⑬ ひとりの、ふつうの、人としての幸せ
大きな腹を抱えるアリアンロッドはその日、尋常でない腰の痛みを覚え、村の産屋にお世話係りの女性といた。そこに、今のところは出入りを許されているディオニソスがやってきた。
『経過はどうかな?』
手伝いの女性は良く進んでいると笑って話す。
『良くない良くない! あなた! もう生きてる方が不思議ですっ。なんで生きてられるか分からないですっ』
なんて早口で喋ることのできる現在は、陣痛の波が引いている合間だ。すぐに次の波がやってくる。
アリアンロッドが血眼で七転八倒する産屋の隅にて、ディオニソスはこの世の地獄を見たような面持ちで立ち尽くしていた。彼もそこそこ長く生きているが、こういう時どう手を差し伸べていいのか分からない。
『もうっ……出るうぅぅっ。これっ……出ないっ……わけっ……ない~~』
『まだだめよ。ちゃんと息吐いてっ』
『無理っ! 無理~~~~』
むり~~と伸ばす時に息を吐いているようだ。
それをふわふわ浮かんで見守っているアリアンロッドの顔も、すっかり青ざめている。地獄の苦しみがひしひしと伝わってきて直視に耐えない。命懸けだとは聞いていたけれど、想像とはまったく違う。
「なにこれ……生きものが生まれる瞬間は美しいものじゃなかったの……?」
「まだ生まれてないから美しくないんじゃねえ?」
「すでに美しくなる希望が見出せません……」
陣痛の波の引いたアリアンロッドは、やつれきった顔でディオニソスの胸に飛び込み、止まらぬ弱音を吐いている。
『今すぐ楽に死にたい……。あなたの手で……ひと思いにやってください……』
彼もどう励ませばいいのかさっぱり見当がつかず、おろおろするばかり。手伝いの女性たちは自分らも畑があるので入れ替わり立ち替わり、しかしそろそろ人の出入りも落ち着く頃のようだ。ディオニソスも邪魔だからと追い出された。
『あなた~~!! 一緒にいてぇ~~!!』
そのうちアリアンロッドは座り込んで、ついに赤子をひねり出そうと頑張るようになるのだが、これまた端からみているアリアンロッドの脂汗が止まらない。みているだけでもとうに心が疲れきった。
「ねぇ、赤子ってどうやってお腹から出てくるの?」
アリアンロッドはルゥに聞いた。今まで疑問に思ったことがないわけでもないが、誰にも聞きそびれていたことだ。
「知らねえ」
今みてれば分かるんじゃねえ? と言いかけたが、彼女ですら気疲れであまり真面目にみていたくない。
「人はともかく、犬猫の子産みも見たことないのよ私」
「だな。犬猫はいつの間にか産んでんだよ」
なんて話をしていたら、夢の中のアリアンロッドは死にそうになりながら赤子を生み落としていた。
「えっ生まれた!?」
「生まれた? 生まれた!??」
「生まれたぁ――!!」
外野のふたりも大興奮である。汗も引っ込んだアリアンロッドは、今度は感涙しながらルゥを軽々と抱き上げ、振り回すのだった。
それから幾日か経った頃の一幕だろうか。ルゥは夢の中で昼寝をしてしまっていて、アリアンロッドはひとりでそれを眺めていた。
『ディオ様』
『なんだい?』
織物にくるまれ眠る赤子の前で、彼らはまたぴたりと寄り添い、仲睦まじくしている。
『私、生まれてきてこんなに幸せだと思った日々はないわ。もう一生分の幸せを味わったと思う』
ディオニソスはそう言う彼女の肩に腕をまわしそっと頭を寄せた。
『私はもうこの身に何があろうと構わない。私の残りの命すらこの子にあげたいぐらい。どうかこの子が永く永く健やかにいてくれますように』
『そんなこと言わないでくれ。俺は君とこの子と、そしてまたこれから生まれてくる子らと、みんなで幸せに暮らしていたい。贅沢だと思うかい?』
アリアンロッドは笑みを浮かべて首を横に振った。
『もちろん私も、みんなでずっと幸せに過ごしていたい。でもあまりに大事なものがこの手にあるから、不安になっちゃうのかな。この世はいつ何が起こるか分からなくて……』
彼女はすっかり母の顔になっている。
『この子だけは、私の命に代えても守るって、今はそういう気持ちで胸がいっぱいなの』
この会話を終わりまで眺め、アリアンロッドは全身が熱くなった。いつものように、夢にみる自分は確かに自分だが、まるで別の人のように見える。人は願いが叶うとこんなにも、慈しみに満ちた顔になるのか。
羨ましくてたまらない。自分自身なのに妬ましくもある。向こうの自分は正しい選択をした自分、今の自分は間違えた自分。
間違えたと言っても、行いの時期が僅かにずれただけ。選択したというほどのことでもない。それとも、あの時の自分に勇気がなかったことが間違いなのか。
(それにしてもこの差はいったいなんなの……。)
納得がいかない。
(でも……)
アリアンロッドは隣で眠りこけている、無邪気なルゥの寝顔を目に入れた。
そんな不遇を嘆かずとも良い。今、自分の隣には、特別な力を持った少女がいる。逃した幸せをこの手に掴む力、それを得ることは決して夢ではなくて。
このふしぎな子はまだ、自身の力のすべてを知らない。“選ばなかった道の夢をみることができる”だけだと思っている。しかし本領は、その時点まで時を戻すことができる、ということなのだ。
――――この子には何も言わず、手をつないで森の中にいればいい。きっと然るべき時に、元の世まで神が運んでくれる。そうよ、この子はきっと聖女に違いないのだから。
アリアンロッドは眠る彼女の衣服の襟に手を差し伸べた。
(確認させて。聖痕がなくても、まだ出ていないというだけかもしれないから問題ないのだけど、ちょっと見てみたい)
────聖痕がどうあれ、力は本物だもの。連れて帰るわ。私の後継者。次の大聖女として、皆がこの子を受け入れて――――……
少女の胸元に差し伸べたアリアンロッドの手は、ぴたりと止まって、それ以上、動かなかった。
「いやだ……」
目から涙がぽたっと、こぼれ落ちた。
「こんなに一生懸命ここで暮らしている子を、こんなに家族を思っている子を、騙して連れていくっていうの?」
確かにこの迷いは、神隠しでここに来た時から抱いていた。
それでも閉じ込めておいた。自分にだって現大聖女としての責務があるのだから。だというのに今それが噴出してしまったのは、夢の中の平民の暮らしを、あまりにも理想どおりの幸せを、自身を通して目の当たりにしたからだろうか。
大家族の中で、毎日当たり前に協力して作業を繰り返す日々。そんな自分の理想の体現を身勝手に壊したくない。
きっとこの子はいつか同じ地域の男性に見初められ、子を生み育てながら引き続き家のことをして、それを死ぬまで繰り返す。今も両親の愛を一身に受け、穏やかに暮らしている。
「どうしてそんな子を家族から、故郷から引き離せる?」
後継としてどれほど愛しく思えても、実の母は存在するのだから。たとえ母の余生が長くなくとも、最後の時まで娘は母と過ごすのだ。
いつかは離れ離れになっても、両親と暮らした思い出を胸に、この地で生きていくのだろう。戦争には決して巻き込まれない、平穏な人生を。
アリアンロッドは立ち上がり、目覚めの時を待った。




