41 旦那さまが笑って下さいました!
「ひあ……っ、お、オズヴァルトさま……!?」
なんだか物凄いことを言われた気がする。あのオズヴァルトが、キスという単語を口にしただけで、シャーロットにとっては一大事だ。
だが、ここで意識を失う訳にはいかない。
「いえあのでも、違います!! 決してそういうことではなくて……!!」
「なんだ。違わないだろう」
「た、確かにそうですね……!?」
しれっと言い切ったオズヴァルトに、シャーロットは困り果ててしまった。
封印は、術者と対象者の『陣が刻まれた部位』同士を触れ合わせることによって行われる。
そしてオズヴァルトとシャーロットは、お互いの舌にその陣が刻まれているのだった。
封印をし直すのも、それから封印の解除をするにも、互いの舌を触れさせなければならない。
(つまり、オズヴァルトさまとキスをしなければ、封印していただくことが出来ません……!!)
そんなことをされたら倒れてしまう。どうしたらいいか分からずに、シャーロットは半ベソで抗議した。
「どっ、どうしてこのような場所に陣をお刻みになったのですかあ……っ!! もっとこう、手とか指とかあったのでは……!?」
「万が一、不慮の事故で触れ合う部位には出来ないだろうが。ここが一番厳重かつ無難だったんだ」
「わあん、オズヴァルトさまの合理主義……っ!! そんなところも大好きです……!!」
両手で顔を覆い、火照りを冷まそうと頑張ってみる。けれど、腹を括らねばならない。
(オズヴァルトさまとキスをして、正気でいるのは絶対に無理です! ……無理ですが、気絶だろうと錯乱だろうと覚悟して、挑まなければ……!!)
シャーロットは涙目のまま、オズヴァルトに懇願した。
「オズヴァルトさま、お願いです。……私にキスをしなくてはいけない件は、本当に申し訳ございません。ですが何卒、私の神力の再封印を……」
「…………」
彼は、涙目のシャーロットをしばらく見据える。
けれどもやがて瞑目すると、ごく小さな溜め息をついてからこう言った。
「――――様子見だ」
「様子見……?」
そんな言葉に、シャーロットは首を傾げる。
「いまはまだ、君の神力を封じない」
「え……!? ですが、私の神力は回復しつつあるのです!」
けれどもオズヴァルトは、そんなことは分かっているとでも言いたげに、平然として続けた。
「そうだろうな。しかし封印された魔力は、回復が始まると一度大きく増加するものの、その増加量はすぐさま微量に戻る。恐らくは神力も同じ動きをするはずだ」
「つまり……私の神力も、今はちょっとだけ大きく伸びましたが、ここからまたじわじわモードに戻るということですか?」
「ああ。それに君の神力は、本当に生命維持ギリギリの際どい所まで封じ込めたんだ。多少回復したところで、たかが知れている……そうだな」
オズヴァルトが、その手でシャーロットの顎を掬う。そのまま彼は親指を、シャーロットのくちびるに押し当てた。
「……っ!」
どきりとする。
息を呑んでいるそのあいだに、オズヴァルトによって、シャーロットのくちびるが開かされる。
「舌を出せ」
「にっ!?」
その命令に悲鳴をあげつつも、ぎゅっと目を瞑ってそれに従った。
シャーロットがちょっとだけ舌先を差し出すと、オズヴァルトは、そこにある陣を観察しながら言う。
「陣を見る限り、大した量ではないだろう。君の封印前を千とすれば……」
「ひゃい……」
「…………まあ、いまは十くらいか」
「りゅう」
確かに千あったところの十と言われれば、そんなに回復した訳ではないような気がした。
だが、本当にそれで良いのだろうか。
「よし。もう舌を仕舞っていいぞ」
「……オズヴァルトさま! あの、再封印は……」
「ある程度の判断は、陛下から俺に委ねられた。この程度の量は、『生命維持に必要な範疇』を抜けていないこととする」
赤い瞳が、まっすぐにシャーロットを見る。
「――再封印については、いまは保留だ」
「!!」
告げられた言葉の意味を、噛み締めた。
(私はまだ、オズヴァルトさまの日々のことを、覚えていられるということでしょうか?)
