① 隠し通せなかった
アリアンロッドはこの頃うまく眠れない。
彼女の耳にも軍部の最新情報が入ってくる。東部に送った密偵の連絡が途絶えただとか、東の国境に配備された兵士らが不審死を遂げただとか。ディオニソスはアリアンロッドを思いやり、そういった情報は官人・役人らの内でできる限り収めるべきと苦心しているが、彼女はあえて耳聡くしているのかもしれない。
きな臭いには違いないが、王宮の多くの人間は、以前の防衛戦で大勝を博した記憶も新しく、国家存亡の危機を憂う雰囲気もそれほどではない。それよりも彼らは、アリアンロッドが即位してからというもの、新たに聖女が召し出されるのを待ちわびているのだが、まだその沙汰がなく、そろそろ大聖女に聖なる力で探し当てられたいといった声が上がっている。
しかしアリアンロッドはそれどころでなくて──。
命の期限が刻々と迫っている、その現実が彼女を眠る間も苛むようになってしまった。
愛しい人のために、臣民のために、己の命を投げうってでもと、そんな自分でありたいと願っていても、やはり恐くてどうしようもない。
本当は、まだ死にたくない。今すぐ逃げ出したい。
────未来を知っているからって、自分だけ──……?
そう考えてしまう己が不甲斐なくて、自己嫌悪を繰り返している。
行商人に注文して入手した薬師マクリールの薬を煎じて飲み、晴天の庭園でうたた寝する日が続いていた。
◇◆◇
「昨晩もよく眠れませんでしたか」
この頃、アリアンロッドの側に控えているのは、ストラテジストのルーンだ。アリアンロッドはとにかく誰かにこの焦燥感を、言葉を聞いてもらいたくて、しかしそれはディオニソスではいけなかった。彼に対しては常に後ろめたさを感じている。未来を知っても彼の命を救う手立てがないことに。
アリアンロッドはいつも“あの男”のことを思い出している。以前の、周遊中の時空移動で出会ったあの男。そして彼の傍らにいた男。
彼らには更に前の移動先で遭ったことがある。
この国を取り込もうと企む隣国の王の、最近臣について知っていることはあるかを、ルーンに尋ねてみた。
ルーンはひとつ答えた。長く、美しい白髪を持つ眉目秀麗な参謀であると。その風貌の噂のみが伝わっているようだ。
アリアンロッドは確信する。国々の乗っ取りを実現した王というのは、やはり“あの彼”だった。ということはつまり、自分は彼を広い外の世に開放した、その一手を担ってしまった。このような後ろ暗い事実、誰にも話せない。
そういった訳でよそよそしいアリアンロッドの態度を感じ取り、ディオニソスも陰では、彼女の支えになれずにいる己の無力さに、打ちひしがれる日々であった。
ルーンがアリアンロッドの視界の隅で、ため息交じりに語る。
「攻めてくることが分かっていて、それならこちらから、となる兵力もない。防衛していてもいつかジリ貧になるだけです」
「どうしても戦力は足りないの?」
「どれだけ切り捨てられるものがあるか、という違いです。こちらも平民の男を存分に動員し戦場に繰り出せば、勝機はありますが。それをお望みでないのでしょう?」
アリアンロッドは苦しい顔で頷く。
「軍事力というのはやはり数なので。軍の大きさがとうてい敵わない、それが勝敗を決するすべてです」
アンヴァルも彼の率いる兵たちも、日々訓練を怠らず努力を重ねているのにと、アリアンロッドは悔しく思う。しかし個人の武力の問題ではない。
「たくさん徴兵して一時凌いだとしても、国の日常が崩れるわ。民の暮らしが立ち行かなくなれば、それだって命の危機。人口も減って、結局いつかこの国土は奪い取られるんでしょう!?」
「そうですね。軍の規模に対抗するなら、あらかじめ隣国同士で固く結束しておかねばなりませんでした。向こうは力づくでそうしてきたのだから。我が国も周辺国も、もう何十年内政内政と、互いにそうなのだから、幸いにもぬるい平穏が続いてしまった。私も軍に入隊して12年、この役に就いて10年、取りかかりが甘かったと後悔しています」
彼は軍のストラテジストとしてここ数年で得た情報を頼りに、戦術を駆使し小さな軍で大きな敵を出し抜く方法を考えているのだが、どう机上で模擬攻略しようにも難しいと感じるようだ。力不足を悔いる彼を、アリアンロッドは改めて労った。
「戦いというものは、その前段階で決まってしまうものです。向こうの王の国取りは20余年を掛け、優秀な参謀の計画により体系的になされてきました。20年の時は巻き戻せません」
「私が20年以上前のここに飛んだ時、そういうことを話せればよかったのに!」
神の力は一方的、そして一時的に与えられるだけで、思い通りにはならない。十分身に染みていることだが、ここに来てとどめの無力感だ。神の加護に関してすら、“あの男”に勝るものではなかった。
「もう敵国をどうにか打ち負かそうなどとは考えない。私たちの課題はいかに国民の命を、平穏を守るかということよ。それに専念しましょう」
この時のふたりは、人払いをしていただけで無配慮だった。その室外で聞き耳を立てる者がいたことに、気付かずにいたのだった。
その夜、眠りに誘われかけた頃、スタッと乾いた音がしてアリアンロッドは目を覚ました。侍女かと思ったが、どうもその足音は女性のそれより重いのだ。
ベッドから出て、のそのそ扉に寄って行った。そこを開けようとしたらそれは先に開いてしまい、彼女は一瞬ヒヤッとする。
「……ディオ様……」
彼女の冷静な部分がそれを小声にした。
どうして彼がここに、と考える間もなく、彼からの言葉を聞いた。
「シーッ。こんな夜分に男が訪ねて来た、これがどういうことだか分かるね?」
「…………?」
扉を静かに閉めた彼に、咄嗟に肩を抱き寄せられ、アリアンロッドは息を飲んだ。
「ディ、ディオ様……?」
「知ってる? 真夜中の男と女はこんなふうに始まるんだ」
「え……?」
言いながら彼の、アリアンロッドを抱く腕は強さを増し、彼女の身体は彼の胸に深く押し込まれる。
(本当に、ディオ様だ……)
香りも、その体温も鼓動も十分覚えている。
(でも……)
これは夢だろうなとぼんやり思う。
(なんて現実のように確かな感触とぬくもり……)
鼓動はごまかしなんて寸分もきかず、高鳴りの速度を上げる。これは比べるべくもない、今までみた中でも極上の夢だ。
──お願い、目が覚めるまで最後まで……
「ディオ様!」
彼女の両腕が彼の両脇をすり抜け、その背を抱きしめる。頬を彼の広い胸にうずめると、とても心地良く、やはりこれは夢なのだと思う。
いったん彼の右腕は彼女の背から離れ、その長い指が耳の下にそっと触れたら、そのまま顔の輪郭をなぞり、彼女は軽くあごを持ち上げられた。
そして暗がりの中、互いの目が合うと、彼女の胸は締め付けられ、目を開けていられなくなり──
「目を開けて」
(声が優しい。)
アリアンロッドはとけてしまいそうな自分を感じる。瞼を開けると、本能で大好きだと感じる顔がすぐそこにある。
「私の前で、すべて脱いでくれるか?」
「……え?」
(そ、そうよね? 夜の男女は、そういう……)
この瞬間、こんなにも夢心地なのに、アリアンロッドの身体はなぜか躊躇った。
この一瞬の隙を埋めるように、彼からこぼれた言葉はこれだった。
「君の心を、すべて」
「心……」




