57 知っている私の感情です!
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八歳くらいの小さな少女が、城らしき場所の回廊を歩いていた。
手足は細く、爪が割れていて、顔色は白い。それなのに、金色の髪は綺麗に手入れされていて、その美しさがひどくアンバランスだった。
白いドレスを着た彼女に、話し掛ける人間は誰もいない。
前後にふたりずつ、見張りのような神官がついていて、誰も彼女に近付かないように気を張っていた。
少女の顔つきは大人びているが、その表情はひどく虚ろだ。
水色の目は澱んでいて、何もかもが嫌でたまらないというような、そんな目をしている。
(……ここにいるのは、幼い私?)
シャーロットは、少女の少し後ろから、その光景を眺めていた。
少女はやがて、回廊の外へと目を向ける。
それは、何気ない視線の移りであるようだった。
そのはずなのに、少女は不意に足を止めて、回廊の先にいる人影に目を向ける。
『あれは……』
シャーロットも同様に、少女の見ている方角を見遣った。
するとそこには、黒髪に赤い瞳を持つ少年がいるのだ。
(オズヴァルトさま……!?)
十歳ほどの少年の姿だが、シャーロットが見間違えるはずもない。
少年のオズヴァルトは、魔力で出来た氷の剣を手に、大人たちと打ち合いを繰り広げている。
迷いのない踏み込みと、素晴らしい身のこなし。子供とは思えない剣捌きに、魔術を組み合わせた美しい戦い方。
何よりも、その真摯な表情に、少女は目を奪われていたのだ。
『…………』
澱んでいたその瞳に、子供らしいきらきらとした光が宿る。
けれども少女の双眸は、神官にそっと手で覆われた。
『聖女シャーロットよ。我々は一刻も早く、神殿に戻らねばなりませぬ』
『……ええ。わかっているわ』
そして少女は歩き出す。
少年のことを二度と見つめず、決して振り返ることもしないままで、その場を後にしたのだった。
(……そうだったのですね)
光景を見つめるシャーロットは、自身の左胸に手を重ねた。
そうしている間にも、目の前の景色は移り変わり、さまざまな場面が流れてゆく。
『お前は奴隷も同然だ。この王家に逆らうことは許されぬと、その心によく刻むがいい』
銀髪の男性に告げられたとき、十歳くらいに成長した少女は、神殿でひどく苦しんでいた。
命令に背いた結果、全身が強烈な痛みに襲われているのだ。けれども悲鳴をひとつも上げず、少女はただ蹲って、必死に誰かのことを思い出しているようだった。
またあるとき、十二歳くらいに成長した少女は、玉座の前で静かに礼をしていた。
『力の使い所を間違えるな。お前であろうとも神力は有限、一般国民に注いでどうするのだ』
気丈に聞いているように見えるが、その実はいまにも泣き出しそうだ。
けれど、それを誰にも悟られないように噛み締めて、耐え続けている。
『……思うままに、人を救うことを許されないのであれば』
また少し成長した姿の少女は、鏡の前に立つと、自身にそう語りかけていた。
『せめて私は、醜悪な女になりましょう。誰にも尊敬されず、讃えられず、崇められないそんな聖女に。……最低最悪の女として振る舞うの、簡単でしょう?』
そして少女は、白い手で鏡に触れるのだ。
『だって事実ですもの。……私は、力を持っていながら、人を救うことすら出来ない悪女』
言い聞かせるように、信じ込ませるように、ゆっくりと言葉を紡いでいる。
そして少女は、こう呟いた。
『――「オズヴァルトさま」とは、大違いです』
(……やはり。記憶を失う前の、かつての私も……)
シャーロットが感じた瞬間、映像はさらに、断片的なものへと変わった。
目の前に広がるのは戦場で、たくさんの人が少女に手を伸ばす。
けれども少女に命じられたのは、王族と貴族を中心にした治癒だ。
たとえ重要人物に負傷者がいなくとも、いざというときのため温存するように命じられ、ささやかな治療すら許されない。一般兵を守らなければ、守りも攻勢も意味がないというのに。
戦場での名誉を求め、王子たちや貴族はみんな、自らが戦場に立つことを選んだ。
