⑦ 子どもの気持ち
翌日は老人が少し遠くで素材を集めてくると出かけていった。なのでアリアンロッドは代わりに、彼の家屋の前で薪を割っていた。
「よいしょっと。こんなものかしら……ん?」
ふと顔を上げたら、近くの藪から顔をちらちらと覗かせるひとりの男がいた。不審に思い、彼女は斧をかざして近付いた。
「ひぇっ…?」
男はそんなアリアンロッドから逃げ出した。
「むっ?」
逃げられたのでアリアンロッドは追いかける。男と女の法則である。
しかしどうにもその男は鈍くさく、あっさりつまずいたところを、アリアンロッドはその背に飛び乗った。
「よしっ捕まえたっ! 何者!?」
「お前こそ何者だっ……まさか親父の新しい嫁!? いくらなんでも若すぎないか!?」
「親父??」
話を聞くと、彼は老人の、たった一人残った息子であった。どこからか見知らぬ女児がやってきて、父親が明日をも知れぬ命だと言い捨てて帰ったので、念のため様子を見に来たらしい。
アリアンロッドはせっかくルゥがおびき寄せたのに、ここで早速「嘘でした」と言っていいものか、考える。
「うん……明日をも知れぬと言うほどじゃないけれど、独りで暮らすには心配な感じだから、もう戻ってきたら?」
「ひとり? お前、新妻なんだろ?」
「妻じゃありません」
アリアンロッドが珍しく真顔になった。
アリアンロッドは年老いた父に歩み寄るべきだと、放蕩息子を説得したい。
「もう親一人子一人なんでしょ。父君もあなたが実の兄を傷付けたこと、いつまで言ってても仕方ないって分かってるわよ。あとはあなたの態度次第だと思うな」
「そんなこと赤の他人に話したのか? そんな家内の恥を」
「あなたの恥でしょ……」
よく言えるなと呆れてしまう。
「大体、どうしてそんなことしたの? 喧嘩で刺したなんて……凶器がしょせんナイフじゃ殺意というほどでもないでしょうけど。脅してそれを取り上げるつもりだったの?」
10年も前のことを赤の他人に蒸し返されて、男は不機嫌だ。
「いいや、カッとなってたから殺意はあったぜ」
「どんな喧嘩よ……。兄君はあなたと違って、素直で温厚な人だったって聞いたけど?」
「ナイフ、おふくろの形見だったんだ。あっちだけもらったんだよ。俺、おふくろが鍛えてるとこ見てて、欲しいって言ったのに」
「それでカッとなって?」
「それだけじゃなくて、ずっと親父もおふくろもあいつばかり可愛がってさ」
彼は拳を握って悔しさを滲ませた。その様子に、彼が幼い頃から今に至るまで不満を募らせていることは分かったが、だからこそ彼はより両親に認められる言動をしなかったのではないかと、アリアンロッドは感じた。つまり卵が先か鶏が先か、だ。
「ところで、そのナイフってこれでしょ? 兄から奪ったこれを、どうして持っていかなかったの? 兄を傷付けてまで欲しかったものなのに」
「どうしてお前が! ……そんなもの持っていくわけないだろ」
「見るたびに、自責の念に駆られるもんね。これが欲しくて仕方なかったのに、皮肉なものね」
「…………」
双子の片割れも、もうこの世にいない今、彼は心の隅で申し訳なさを感じているようだった。
「ん?」
そのナイフを受け取ると彼は、何か違和感を覚えた。アリアンロッドがその詳細を尋ねると。
「この真ん中の、突起……こんなのなかったぞ。ここには確か、穴が空いてて」
アリアンロッドは昨日の老人の言葉を思い出す。彼も同じことを言っていたのだ。