そう思うと、ここ数日ずっと強張っていた心の緊張が、一気に解ける。
「よ…………」
「……シャーロット?」
ほっとした瞬間、ずっと堪えていた涙が、とうとう両目から溢れ始めた。
「……良かったあ…………」
「……っ!」
ぽろぽろ泣き始めたシャーロットを前に、オズヴァルトが息を呑む。
「あ、ありがとうございます、オズヴァルトさま……!」
「な、何も泣くことはないだろう」
「いいえ。……いいえ……!」
ぶんぶんとかぶりを振って、ぽろぽろと泣きながら訴えた。
「本当は。……私にとって、これはとっても大事な物だったのです」
「……シャーロット」
「いまの私に、『私のもの』と呼べるのは、これだけしか無くて……」
神力ではない。
いまのシャーロットの宝物は、オズヴァルトが好きだという恋心だ。
(オズヴァルトさまが好きです。……お慕いしています。記憶を失ったいまの私に残る、たったひとつの確かなもの……)
神力なんてどうでもいい。
だけど、それが残ってくれたことによって、オズヴァルトのことを忘れずに済んだであろうことがとても嬉しい。
そう思うと、涙が止まらなくなってしまった。
「う……。うっ、う、うええー…………っ」
記憶がないことを知らないオズヴァルトには、神力が残ったことを喜んでいるように見えるだろう。
だけど、それでいい。
ぼろぼろと涙を零しながら、シャーロットは声をあげて泣いた。
「……まったく」
それを見守るオズヴァルトが、再びシャーロットに手を伸ばす。
今度は頰を押さえるのではなく、シャーロットの涙を拭ってくれた。
その指の側面で、そうっとやさしく触れるように、雫を掬い取るように。
そしてオズヴァルトは、柔らかな声で言う。
「……君は、底抜けに明るく強い女性に見えて、案外よく泣くんだな」
「――――っ」
仕方なさそうな微笑みを向けられて、胸がきゅうっと強く締め付けられた。
「ほら。もう泣き止め」
「ううう、はいい……」
だが、オズヴァルトに涙を拭われても、なかなか涙は止まらないのだ。
オズヴァルトは、何処か冗談めいた声音でこう尋ねてくる。
「なんだ? 俺が何をしてやれば、その涙は引っ込む」
「んええ……。オズヴァルトさまが健やかで、毎日幸せに長生きして下されば…………」
「っ、はは」
オズヴァルトはおかしそうに笑ったあと、ずびずび鼻を鳴らすシャーロットの言葉に頷いた。
「分かった。……なるべく努力するから、それでいいか?」
「…………!」
その穏やかな表情に、シャーロットは息を呑む。
微笑んでみせたオズヴァルトが、いままで見た中のどんな表情よりも美しかったからだ。
「……はい。ご覧ください、泣き止みましたオズヴァルトさま!」
「そうだな。――良い子だ」
褒められて、とてもとても嬉しくなった。
シャーロットがようやく笑うと、オズヴァルトが口を開く。
「なあ、シャーロット」
けれど、続く言葉は無かった。
「――――!」
オズヴァルトが、そこで弾かれたように振り返ったからだ。
シャーロットを背に庇い、とある一点を睨み付けた。
その直後、氷の割れるような音がして、誰かが目の前に現れる。
「――ここにいたのか、聖女よ」
(……?)
立っていたのは、銀髪の男性だった。
軍服調の白い衣服に身を包み、前髪を掻き上げるように固めたその男性は、シャーロットを見て笑う。
「……ランドルフ殿下」
オズヴァルトがそう呼んだ男の目は、濁ったような光を帯びていた。




