② 確信的愚王
アリアンロッドは雲行きが怪しいと感じた。
(夢じゃなかった……。)
これは現実の出来事で、彼は自分を包み込みに来たのではない。
《《剥がしに》》来たのだ。
「どういうこと? 私の心はずっと前からあなたのもので、それをあなたがどうしようと……」
無意識に目線を逸らしてしまった。
「そのように閉ざしたままなら、私は今、ここで命を断つ」
「! 質の悪い冗談だわ!」
「冗談ではない。大聖女の心を聞けない、信頼もされない男王など、存在価値もないのだから」
やはりすべて見抜かれていた。彼はもう大抵のことは分かっている。
大聖女に無下にされ、重要な何かを打ち明けられない、情けない己の存在だけが、彼にとっては事実であった。
「違う!」
彼女は再び彼の胸に飛びついた。
「私の心が弱いだけ! あなたが苦しむのを見るのが怖くて、そんなふうに私は私のことばかりで、存在価値がないのは私の方!」
「それだけ抱え込んでいるものが、君を苦しめているのだろう? それを私に分け与えてはくれないのか」
「怖くて悔しくて、何の希望もない現実よ。分け与えても半分にはならない……」
彼は温かい手で彼女の手を取った。
「私を思って、この小さな手でひとり抱え、耐えていてくれたのだね」
そして彼女の後ろ頭にその手を回し、強く抱きしめた。
「ありがとう」
アリアンロッドは嬉しさと悔しさが混ざり合う、どうにも表しようのない気持ちで、しばらく彼の腕の中、ただ涙を流していた。
それからアリアンロッドは知るところをすべて話した。
彼は覚悟をしていたようだが、やはり顔が曇っていくのを早いうちに感じたアリアンロッドは、以降、視線を落として話し続けた。
彼はまた、そんな彼女を抱き寄せる。ずっとこのような事実をひとり溜め込んでいた、その辛さを思うと堪らないようだ。
しばらくそこは静まり返っていた、が。
「あなたの御代でこの国を亡きものにする私を許して」
彼の胸で、アリアンロッドが沈黙を破り呟いた。
「そのようなこと、君が苦にすることではない!」
彼は困惑する。彼女がそんなふうに悩んでいたことに、考えが及んでいなかった。
「私が、もっと強く大きな力を、あるいは、違う形の力を持っていれば、この運命を捻じ曲げることができていたのかも……」
「君は聖なる力で未来を予言してくれた。類まれなる、数奇な力で……。非常に有難いことだ。私は今から私の子らを、この王宮から脱出させる」
彼はまっすぐに彼女を見つめた。
「フリカムイたちを?」
「ああ。彼らも王族の男子、国が敗れる頃までここにいたら捕えられる運命だ。私はそれを回避できる。君のおかげで」
「それって、あなたは……死に支度をするということ?」
「今ほど神のお告げを有難いと思ったことはない。従甥とはいえ、あの3人は我が子だ。どんな苦難にさらされようとも、生き延びてほしい」
「それだけ、ではなく……あなた自身に逃げてほしい……。逃げ道を……どうにか……」
その声はだんだん小さくなった。彼がそのような道を選ぶはずがない、これはとうに考え抜いたことだ。
まして以前頭を過ぎったような、「ふたりで逃げよう」と命を賭して懇願することなど、実際に直面すると一言も声にならない。自身も既に王の片割れなのだ。
「私はそのように死にゆくことも覚悟の上だ。歴代の王はみな、そう。たまたま現在までが平和で平穏で、恵まれ過ぎていただけだ」
「あなたが心からそう思ってるのは分かる。私も同じ気持ちだもの! でも怖いわ、どうしようもなく怖い。あなただってそうでしょう!?」
「そうだな、死は怖い。己の世界が道半ばで終わるのは、すこぶる恐ろしい。しかしそれよりもっと恐ろしいのは、君を守れず死ぬことだ」
「ディオ様……」
ふたりはまたひと時、言葉を失った。
「それにしても、我々は……戦地において潰えるというのだな……?」
「え? それも伝聞で知った一般の民の言だから、確実なことは……。それが何か?」
「私は……戦場で命を落とすというのなら、ただの男としては……。刑に処されて絶えるよりも……」
そこでディオニソスは息を呑んだ。言葉にしてはいけないことを口走ったと気付いたから。
「……今のは、忘れてくれ……」
滅多にない己の失言に、目を逸らす。やはり彼も、動揺の加減が尋常ではなかった。
それでもアリアンロッドは聞いてしまった。
戦いは不可避な事実だと思っていた。しかし、もし国の、高位高官全員の処刑を甘んじて受け入れたら?
いざ戦争が始まれば多くの者が犠牲になる。敵国の兵ですら。
仮に王族の命を差し出せば、それ以外の多くの命が助かる可能性がある。負けると分かっている戦いを、死に場所求め回避しないのは、為政者の壮大な身勝手だ。
だがアリアンロッドはこの瞬間、覚悟した。愛しい人のために、愚王になると。
翌日からディオニソスは、アリアンロッドから見たら“死に支度”である作業に専心した。
アリアンロッドはルーンに、自分たちがいなくなった後、この地でユング王に仕え、この地の民を守って欲しいと頼んだ。それだけが彼女の策であり、希望だった。
「ユング王は権力を振りかざし、圧政を敷くような愚かな王じゃない。彼は、民が善良である限りは守る気概のある、という面で良き王なのよ。彼になら、ここを明け渡すのは構わないわ」
まるで見てきたかのようなおっしゃりぶりだ、とルーンは感じたが、彼女の話を続けて聞いていた。
「愚かなのは私。ディオ様とヴァルをユング王に差し出すことは絶対にできない。もしかしたら敵兵含め何千もの命を犠牲にしても」
それでもまっすぐな彼女の瞳に変わらぬ決意の色を感じ、ルーンは年長の者が諭すように話し出す。
「それが人の心ですから仕方がない」
アリアンロッドはそれを言ってほしかった。今は詰られたくなかった。
「私だってたとえば、見知らぬ5つの子と40の私の母が同時に溺れていたら、脇目も振らず母を助けます。もう何年生きるか分からない母と未来ある5つの子、もちろん後者を助けるべきでしょうが、私は母を見殺しにできません。たとえその未来ある命がどれだけ増えたとしても、たったひとりの母が大事です」
慰めを言われたいのは確かだった。が、そう優しくされると神にでも叱責してもらえたらと思う。彼女はその罰が自分の落命だけで済めばいいのにと願っていた。
「戦いに出る命は諦めるしか……。だけどそれ以外の命を、それからの平和な暮らしを、あなたに委ねるから。ユング王の信頼を勝ち取って。そのための策をこれから練っていきましょう」
「力の限りを尽くします。ですが、ユング王にとって私など、敗戦国の一残兵でしかない。出会い頭に一目で重用したいと思われる、何かを出さなくては」
「あなたならやってくれる気がするから」
そうは言われても策のない現状では、楽観が過ぎるようにルーンは思う。
「それは神の力に依るものですか? その、根拠が?」
「根拠は今のところ……顔!」
「は??」
しかしアリアンロッドは己の中で、“確かな根拠がある”と感じている。でもそれは、今は思いつかないのだ。