結局、放蕩息子は逃がしてしまった。いい大人が老いた親に謝罪もできないとは情けない。そうは思うが、彼もやはり父親が心配なのだ。10年も疎遠にしていたら、確かにどの面下げてという話だろう。本当に死期が迫るまで対面は実現しないかもしれない。それも彼の自業自得だ。
アリアンロッドはナイフを見つめて溜め息をつく。
「それにしても、本当に変よね、これ。彼はこれで兄を刺した。確かにこれを手に持ったら“刺す”よね、“切りつける”気にならない。これ、何も切れる気がしないっていうか。ナイフなのに……」
ふたりの言った言葉が脳裏に浮かんだ。
「真ん中に穴の開いた、これ……??」
もしかして、とアリアンロッドは立ち上がった。家を出て、もうひとつの家屋に入ってみた。そこも倉庫代わりのようで物がやたらと乱雑に置かれている。まずは片付けだ。
「今日は片付けの日か? 爺さんは?」
そこにルゥがやってきた。
老人は少し遠くに仕事に行ったと伝えた。
「散歩がてらだな。そういえば例の息子は来たか? 焚きつけてみたが」
「ええ、朝一で。びくびくしながら」
「俺の手柄だな!」
「まぁ……。でも嘘はダメよ」
「嘘も方便だろ?」
「今回のは仕方ないけど。命に関わるとか嘘をつくの、普段はダメだからね!」
ルゥはそれくらい分かってるとふてくされた顔をする。
「で、あいつが戻ってくるからここを片付けてるのか?」
「ううん。あの人また逃げちゃって。今ここ片付けてるのはね……」
経緯を聞いたルゥも少し興味あるようで、一緒に片付けを始めた。
「あ! なぁ、このカゴの中に木箱が入ってた」
「え、見せて見せて」
「ん」
「それよ、同じ大きさの箱。開けてみて」
彼女がそのふたを開けたら、やはり同じナイフが入っていた。
「彼の分もあったんじゃない!」
あの男はこれに関してずっと不満感を抱いていたのだろうが、ただの思い込みだったのだ。母は同じものを用意していて、それに気付かなかっただけだ。アリアンロッドはすぐにでも彼に伝えに行きたくなる。それを察したか、ルゥは。
「そのうちまた気になってひょっこり顔出すだろ。ほっとけ」
「でも……」
「あいつも少しは自分で考えなきゃいけないんだ」
「あなたはおじいさんの息子たちに何があったか知ってるの?」
「知らねえけど? 俺の生まれる前なんだろ?」
本当にふしぎな少女だ。
「そんなことより俺の話だよ。母さまに聞いたんだ。今、夢がひとつ叶うなら何を願うか」
「へぇ。なに?」
ルゥは周りに誰もいないのに、なぜかこそこそと耳打ちをした。
「え? 女神の歌声が聴きたい??」
◇◆
もう夕方になるが、ふたりでヨモギを採っている。
「そんな都合よく女神が降臨するわけないから、それは不可能というものじゃないかなぁ」
アリアンロッドがルゥへ目を向けると、彼女はふくれっ面だ。
「母君は歌が得意なの? そういう仕事していたとか」
「いや、普通だと思うけど……。でも一度だけ、そういえば父さまが言った。“舞台の上で讃美歌を歌う母さまはきれいだった”って」
「ん? やっぱり母君は歌手だったのね?」
「でも母さまは歌でお金をもらってたことないって言ってたし」
アリアンロッドもそれは釈然としない。
「女神はともかく……ルゥが女神っぽく演出して歌をプレゼントしてあげたら?」
「そんなこと言われても、俺の歌なんてフツーだよ」
彼女はその華やかな顔立ちをぐっと曇らせる。
「うーん……。私が“本物の女神”仕込みの歌を教えてあげてもいいけど……」
「本物の女神…仕込みの歌!?」
ルゥの顔が紅潮した。しかしアリアンロッドは口にはしたものの、国の宗教歌を勝手に教えていいものかと躊躇した。とりあえずこの話は保留にする。ルゥはがっかりしたようだ。




