71 旦那さまのそれは反則です!
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開け放たれた窓からは、穏やかな春の風が吹き込んでいる。
透き通ったレースのカーテンが揺れるのは、大神殿のすぐ側に建てられた宿の一室だ。
ここは巡礼を行う王侯貴族に向けて作られており、各階に一部屋だけの仕様である。十階建ての塔仕立てで、最上階のここからは聖都の景色が一望できた。
「では、改めて状況を整理するぞ」
長椅子に腰を下ろしたオズヴァルトが、肘掛けに頬杖をつきながら息を吐く。
大神殿に赴くための正装から上着を脱ぎ、シャツ姿で袖を捲っているオズヴァルトは、脚を組んで難しい顔をしていた。
「クライドという男は、以前の君となんらかの事実を共有していた人物のようだ。それも、記憶喪失についての」
「……」
「これまでの推測では、『以前の君が記憶を失ったのは、君自身が意図したものである』という予想だった。君が陛下から受けた契約魔術を回避するための、逃げ道としてな」
そんな風に考えたのは、『悪虐聖女シャーロット』には、命に関わる契約魔術が施されていたからである。
この国の王族から下された命令には、絶対に逆らえないという魔法だ。
以前のシャーロットはその契約に縛られた結果、戦場で残酷な振る舞いを強制されていた。
けれども記憶を失った今のシャーロットに、その契約魔術は通用していない。
王族の命令に背いても、落命を伴う苦痛に脅かされることはなかったのだ。シャーロットたちはその理由にこそ、記憶喪失が作用しているのではないかと想定していた。
以前のシャーロットがそのような手段を取ったのは、オズヴァルトへの秘めた恋心があったからだ。
王命による結婚に、オズヴァルトを巻き込みたくない。かといって契約魔術が施されている以上、その命令に背いて逃げ出すことも出来ない。
だからこそシャーロットはそれを打破するため、オズヴァルトとの婚姻で王家からの監視が緩んだ契機を利用し、自分自身の記憶を封じたのではないだろうか。
その上で、記憶を取り戻した自分にはオズヴァルトのことを敵だと思わせて、オズヴァルトの元から逃げ出すように仕向けた。
シャーロットがオズヴァルトに強いときめきを抱く度、手帳に残していた魔術を発動させることによって、偽りの映像を見せたのだ。
そうすることが、幼い頃から密かに恋い慕っていたオズヴァルトに迷惑を掛けない、唯一の方法だと考えて。
「君の推測に、俺が異論を唱えるつもりはなかった。だが、そのクライドという男の言い分を考慮するのであれば」
「………………」
「『あなたは恐れていた通りに記憶を失う事態へと陥った』という言葉。……それが事実だとすると、君の記憶喪失は『君』が意図して招いたものではないということだ」
「……………………」
そこまで話し終えたオズヴァルトは、隣に座るシャーロットを見て怪訝そうに眉根を寄せる。
「シャーロット?」
「――――……」
「おい。どうした、先ほどから黙り込んで。まさかとは思うが、やはり門に弾かれたときの異変が何か……」
「お…………っ」
ずっと堪えていたシャーロットは、抑えきれなかった思いを溢れさせながら自身を抱き締めた。
「――――オズヴァルトさまのっ、気怠げ上着脱ぎシャツ腕捲り脚組み姿……っ!!」
「……ケダルゲウワギヌギ・シャツウデマクリ・アシクミスガタ……?」
まったく理解出来なかったらしきオズヴァルトが、呪文を真似るように繰り返す。けれどもシャーロットはそれどころではなく、目の前の大変な存在に打ち震えた。
「いけません駄目です反則です……!! 普段きっちりしていらっしゃるオズヴァルトさまが、こうしてお見せ下さる寛ぎのご様子!! ただラフな格好をなさっているのとはまた違う、正装を着崩したときだけに醸し出されるこのアンニュイさ!!」
「シャーロット」
「この高級感溢れるお部屋の中で、何よりもオズヴァルトさまが輝いています!! あなたこそ聖都においても最も神聖なる存在、やはり愛しのオズヴァ……っ」
「俺も愛している。だからまず話を進めさせてくれ」
「ふぁ」
愛している。
さりげない発言にこちんと固まったシャーロットに対し、オズヴァルトはしれっとした様子で推論を続けた。
「記憶喪失が君の意図したものでないとすると、何か他に重大な事情があったということになる」
「……愛……オズヴァルトさまが、あああ、愛……」
「そして、君の夫を自称する不届きな男だが」
ぐるんぐるんと視界が回る中でも、オズヴァルトの望む通りに話を進めたい気持ちはある。
「じ……」
シャーロットは錆びた蝶番のように、ぎぎぎとぎこちない動きで口を開いた。
「自称かどうかは、はっきり断言出来ないのが、問題ですよね……?」
「……」
一度『愛している』については考えないことにして、シャーロットは必死に冷静な思考を取り戻そうと努力した。
「何しろ私には、数ヶ月前よりも古い記憶がありません……。先ほどオズヴァルトさまが教えてくださった、婚礼の大門に拒絶される要因のこともありますし」
既に他の誰かと婚姻を結び、神の祝福を授かっている場合は、他の人間と結婚することは出来ない。
(もしも私が本当に、クライドさまというお方と結婚している場合)
シャーロットはおずおずと、上目遣いにオズヴァルトを窺った。
(オズヴァルトさまとの結婚は、一体どうなってしまうのでしょう……)
「……」
オズヴァルトはシャーロットの悲しそうな顔を見て、溜め息をつく。