それでいて、危険な場所には出て行かない。少しでも負傷すれば騒ぎ立て、少女を大声で呼び付ける。そんな光景が、どんどんシャーロットの周囲を流れていく。
少女はずっと、辛そうにしていた。
けれどもそれを顔に出さないよう、悪女のふりを続けられるよう、鮮やかな笑みを浮かべ続けていたのである。
(……嘘が下手である私が、夜会で『悪女』として完璧に振る舞えたのは、体が覚えていたからなのですね)
かつての自分が出来ていたことは、記憶を失ったあとのシャーロットにも出来るのだ。ちょっとした姿勢や所作、守護石の装身具づくりまで。
そして、かつての自分が繰り返してきた悪虐聖女としての演技も、体に染み付いていたということなのだろう。
(……いま、私が見ているこの光景は、あの日記帳に見せられたものとよく似ています。けれど)
少女は戦場を歩いていて、傷ついた人々が手を伸ばす。
だが、決定的に違うのだ。シャーロットがいま目にしている光景では、かつての自分は泣いていた。
(以前の私が笑っていた、あの光景は嘘。……本当は、泣きながら……)
かつてのシャーロットは、記憶を失った自分のために、偽りの記憶を見せようとしたのだ。
自分が本当の悪女であると、記憶喪失後にも証明するためだろうか。
日記の映像を見ているとき、どこか他人事のように感じられた部分があったのは、その所為だったのかもしれない。
やがて、以前のシャーロットは、戦場の先にひとりの人物を見つける。
出会わないようにと足を止めた。守るべき人々に囲まれ、彼らの手を握ってやっているオズヴァルトは、懸命に彼らの応急処置をしようとしている。
オズヴァルトの姿を見て、かつてのシャーロットは呟いた。
『……私は、あの人の敵です』
日記帳の一ページ目に書かれていた、『敵』という言葉を思い出す。
その独白を聞いているだけで、シャーロットは苦しくなった。
日記帳の光景を見ているときとは、受け取る感覚がまったく違う。これこそが、自身が体験した本物の景色なのだと、痛いほどに理解できた。
やがて景色がまた変わる。
そこはもう戦場ではなくて、美しい神殿の中だった。
シャーロットの元に、王族からの命令が届き、それを聞いて耳を疑った。
――オズヴァルト・ラルフ・ラングハイムの妻になり、神力の封印へ応じるように。
国王は、シャーロットにそう命じたのだった。
『……私があの人の妻になんて、なって良いはずがありません』
かつてのシャーロットは、ひとりの部屋でそう口にして頽れた。
『私はあのとき救えませんでした……!! あの人が守ろうとしたものも、助けたかったであろう人々も。それなのに、駄目……!!』
そして彼女は、ぎゅうっとその手を握りしめるのだ。
『聖女のくせに、誰ひとり救えもしません。……せめて、この記憶を消してしまえば、「あの方法」が使えるはず……』
『消してしまえ』と書かれていたのは、日記帳の二ページ目の見開きだ。
『すべて忘れて。私が忘れることで使える手段で、あの人を、逃して……』
日記帳の次の見開きには、確かに『逃して』と綴られていた。
逃したかったのは、シャーロット自身ではなかったのだ。
彼女はオズヴァルトを、自分の元から、この稀代の悪女から逃したがっていたのである。
『……オズヴァルトさま……』
彼女が口にしたその言葉は、幼い頃から、辛いときに心の中で呼び続けてきた名前だったのだろう。
それで、シャーロットは全てを確信した。
(……私は、記憶を失う前からずうっと、オズヴァルトさまに恋をしていたのですね)
そのことを、改めて実感する。
(記憶を失って目覚めたあの朝、あの瞬間からの、一目惚れでは無くて)
シャーロットは、以前の自分をそっと見つめた。
(……幼い頃、熱心に剣を振るうお姿をお見掛けしたときから、オズヴァルトさまをお慕いしていたのです)
その記憶を取り戻したわけではない。
ただ、いまここで見せられた光景が、確かに自身の過去であると感じられたのだ。
(たとえ、記憶を失ったとしても)
目の前にいる、かつての自分の頰を伝う涙に、シャーロットはそうっと触れてみる。
(……私は、オズヴァルトさまへの恋心だけは、どうしても忘れることが出来なかった……)




