45 旦那さまと一緒で嬉しいです!
その日、シャーロットは夢を見た。
あちこちに火の手が上がる中を、ひとりの女性が歩いていて、その後ろ姿を見つめている夢だ。
女性の肌は白く、髪は淡い金色で、全体的にとても色素が薄い。
ドレスまでもが白いものだから、その姿はいっそ現実的ではなくて、幽霊が歩いているかのようだった。
シャーロットは、その幽霊のような女性が、自分の姿であることに気付いている。
(記憶を失う前の、私の夢でしょうか)
それよりも胸が痛むのは、この戦場の光景だ。
煙が立ち込め、悲鳴が聞こえ、遠くから剣同士や魔法のぶつかり合う音がする。道端には、何人もの兵が蹲り、呻き声をあげていた。
『聖女さま……』
倒れた魔術兵が手を伸ばし、前を歩く『シャーロット』に助けを求めた。
『どうか、お慈悲を。……治癒を……』
そう訴えられた『シャーロット』が、兵を見下ろしてふわりと微笑む。
身を屈めて伸ばされた手を取り、彼女がやさしく微笑むと、兵は安堵の息をついた。けれどもその顔は、すぐさま絶望に染まることになる。
『え……?』
『シャーロット』は、すぐさまその微笑みを消し去ると、魔術兵の手を離してしまったのだ。
『お……お待ちください……!!』
声を掛けられようと、そこから振り返ることはしない。
その背に向けて、悲痛な声が何度も投げられる。
『聖女さま、治癒を……!! お願いです、助けてください、助けて……』
(…………!)
それを見ているいまのシャーロットは、痛ましさで胸が締め付けられそうになった。
(……何故、助けないのですか?)
これは夢であると分かっていても、かつての自分に問い掛けてしまう。
(あなたには力があるのでしょう。聖女なのでしょう? ……それを使い、ここにいる方々を助けないのは、どうしてなのです?)
『…………』
以前の自分が足を止め、くすっと笑った。
『覚えておきなさい』
(!)
勘違いなどではない。
水色のその目は、確かにこちらを見据えている。彼女はいまここにいる、記憶を失ったシャーロットに向けて、警告めいた言葉を放つのだ。
『聖女の神力は、どのように悪用することも出来るの』
(…………)
そしてシャーロットは、ぱちりと目を開いた。
身を起こすと自室の寝台で、上掛けが体の上から滑り落ちる。
シャーロットが目をやったのは、まだ薄暗い室内で、淡い光を帯びている日記帳だった。
寝台から抜け出し、日記帳を開いてみると、あれほど頑なに閉じられていたページの先を捲ることが出来る。
四ページ目と五ページ目、その見開きの片側に書かれていたのは、やはりシャーロットの書き文字だ。
『――――逃がして』
「…………」
その一言は、それ以前のページに書かれていた文字よりも、随分と小さな文字で綴られているのだった。
***
「うふふ。……うふふふふふふ、ふふふ……!!」
湖のほとりにて、シャーロットはずうっとにこにこ笑っていた。
引き締めなくてはと思っても、数秒後には頬が緩んでしまう。
今朝の記憶を思い起こし、反芻して、ベンチで顔を覆ってしまうのだ。
「今日は随分と幸せそうですなあ、お嬢さん」
シャーロットの左隣に座っているのは、先日知り合った老人である。
この屋敷の庭仕事をしているという老人は、夫人の形見だと言っていた青いマフラーを巻き、シャーロットを見守るように微笑んでいた。
「はい! それはもう……!!」
元気いっぱいに答えたシャーロットは、ほうっと溜め息をつく。
「このところ、とてもとても良いことがありまして……」
きっかけは、夜会の翌日だ。
気を失ったシャーロットが目を覚ましたあと、部屋を訪れたオズヴァルトは、シャーロットに向けて難しい顔で言い放ったのである。
『――君の食事は、今日から食堂で俺と一緒だ』
『ええええ……っ!?』
あまりの事態に、シャーロットは愕然としてしまった。
『お、お待ちくださいっ、それは何故!?』
『何故もなにもない。数日様子を見ていたが、君のメイド問題はこのままにしておけないだろう? とはいえ解雇したところで、なかなか次の要員が見つからないのも事実だ』
『解雇……』
シャーロットはさあっと青褪めた。
メイドたちは、相手がシャーロットだから怯えただけで、仕事を放棄したかったわけではないはずなのだ。
そんなシャーロットを見て、オズヴァルトは溜め息をつく。
『……メイドたちについては、全員分の紹介状を書く』
『!!』
『人手が足りない貴族家など、この国にはいくらでもあるからな。彼女たちはここでこそ職務を放棄したものの、本来優秀な者たちだったとは聞いている』
