95 お名前を呼んでいるのです!
取り繕うことが出来ず、瞳を揺らす自分の姿を見つめ、シャーロットは考えた。
「ニクラス殿下は、私とオズヴァルトさまを結婚させたがっているお方なのですね」
シャーロットがオズヴァルトに嫁いだときの力の差を、まったく気に留めていない。それどころか、国のためにはそうするべきだと考えているのだ。
「つまり、私とオズヴァルトさまを引き離したがっていらっしゃるような振る舞いのクライドさまは、ニクラス殿下とは無関係。そしてそのクライドさまが私の夫であることも、恐らくは嘘で……」
「…………」
「オズヴァルトさまと婚姻するまで、私は誰の奥さんでも無いようです。――それではどうして私は、婚姻の祝福に拒まれるのでしょうか」
オズヴァルトが耳を傾けてくれているのを感じながら、シャーロットは考えていることをそのまま口に出し、整理してゆく。
「それに。クライドさまは結局どのようなお方で、どなたに指示をされた身の上でいらっしゃるのか……」
ぐるぐると思考が回る中、オズヴァルトがぽつりと呟く。
「やはり、先ほどの違和感を掘り下げるべきであるように思う」
「オズヴァルトさま」
「気になっていたんだ。……君は何故、俺のことを『オズヴァルト』と呼んだのか」
「???」
当然のことを尋ねられ、シャーロットは瞬きをした。
「オズヴァルトさまは、オズヴァルトさまです!」
「シャーロット。多くの国では、さほど面識のない男に対して、家名……つまりは姓で呼び掛ける。姓を知っている限りはな」
「!」
思わぬことを教えられて、シャーロットは驚いた。
(そういえば……)
シャーロットに礼儀作法を教えてくれたハイデマリーは、オズヴァルトのことを姓である『ラングハイム』と呼ぶ。
友人である令嬢たちも、オズヴァルトのことは『ラングハイム閣下』だ。
もちろん夜会でも、オズヴァルトのことをオズヴァルトと呼び掛けるのはイグナーツだけで、それ以外の人々は『ラングハイム公爵閣下』と呼んでいた。
「おうちの名前で呼ばれるのは、男の方だけなのですか?」
「そうだ。家を継ぐことが出来る男は家名で呼ばれ、いずれ姓が変わる可能性の高い女性は名で呼ばれる」
「だからハイデマリー先生はハイデマリー先生で、私も皆さまからシャーロットと呼んでいただけるのですね!」
記憶喪失になっているシャーロットにも、生きていくのに必要な情報や、言語などの知識は残っている。
けれども自分のことや国の伝統など、思い出に紐付く記憶が消えていて、ちぐはぐなのだ。
そんなシャーロットに対し、オズヴァルトはいつも丁寧に教えてくれる。
「記憶を失くした君が目覚めた際、俺に名前を聞いたな。あのとき俺が姓ではなく名を答えたのは、君が俺の呼び方を決めるために問い掛けたと考えたからだ。まさか、記憶を失くしているとは思わなかったからな」
「な、なるほど……夫婦で名字を呼ぶことは、あんまり無さそうです!」
「だが、それも一瞬は躊躇した。習慣として、姓を名乗る方が自然になっているためだ」
シャーロットは思い出す。オズヴァルトにしがみつきながら美しい名前を聞いたときの記憶は、すべて鮮明に残っていた。
『お願いします、どうかとにかくお名前だけでも!!』
『っ、オズヴァルト……!』
『オズヴァルトさま!!』
オズヴァルトが少しだけ言い淀んだのは、シャーロットの勢いに呑まれただけではなく、その躊躇いもあったのだろうか。
「記憶を失い、俺の姓に関する知識のない君が、最初に教えた『オズヴァルト』で呼ぶことに違和感は無かった。だが……」
「?」
「覚えているか? 君は最初の夜会で、初めて会わせたイグナーツのことも、最初から姓ではなく名前で呼んでいたんだ」
オズヴァルトのそんな言葉に、シャーロットは目を丸くした。
「イグナーツは当時、君にフルネームを名乗っていたが。君は迷わずあいつの姓ではなく、イグナーツと呼んだな」
「そ、そうだったでしょうか……!! マナー違反でしたか!?」
「呼ばれた本人が気にしていないのだから、問題は無いさ。何より君はあの場で、悪女として振る舞う必要があった」
シャーロットはほっとしつつ、オズヴァルトの素晴らしさに目を輝かせる。
「細やかに記憶していらっしゃって、オズヴァルトさまはすごいです! 私はオズヴァルトさまのことなら忘れない自信がありますが、あの夜会では緊張していました……!」
「……俺だって、君のことだからよく覚えている」
「へ?」
「イグナーツに懐き、すぐさま名で呼ぶようになった君を見て、あいつに嫉妬していたからな」
「!?」
初めて聞いた思わぬ告白に、シャーロットは驚いて硬直した。オズヴァルトは気恥ずかしいのか、それを誤魔化すように咳払いをした。
「あー……ともかく。シャーロット、君は記憶を失っても、以前の君が身に付けていた習慣はそのまま残っていると話していたな?」
「あ!」
オズヴァルトに確認されて、彼が言わんとしていることに思い当たった。
「先ほどの映像でも、私はオズヴァルトさまのことを、『ラングハイム閣下』ではなく『オズヴァルト閣下』と……」
「この国で、そんな呼び方はしない。君の出身国は極秘とされていて俺も知らないが、恐らく君の故郷には、初対面の相手であろうと姓ではなく名で呼ぶ習慣があるんだ」
シャーロットが思い浮かべたのは、クライドとオズヴァルトが初めて顔を合わせた時の会話だった。
『「私の妻」はこちらの台詞ですよ。オズヴァルト殿』
『シャーロットのことも俺のことも、そのように呼ばせることを許したつもりはないが』
『おっと失敬、ラングハイム殿とお呼びした方が?』
シャーロットはこくりと喉を鳴らす。
「クライドさまは、私と同じ故郷のお方……?」
「そうだ。そして先ほど映像で殿下も仰っていたように、考えられることは」
映像は、オズヴァルトの魔術によって一時的に停止されている。
シャーロットの脳裏に、ニクラスの紡いだ言葉がよぎった。
『いずれ他国は大々的に、お前を奪うための戦を仕掛けてくる。お前の存在そのものが、戦争をする理由となる』
こくりと喉を鳴らす。
そしてオズヴァルトが、忌々しげに呟くのだ。
「――君の故国が、『聖女』シャーロットを取り戻しに来た」




