に聞き、領地の役人の働くところへ、彼女は勇んで向かったのだった。