その言葉に、心底ほっとした。
『ありがとうございます、オズヴァルトさま……!』
やっぱりオズヴァルトは誰よりも優しい。ひとしきり喜んだあと、シャーロットは改めてオズヴァルトの発言を振り返った。
『あれ……? お、オズヴァルトさま、それはそれとして確認です。あの、最初になんと……?』
『だから。メイドを謹慎させている分、食事などの用意の人手が足りない。俺の執事に用意させる関係上、君は今日から、俺と一緒に食事をとってもら――…………何故ここで寝台から転げ落ちる!?』
落ちたのではない。
シャーロットは寝台から床に伏せ、あらゆるものに祈りを捧げたのだ。
『うあっ、あああっ、ありがとうございます……!! 今日という日の幸運、人生の素晴らしさ、明日も生きていけることに心よりの感謝と祈りを…………』
『やめろ!! 飯を一緒に食うだけだと言っているだろう!! 額を床に擦り付けるな、立て!!』
『ううう、ごめんなさいオズヴァルトさま……!! 私、いまはそのご命令に従えそうもなく、もうしばらくこの体勢で噛み締めさせてくださいませえ……っ!!』
『いいから立てと言っている、食堂に行くぞ!!』
『ああーーーーっ!! そんな、べりっと床から引き剥がすなんて、ご無体なーーーーっ!!』
そんな攻防の末、シャーロットはオズヴァルトと食事をしたのだ。
一昨日の朝ご飯や、一昨日の夕ご飯も。
昨日の朝ご飯、さらには昨日の夕ご飯まで。
そしてなんと、今日の朝ご飯ですら、オズヴァルトと向かい合っての食事だった。
(ご飯を食べるために、お口を開けたオズヴァルトさま……。たくさん食べるお姿、美しいナイフとフォーク使い……)
思い出すだけで、胸がいっぱいになってしまう。
「はあ……今日はおじいさんにお会い出来てよかったです。ハイデマリー先生の授業も終わってしまって、この胸の高鳴りをどなたにも聞いて頂けなかったものですから……」
「大きな温室があるという、かのお屋敷に住まう方ですな。噂では、それは見事に花々が咲き乱れているとか。叶うなら、一度この目で見てみたかったものですが……」
「駄目なのですか? このお庭を作り上げたおじいさんであれば、ハイデマリー先生も見学は大歓迎なのでは」
あの温室も、管理しているのはきっと庭師だろう。だが、老人は首を横に振った。
「ははは。あの屋敷は、男子禁制の結界が張られているのですよ」
「まあ!」
「元聖女ハイデマリー殿の張った結界は、多少のことでは破ることが出来ませぬ」
それを聞いて、シャーロットは納得した。
屋敷の中に誰も男性がおらず、シャーロットを送り届ける魔術師すら女性だったのは、そんな事情なのだろう。
(男の人が入れないだなんて、さすがは淑女教育の場ですね)
「だが、お寂しいですなお嬢さん。お友達となかなか会えなければ、この屋敷で暮らすのは退屈でしょう」
やさしく問われ、改めて考える。
(……おじいさんは、私が『聖女』シャーロットであることを、やはりご存知なのですね)
そうでなければ、『この屋敷で暮らす』などという発言は出てこないはずだ。
気付いているにもかかわらず、シャーロットに冷たい態度を取らないでいてくれる。それを嬉しく、同時に申し訳なく感じつつも頷いた。
「はい、とても寂しいです。それに、ハイデマリー先生やお友達には、お聞きしてみたいこともあったので……」
「ほう。どれ、この爺に質問いただくというのは如何かな?」
「おじいさんに、ですか?」
老人は、にこにこしながらシャーロットを見ている。
「あの……実は、王子さまのことなのですが」
一度は口にしてみたあとで、シャーロットはやはり後悔した。一国の王子に対し、迂闊な発言をしたと知られれば、オズヴァルトに迷惑が掛かるかもしれない。
「王子?」
「いえっ! おうじ……おじ、おじゅ、おず…………オズヴァルトさまのことなのですが! 王子さまのように素敵な、オズヴァルトさまのことで……!!」
「ふむ?」
慌てて方向性を変えてみたものの、シャーロットが聞きたかったことはこれと同じだ。
「……オズヴァルトさまに、敵はいるのでしょうか?」
「……」
この疑問ですぐに浮かんでくるのは、シャーロットの日記帳に書かれた文字のことだ。日記帳の一ページ目には、オズヴァルトの肖像画と共に、『敵』と一言綴られていた。
(ですがあれは、あくまで記憶を失う前の私が書いたもの。私にとっての敵はオズヴァルトさまだったかもしれませんが、オズヴァルトさまから見た敵は……?)
