90 珍しくもない夢
【第2部4章】
オズヴァルトにとっては正直なところ、兄たちの誰かが自分を殺そうとするのは、さほど珍しいことではなかった。
一番上の兄は無関心で、オズヴァルトに見向きもしない。
三番目の兄エミールは中立を名乗り、オズヴァルトを害する側に回らない代わりに、一切の手助けもしない。
そして残った三人の兄は、幼い頃からオズヴァルトを疎み、言葉や力で何度も痛め付けてきた。
『はははっ!』
『……っ』
前髪を強く掴まれて、冷たい水から顔を上げる。ここは王城の中庭で、今はもう取り壊された噴水の傍だった。
『どうした、ほら、苦しいか?』
ようやく呼吸が出来るようになったオズヴァルトは、浅い呼吸を繰り返しながら理解する。これは現実の世界ではなく、単なる記憶の再生に過ぎないのだ。
(子供の頃の夢を、見ているな)
兄たちの笑う声を聞きながら、そう実感した。
『さすがはニクラス兄上だ! 水魔術をもう使いこなすなんてね』
『当然だろ? しかし的が抵抗する所為で、練習の効率が悪くて困る』
二番目の兄がそう言って、オズヴァルトの顔を覗き込む。どうやらこれは、実際にあった出来事を元にした夢のようだ。
『化け物はやっぱり役立たずらしい。なあ? オズヴァルト』
『…………』
オズヴァルトが無言で兄を見据えると、兄は忌々しそうに眉を顰めた。
『気持ち悪いんだよ。半分は卑しい血の癖に、魔力ばかり高くて』
『…………』
『お前なんか俺たちの弟じゃない。現に父上はお前のことを、王子だって明かしてこの城に置いている訳じゃないんだ! だから……』
『っ!』
蹴り飛ばされ、先程まで顔を浸けられていた噴水の中に落ちる。
『こうしてお前で遊んでいても、誰も助けに来ないんだよ……!』
『げほっ、こほ……っ!!』
それらはすべて、兄たちの言う通りだ。
オズヴァルトが強く抵抗し、反撃すれば、更にひどい仕打ちが待っている。
王子である彼らと、存在を隠匿された身の上であるオズヴァルトは、存在の価値がまったく違っていた。
『お前はいらない人間なんだ。どれだけ優れていても、王になんかなれない』
『っ、は……』
『神力が高くても、いらないものだから、誰にも守ってもらえないんだ。そしていずれ何処かに売り飛ばされるんだよ。そう――』
兄のひとりが笑いながら、とある名前を口にする。
『たとえば、シャーロットみたいに』
『――――……』
思えばあのときオズヴァルトはまだ、シャーロットという少女のことを知らなかった。
そのため実際にこの出来事があったときは、黙って兄たちの暴力を受け、無言で耐え続けていたはずだ。
『兄上。こいつ、シャーロットのことなんて知らないよ。俺たち以外の誰とも喋れないんだもの』
『ああそうか! 教えてやろうオズヴァルト、シャーロットは父上が勝ち取った戦利品なんだ!』
兄がシャーロットを語る言葉が、オズヴァルトの鼓膜をびりびりと震わせる。
『聖女の力を持ってるなんて、普通は貴重な存在だろう? なのに敵国のやつら、物みたいに喜んで差し出したそうだぞ』
『…………』
『どうせそいつも、お前のように汚い血が混ざっているんだろうな! どれだけ力を持っていても、いらないものはいらないんだ。覚えておけ、お前たちみたいに不要なものを助けに来るやつなんか、何処にも……ぐっ!?』
『!!』
オズヴァルトの拳による一撃で、兄のひとりが吹き飛んだ。
残るふたりの兄たちは、絶句してそちらを振り返る。拳がひどく痛んだが、そんなことはまったく気にも掛からない。
『お、オズヴァルト……?』
(ここは、あくまで夢の中だ)
現実ではなく、何の意味もない。
それでも幼い子供の姿をしたオズヴァルトは、噴水の中からゆっくりと一歩を踏み出す。
『お前、自分が誰に何をしているのか分かっているのか!?』
『…………』
再び拳を振り上げようとしたそのとき、雷鳴の一撃が体に走った。
『く、あ……!』
兄による雷魔術を真っ向から喰らい、くず折れる。オズヴァルトの魔力は父に封じられ、魔術を使うことは出来ない。
『お、驚かせるな……!! 汚い血の混じった分際で、兄上になんてことを!!』
『っ、は……』
『手加減してやさしくしてやっていたのに。もう一度、しっかり思い知らせなくちゃいけないみたいだな!』
ふたりの兄がオズヴァルトに詰め寄り、再び魔術を放とうとする。
『魔力暴走を起こして、自分の母親を殺した化け物のくせに。お前など――……』
『…………っ』
強く兄を睨み付けながらも、覚悟を決めたそのときだった。
「オズヴァルトさまーーーーーーーーっ!!」
夢の中で、誰よりも大きな声がオズヴァルトを呼ぶ。
「!」
その瞬間に兄たちの幻は、まるで霧のように消え去った。どんっと走った衝撃は、魔術の雷によるものではない。
「……シャーロット」
子供姿のオズヴァルトの体には、同じく小さな子供の姿をした、金髪の女の子がしがみついている。
「これは夢ですか、まぼろしですか!? 幼いオズヴァルトさまが、ほんとうに、げんじつに!?」
「…………」
「あわわわわあ……!! 心臓の、音が! お小さいのに、ちからづよく……!!」
シャーロットはすべてを吹き飛ばす眩さで、水色の瞳をきらきらと輝かせた。
「オズヴァルトさまが生きていて下さることを実感する鼓動が聞けて、幸せです……っ!!」
(君は、本当に)
満面の笑顔を浮かべる彼女の姿に、オズヴァルトは深く息を吐き出した。
兄たちの姿が夢から消えたのは、シャーロットがここに現れたからだ。
(俺がただ生きていることを、いつだって心から喜んでくれるんだな)
それがどれほどの救いであるか、シャーロット当人だけが知らない。
「シャーロット」
幼い姿をした彼女を見下ろして、オズヴァルトは告げる。
「これは夢であり幻だ。俺たちは、現実とは違う世界にいる」
「はっ!! そうでした!!」
そしてシャーロットはオズヴァルトから離れると、大人の姿と変わらない元気の良い振る舞いで、誇らしそうな笑顔を浮かべた。
「『夢の中で待ち合わせ大作戦』!! 大成功ですね、オズヴァルトさま!!」
「……そうだな」
「ひゃああああっ!! 夢の中限定の、幼いオズヴァルトさまの笑顔……っ!!」
興奮を叫ぶシャーロットの声は、いつもより高い。幼い子供らしく舌足らずで、ますます夢なのだと実感させられる。
「さて……」
オズヴァルトたちが『夢の中で待ち合わせる』という策を取ったのは、この夢を見る前に開いた、シャーロットの日記帳がきっかけだ。




