73 思惑
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カーテンを閉め切ったその部屋で、クライド・サミュエル・アーヴァインは、自身の右手を握りながら小さく呟いた。
「……ふむ」
何度か開閉を繰り返し、違和感を確認する。クライドの手首には数時間ほど前、他人の魔力がきつく纏わりついていたのだ。
その魔力がクライドを捕らえたのは、聖女シャーロットの元から転移する直前のことだった。
すでに魔法陣が作動し、クライドの体はその場から消える間際だったというのに、追跡魔術はクライドを的確に追い掛けてきたのである。
すぐさま切断したものの、驚いたのが正直な感想だ。あれほどの精度と速さでクライドを捕捉し、追うための魔術を使える人間がいるとは、あまり想像していなかった。
(あれが、オズヴァルト・ラルフ・ラングハイムか)
クライドは目を眇めると、薄暗い部屋の壁に掛けられた鏡へと歩いてゆく。
その表面に映り込むのは、当然ながらクライドの姿だ。映り込んだ自分自身の瞳を見据え、口を開いた。
「これより、ご報告を開始いたします」
着込んでいた上着を脱ぎながら、淡々とした声で紡いだ。
「聖女シャーロットとの接触は成功。オズヴァルトの姿はなく、予定通りの方法で接触できました」
そう話しながら手袋を脱ぎ、その手でシャツのボタンも外す。クライドは片手でぐっと襟元を緩め、目を眇めた。
「俺がシャーロットに惚れ込んでいる『演技』は、問題なく進められているかと」
『…………』
鏡が水面のように揺らぎ、向こう側から声が聞こえてくる。
『聖女シャーロットを秘密裏に連れ出すことは、可能なのか』
「難しいでしょうね。俺が渡した手紙に、シャーロット以外の人間が触れたのを感知いたしました」
『……オズヴァルトか……』
オズヴァルトはクライドを捕らえるために、あの一瞬で追跡魔術を放った。あれが一流の魔術師であることは、クライドもすでに理解している。
「どうやらシャーロットは完全に、夫のオズヴァルトの影響下にある様子。とはいえ、この程度の行動は想定内ですが」
『引き剥がせるか?』
「そうですね。俺の前では冷静な悪女として振る舞っていたものの、あれはシャーロットの演技でしょうから」
冷たい表情と声音の裏に、微細な反応が感じられた。多くの嘘を見てきたクライドにとっては、あまりにも分かりやすい嘘の証左だ。
恐らくシャーロットの本質は、素直で単純かつ鈍い女なのだろう。
「俺は引き続き、聖女シャーロットと相思相愛でありながら、彼女が記憶を失ったことによって捨てられた哀れな男として接触いたしましょう」
『引き続き、報告を怠るな』
「もちろんですよ」
クライドは笑い、鏡のあちら側を遮断した。離れた場所に声を届けるこの特別な魔術は、ほんの数分でもひどく疲れるのだ。
「……さて」
どさりと長椅子に腰を下ろし、脚を組む。やはりまだ違和感の残る手首を見下ろしつつ、次の方法を考えた。
「『……ようやくあなたにお会い出来ましたね、聖女シャーロット。早くあなたをお連れしたい……』」
クライドが小さく呟いたのは、シャーロットに妄信的な恋心を捧げる男としての、偽りの台詞だ。
「『あなたが汚れてしまう前に、俺のものにしてしまわなくては……』」
クライドは前髪をくしゃりと掻き上げると、くだらない言葉にうんざりしながら溜め息をついた。
「……やはり、演技の度合いはこんなものかな」
強すぎる感情を持ったふりは、他のすべてを覆い隠すのに役立つ。
他人からまともではない執着を向けられると、人間は正常な判断が出来なくなるのだ。
得体の知れない愛情への恐怖心に、あるいは強烈なまでに愛されることへの喜びに、思考力が奪われてしまうのだろう。
(シャーロット。悪虐聖女と呼ばれた女、か)
彼女ひとりを籠絡するのに、それほど時間を掛けるつもりはない。
(あの手紙を渡した最大の目的は、シャーロットの行動パターンを知るためのもの。採取した情報は有効活用し、次の接触に利用する)
クライドはゆっくりと目を閉じる。
(任務が成功しようと、失敗しようと、最終的にはどうでもいい。『彼女』が亡くなっている世界で、俺の生き死になど些細なこと)
とある少女の姿を大切に想い出しながら、独白をこぼした。
「くだらない任務は終わらせて、さっさと国に帰りたいものだ」
***
(は……っ!!)
早朝、もそもそと寝返りを打ったシャーロットは、カーテンの隙間から差し込む光に目を見開いた。
(よ、ようやく朝が……!)
長い夜が明けたことに安堵しつつ、急いで起き上がろうとする。
けれどもそのとき、シャーロットの後ろで緩慢に身じろいだ気配があった。
「ん……」
「!!」
吐息と共に溢れた声に、思わず肩を跳ねさせる。
恐る恐る後ろを振り返れば、シャーロットがあまり眠れない夜を過ごした原因は、シャーロットと同じ上掛けに入って寝息を立てていた。