王子ランドルフは、明らかにオズヴァルトへの害意を持っていた。
オズヴァルトはそれを受け流しながらも、ランドルフへの警戒心は絶やしていなかったように見える。
一国の王子と、公爵とはいえ国に仕える魔術師が、あんな風に対立する理由はあるのだろうか。
「……あ! ご、ごめんなさいおじいさん! おじいさんはお庭に仕事をしにいらしているのに、そんなことご存知のはずもありませんよね。私ったら……!」
「……」
老人は、仕方がなさそうに微笑んだ。
「優秀な人間は、同世代に疎まれるものですからな」
「そうですよね。……考えられるとしたら、そういった理由なのでしょうか」
あのランドルフという王子は、気位がとても高そうだった。
年齢もオズヴァルトと同じくらいか、そう変わらない程度だろう。
ランドルフがオズヴァルトと比較され、それでも敵わないという経験が重なれば、強い敵意を抱くこともあるのかもしれない。
(けれど、あれはもっと、入り組んだ敵意だったと言いますか……。オズヴァルトさま、身分のある方にあんな態度を取られるのは、お仕事にも関わりますし大変ですよね)
ううん、と考え込む。
そんなシャーロットを見て、老人が笑った。
「恩人であるお嬢さんは、何事かで随分とお悩みのようだ。どうですかな? ここはひとつ、爺の提案に乗ってみる気は」
「提案、ですか?」
「ええ。もしかしたら少しだけ、お嬢さんや想い人の心が晴れるかもしれませんぞ」
冗談めかした老人のウインクに、シャーロットはくすりと笑う。
「……はい! 是非、教えていただきたいです!」
そしてシャーロットは、老人から聞いたとある作戦を決行することにしたのだった。
***
王城の片隅にある書庫の中で、オズヴァルトは魔導書を閲覧していた。
薄く積もった埃を払い、必要な記述を探してページを捲る。そこに近付いて来たのは、少年期からの顔見知りだ。
「よお。夜会ぶりだなオズヴァルト」
「……討伐任務に三日も掛かるとは、お前にしては時間が掛かったじゃないか。イグナーツ」
「へいへい。オズヴァルト団長からお褒めいただいて光栄だよ」
ひょいと肩を竦めた彼を無視して、オズヴァルトは再び魔導書に目を落とす。それについて、イグナーツはまったく気にもしていない。
「ああそれにしても面倒だぜ。報告書を書くにも、魔導書からの正式な引用が必要なんざ」
イグナーツはそんなことを嘆きつつ、オズヴァルトの隣に立ち、棚に手を伸ばしながら囁いた。
「……お前の読みは正しかったぞ。オズヴァルト」
「…………」
辺りに誰もいないことを、オズヴァルトも改めて確かめる。
「やはり、王位継承権の順位についてか?」
「ああ、ランドルフ殿下が荒れてるのはそれだ。国王陛下は近々、最終審議に入ると」
(……国王陛下は以前より、継承権を生まれた順ではなく、その実力で決めると仰っていたからな)
オズヴァルトは舌打ちを堪えつつ、自身の仮説が正しいことを認識した。
イグナーツの方も、考えることは同じだったらしい。
「すべての王子殿下や王女殿下の中でも、ランドルフ殿下は最下位になるだろーな」
「イグナーツ、そういうことは口にするものじゃない。誰が聞いているか分からないぞ」
「いやいや、俺が近付いた瞬間から防音魔術を展開してた癖に?」
オズヴァルトはふんと鼻を鳴らす。苦笑したイグナーツが、読みもしない魔導書を棚から出しては、無駄に埃を舞い散らした。
「そんなこんなでランドルフ殿下は、焦りや苛立ちまみれって訳だ。結果、お前やシャーロット殿に敵意が向いていると。とはいっても夜会で揉めた件は、監視魔術の映像下だったんだろ?」
「……」
「だったら他の殿下方や、何より国王陛下の目にも届いているはずだ。国王陛下がご覧になったなら、余計なことはするなってランドルフ殿下にもお叱りがいくんじゃねえ?」
「イグナーツ」
オズヴァルトは、目を閉じてはっきりと言い切った。
「国王陛下のなさることを、俺は決して信用しない」
「……オズヴァルト……」
思い出すのは、夜会でランドルフに告げられた事実だ。
(シャーロットには、契約魔術による命令が仕込まれていた。……恐らくは、彼女がこの国に差し出された幼少期からずっと)
実際のところオズヴァルトは、神力を封印する前、『悪虐聖女』だったシャーロットとの面識は皆無なのだ。
(噂は耳にした。戦場で遠目に姿を見たこともあれば、彼女の神力によって一隊全員が治癒した瞬間も目にした。……それに、聖女に治癒を拒まれたとして、息を引き取った友人たちの亡骸を)
だが、実際にその悪女と会って話したことは、ただの一度も無かったのだ。
(戦場で俺たちの前に現れなかったのも、社交界嫌いだと言って人々との交流を持たなかったのも。本当に、彼女の意思だったのか?)
こうなると、すべてが疑わしくなってくる。
「国王陛下は、俺やシャーロットを利用した末、いずれ不要になれば切り捨てるおつもりだろう。――そういうお方だからな」
「……お……っ」
イグナーツは、しばらくオズヴァルトを見据えたあと、自分の体を大袈裟に抱き締めてぶるぶる怯えた。
「お前ー……! 俺が言ったこと以上にやばい発言だろ、いまのは……!」
「ふん」
「まったくぴりぴりしやがって。そんな苛ついてると、シャーロット殿に嫌われるぞ」
(……シャーロットが、俺を嫌う……?)
その光景を想像してみようとして、オズヴァルトは思わず真顔になってしまった。
「…………いや。それは無いな、絶対に」
「うわ、マジかよてめえ!!」




