⑩ かけおちるふたり
入室してしばらく、アリアンロッドはディオニソスから目を逸らしていた。彼はそんな彼女の態度をふしぎに思うが、ともかく仕事を慌てて片付けている。
アリアンロッドはそこにある棚からこっそり短剣を取り出した。執務室には護身用のそれが用意されていると知っている。
『アリア、少し待っていてくれ。実は今日、これから君と……』
彼の優しい声を聞くや否や、彼女は彼を押し倒した。まったく突然のことで、彼は目を丸くする。
そして彼女は彼の喉元に、短剣を差し向けた。
『私の命令を聞いて。聞いてくれなければ、あなたを殺して私も死ぬ』
これを空中からみたアリアンロッドは、「えええ――!!?」と憚らず叫んだ。
「大声で叫んでも誰にも聞こえないから大丈夫だぞ。ここは夢の中だからな」
ルゥはこの夢の意味が分からないので平静である。アリアンロッドにとっては、あの時私こんなにも思いつめていたっけ!? と度肝を抜かれる話だ。思いつめていたのは確かだが、ここまで大胆なことを考えていたのか、と。
「人間、案外自分のことは見えていないからな。新しい自分を発見できて良かったな!」
ルゥの言葉も聞いていられず、アリアンロッドは続きに刮目する。
『どうしたんだアリア……。いったい何が……? 命令とは……』
ディオニソスも思わぬことで、頭が対応できていない。しかし目前のアリアンロッドは目にいっぱいの涙を溜め、決死の表情で訴えている。そこに嘘はない。
『国を捨てて……一緒にどこか遠くへ逃げましょう……この運命から逃げるの』
『国を? それが君の命令か……?』
彼は、急にそんなことを言い出すこの状況が尋常でないと理解し、話を聞く姿勢になった。
『始めから話してくれないか。捨てるとか、逃げるだとか……話を聞いてからでないと……』
そこでアリアンロッドはとうとう泣き喚いた。
『私だって命令でこんなこと言いたくない! あなたに心から求められて、選ばれたかった!!』
彼はどうして彼女がこのようなことを言い出したのか、簡潔に理由を知りたいのだが、ここは男女の差だろうか。空回りの説明でとにかく時間のかかること。
ともあれ、アリアンロッドは未来の時空で得た情報を打ち明けた。死を避けるにはそれまでに逃げて、戦場に出ないようにするしかないと。
ディオニソスの顔もみるみる青くなった。
『未来は変えられない……。我々が逃げたとしても、国は潰える運命なのだろう?』
『変えられるかもしれないじゃない! 今までは本気で変えようとしてなかっただけかもしれない!』
『だから、建国から今日まであり得なかった、次期大聖女不在の国にする、ということか?』
『そうよ……。今ここでふたりで死ぬか、私を連れて逃げるか選んで!』
彼は一度、目を閉じた。そして真剣な眼差しで彼女の目を見た。
『君を救うためならなんだって』
『…………』
アリアンロッドは指先も唇も震え、次の言葉が出なかった。頭もぐらぐらとして、もはや自分が自分でない。
ふたりはしばらくの間、その場の沈黙を保った。
『しかし、突然王宮を混乱に陥れるのは本意ではない。どうやっても避けられないことだが……できるだけ準備をしたい。3人の我が子も……逃がしたいんだ』
『え、ええ。私も、港譲渡書を奪いにいかなくてはいけないから、すぐというわけでは……』
『では、君が東方の館から帰ってきてから……それから、だな……』
絶望に追い詰められないよう、自我をどうにか保とうとする彼を見つめ、アリアンロッドは哀しくなる。それでも彼を救うにはこうするしかなかった。
複雑な思いを胸に抱いたまま、彼女は和議の館へと旅立った。
「嘘……。ディオ様は、選んでくれたの? 国よりも……何よりも、私を?」
「あんな脅迫しておいて選んだも何もないだろ」
ルゥは呆れ返った顔をしている。
「そ、そうだけど! ……だったら……。あの時、言えばよかった……」
夢の中、ふわふわ浮かぶふたりが次に目にしたのは、和議の館でのこと。
真夜中の兵舎脇、丸太に座るアリアンロッドとアンヴァルのじゃれ合いだった。
『きゃはははくすぐったぁぁい!』
そんなものを上からみるアリアンロッドは、「もう、ヴァルったら。ほんとに子どもなんだから」とぼやく。隣でルゥは大人ふたりの遊びが羨ましいのか、興味深く見つめていた。
『ヴァルっ、止めて止めて! もう止めてってば……』
浮かぶアリアンロッドが、もう止めてあげてよ―、と思った瞬間だった。
なんとアンヴァルが、くすぐる両手をそのままアリアンロッドの背にまわし、彼女を強く抱きしめたのだった。
当然、彼女は驚いて、上げていた声がぴたりと止まる。
『ヴァ、ヴァル?』
彼女の肩の向こうに乗せた彼の顔は、普段は決して見せることのない、切なげな色を浮かべている。
『どうしたの、ヴァル……』
『……なんだか……お前が、遠くに行ってしまうような気がして……』
彼から顔が見えなくて良かった。アリアンロッドは、悟られた? と、あからさまな顔をしていた。
『何、言ってるの……そんなこと、あるわけ……』
すぐにアンヴァルは手をぱっと離し、彼女から離れ立ち上がった。
『冗談だよ。やっぱり、俺、寝るわ』
気まずいのか、顔を背けたまま彼は戻って行ってしまった。
残されたアリアンロッドの額には、冷や汗が滲んでいる。
これをみたアリアンロッドは、「あの時アンヴァル、こんなことしてない……」と思い返し、胸がずきずきと痛むのだった。
館から帰ったアリアンロッドは不安な時を過ごしていた。
大切に思う彼に、運命を、脅迫で強制してしまった。こんな自分なんて心から慕ってもらえるわけがない、と。
それでも滅びの道から逃げたいのだ。彼と共に。
もし、彼が心変わりしたら。やはりこの国と心中するなんて言い出したら──
すぐにでも自害しようと思いつめていた。
ある真夜中のこと。庭のほうで、葉擦れの音が聞こえて不審に思ったアリアンロッドは、窓をそっと開け、外を注意深く見た。
『ディオ様……!』
旅人のような衣服をしっかりと着込んだ彼が、下方から手を差し伸べる。
『さぁ行こう』
『え?』
『苦しい旅になる。帰ってこられるとは決して思わないで。覚悟が決まったなら……君は2、3枚余分に、上衣を羽織って降りてきてくれ』
アリアンロッドは感動で震えた。ふたりでどこまでも行けるような気がした。
彼が残される王宮の人々に対し、どんな用意をどこまで行ったのか、アリアンロッドには知る由もない。それぞれ馬に乗って王都を出た。旅立つのに彼は、真ん丸の月が夜道を明るく照らし、馬が快く走ってゆける最善の日を選んだようだ。
『ディオ様、どこへ?』
『南西に向かう。数日のうちに国を出たい』
『どうして西なの?』
『やはり国が成っている地域の方が安全だ。あの先代王の国なら事情も多少は分かる。それに何より、温暖な地域の方が……』
彼はアリアンロッドと比べたらまったく慎重だった。




