⑪ 追憶
国を出て、しばらく行ったら隣国に入った。
出るのも入るのも彼と一緒だからこそできたことだ。どちらの国境にも柵や堀が巡らされ、その通路には警備兵の置かれているところもある。が、抜け道の情報を彼は予め入手していて、難なく通って行った。
以降、ふたりは暗黙の了解で、二度と国のことを話さない、考えないとした。
『ここはもう隣国領だ。持ち出した食料もあと少しで尽きる……これから人里が見えるたび、一時滞在を試み、少しずつ足を延ばそう』
『あの、私、髪飾りを持てるだけ持ってきたから、これで交渉してみるわ』
『旅は君の方が慣れているのだったな……』
ここまでも、限られた食事に、続く移動に、身体の疲労は溜まっているが、精神的には絶えず研ぎ澄まされた状態であった。
その日、植物を採って足しにはしていても、いよいよ携帯食が底を突くという頃、隣国で初めての農村を見つけた。
温暖な気候のたまものか、そこの人々はとても親切で、訳ありのふたりの滞在を支援してくれた。1週間ほど寝泊まりした後、アリアンロッドは家屋を貸してくれた家族に髪飾りをひとつ渡し、また旅立った。
しかし1日もしないうちにどうしても腹は空くのだ。どの辺りに村があるか前の滞在地で聞いてきたおかげで、次はわりあい早く見つかった。こうしてふたりは町村から町村へ、時に髪飾りだけでなく上衣を渡し、衣服すら最低限のものとなった頃、この国の境に位置する町に辿り着いた。
その町の住民も温和な人々であった。災害もめったに起こることなく、生活が落ち着いているゆえだろう。ふたりは他の町でもそうしたように、事情があって流浪している兄妹だと自らを紹介した。ディオニソスは比較的豊かな一家から小さな家屋を借り、アリアンロッドは別の老夫婦の家に居候させてもらうことになった。返すものは労働でしかないが、それでも構わないと言ってもらえたようで。
ふたりは懸命に働き、積極的に人々との交流を始めた。するとだんだん、ふたりの働きや真面目な気性がそこの人々に認められていく。アリアンロッドはそれを感じ、充足した思いをほんのり胸に抱いていた。
そんな中ディオニソスが、仕事の後、少し出かけようと彼女を誘い出した。陽が橙色に変わる時分、ふたりは一頭の馬に乗り町を出る。1時間も走れば景色の綺麗な処に着くと、彼は町人から聞いたようだ。
「これ、なんかありそうだな」
ルゥが口を開いた。
「ん? なんか?」
「若い男と女が、こんな日暮れ時、ふたりで消える……」
「…………えっ?」
アリアンロッドは目を大きく見開いて、移動中のふたりを注視する。
「って、ずっとふたりで旅をしてたのよ? ここまで別に、何もなかったし」
「状況が違うじゃないか。今までは逃げるのに必死だったしさ。でもそろそろ」
「そろそろっ? なにっ!?」
ふたりは上から、その何か起こりそうな男女の行方を追った。
『わぁ、きれい……。これが海?』
『いいや、湖だ。湖面に映る光の道が、まったく美しいよな……』
『湖……って小さい海でしょ、初めて見たわ』
こんな会話を聞くアリアンロッドは、胸が締め付けられた。それは夢の中の自身だが、自分の感覚では今、隣に彼がいない。この夢の景色を懐かしく思う気持ちや、彼が恋しくてすぐにでも直に会いたい気持ち、様々な思いが身体中を駆け巡る。
「話、聞いてなくていいのか?」
心ここにあらずといったアリアンロッドの気付けをするルゥ。さながら小さな保護者だ。
「あ、うん……。変よね、寂しくなっちゃった……」
「…………」
ルゥはそんな彼女を励ましたかったが、いい言葉が思い浮かばなかった。
ふたりは湖岸に腰を下ろし、今のところゆったりと言葉を交わしている。
『ディオ様、今まであなたと一緒だから心強かったけど、やっぱりずっと不安だった。明日食べられなかったらどうしよう。疲れきって身体が動かなかったらどうしよう。……お母様の力で、私たちの居所が露見して……国からの追っ手に捕まったら……。あなたもそうだった?』
アリアンロッドは彼の顔を見てみた。すると彼は彼女から目を逸らし、湖面に向かって弱音を吐くのだった。
『不安がなかったと言えば……大噓になる』
いつになく素直な彼に、アリアンロッドは小さく笑う。
『どうして私の願いを聞き入れてくれたの? あなたが国を捨てるなんて……。私があなたを殺して、私も死ぬなんて言ったから?』
ディオニソスがのぞいた彼女の顔は少し哀しい様相だった。彼女も、脅迫し無理やり従わせた自覚はある。
『どうしてだろうな。私も自身の心が、説明つかないんだ……。こんな大それたことをして、いつどんな天罰がくだるのだろうと、眠れない夜もあった。しかし、君が気に病む必要はないよ。これはすべて私の責任なのだから』
『そう……。じゃあ、すべての責を負うというあなたを見込んで、思うがままに気持ちをぶつけるわ。これが国の大事な聖女としての、最後のワガママ』
今度は吹っ切れたような、清々しい表情をした。
『?』
『私、ずっと今の町で暮らしたい。あそこの人たちが受け入れてくれるなら……』
ディオニソスも、いつまでも逃亡を続けることは不可能だと分かっている。
『明日にでも話してみよう。きっと大丈夫……』
『あなたの妻として、ずっと』
ふたりの目が合った。
「え――!? 私から言っちゃった――!!?」
これには浮かんでいるだけのアリアンロッドも、口を出さずにはいられない。夢の中でくらい積極的に口説かれたかった。
「こういうのって男性の方から申し入れるものじゃないの!? しかも最後のワガママをきけって!? そんなのでいいの私!?」
みているだけのアリアンロッドには分からない、連れ立って難儀な時を過ごしたアリアンロッドならではの思いがあるのだろう。
「とりあえず返事聞こうか……」
ルゥがまた呆れている。
ディオニソスは少し固まったようだが、ついには照れたように笑った。
『私の妻に、なってくれるのか?』
『…………』
その意外とあどけない顔が最高に好ましくて、今度はアリアンロッドの時が止まった。しかし固まっている場合ではない、すぐに復活した。
『あ、あの、私が妻であなたが夫よ? いいの!?』
復活したてに、よく分からない確認をする。
『? 私が妻で君が夫なら困るけれど?』
『じゃなくて!』
大慌てついでに彼女は、彼を湖岸の砂の上に押し倒した。彼女の長い髪の先が、彼の胸にはらりと落ちる。
『あなたの妻が私でいいの!?』
『アリア』
彼は彼女の頬に指先を伸ばして添えた。
『私にはもう何もない。家もない土地もない、食料も衣料もない。明日の保障すらない。本当に何も持たない男なんだ』
彼は心底自身を恥じるような、かすれた声音で続けた。
『ただの男というだけでなく、辺りにいる男たちよりも劣る、無価値な男だ。町の青年の誰かと一緒になった方が、君にとって幸せだ』
『…………すーっ』
アリアンロッドはそんな彼の言葉を最後まで聞いて、そして息を存分に吸い込んだ。




