36 以前の私のふりをします!
端にいる人の顔が見えないほど広大なホールは、多くの招待客で賑わっている。
そのほとんどが男性で、年齢も上の人が多いように見受けられた。
(昨晩、オズヴァルトさまが仰っていましたものね)
今回の招待客は、貴族家の当主やその跡継ぎがほとんどなのだそうだ。
ほかには、実家が侯爵家以上の爵位を持つ夫人たちや、王城で要職に就いている貴族などが出席しているのだという。
(つまりは、貴族社会の中でも代表的な方々のみ、ということです)
エルヴィーラたちはもちろん、シャーロットと年の近そうな令嬢は誰も参加していない。
煌びやかなシャンデリアの下、真っ先に近付いてきたのは、ホールに入場してきたばかりの壮年の男性だった。
「お初にお目に掛かります、聖女殿」
にこやかな笑みの中に、油断できない視線の鋭さを持つ人物だ。
それをきっかけに、さり気なさを装っていた周囲の視線も、一気に直接的で無遠慮なものとなる。
「私はトーマス・ゴットハルト・マルクス・ブラウアーと申します」
(あ! このお方は、先ほど転移地点にもいらした男性ですね)
「こうしてお会いすることが叶い、恐悦至極の極み。陛下だけでなく我々も、聖女殿のお姿を拝見できる今日の日を、待ちわびていたのですよ」
けれども彼は、こんなことを言っていたはずだ。
『今や神力も封じられて、ただの小娘も同然なのだろう。そのような身分で陛下の御前に現れるなど、恥を知らんらしい』
(先ほどと今とでは、仰っていることが随分と違っていらっしゃいますが……)
けれどもシャーロットは、内心でふんすと気合を入れる。
(ようし、頑張りませんと! いまの私に必要なのは、『勝ち気で近寄りがたく、冷たい態度』です! 以前の私のような振る舞い。日記帳に見せられた、あの光景通りに……!)
自分にそう言い聞かせつつ、口を開く。
「……私はシャーロット。シャーロット・リア……」
そこでシャーロットは、はっとした。
(旧姓!! 私の旧姓が、私に分かりませんね!?)
オズヴァルトと結婚しているゆえの『ラングハイム』姓を、ここで名乗ることは出来ないのだ。
(あっ、あわわわ、どうしましょう……!)
反射的にオズヴァルトを見ると、彼も何故か『しまった』という表情をしている気がした。
とはいえこれは、気のせいだろう。
何せオズヴァルトは、シャーロットが記憶喪失であることを知らないのだ。
(『私の名前はなんですか?』などと、オズヴァルトさまにお聞きする訳にも参りません!!)
「あー……ブラウアー閣下。彼女の名について、閣下は既にご存知でしょうが……」
シャーロットの事情を知らないにもかかわらず、オズヴァルトはまるで、助けてくれるかのような言葉を切り出す。
(このままオズヴァルトさまにお任せするべきでしょうか……? ――いいえ、それだけでは駄目です!!)
シャーロットの脳裏に、ハイデマリーの教えが過ぎる。
『よろしいですか? シャーロット。以前も申し上げた通り、夜会の場は戦場です。……そして戦場においては、「使えるものはゴミでも使う」と心得なさい』
『ご、ゴミでも!』
ティーカップを手にしたハイデマリーは、ぴったりと寄り添う仔フェンリルの鼻先を撫でながら言ったのだ。
『花瓶から落ちた花びら。ぶつかってワインを零されたドレス。敵対相手からの不躾な発言、虚栄心。そういった負の要素を、逆手に取って利用するの』
『負の要素を、逆手に……』
『――あなた、得意でしょう?』
そして、ハイデマリーはそっと微笑んだ。
(得意などという自信は無いですが……! とにかく私は、何が何でも、オズヴァルトさまのお役に立たねばならないのです! 得意でも苦手でも、なんでもやりませんと!)
だからシャーロットは、すっとオズヴァルトの手を引いたのだ。
「……シャーロット?」
彼を見上げ、まるで以前のシャーロットのように、凛として不敵な笑みを浮かべてみせる。
「嫌です。オズヴァルトさま」
そして、上品な仕草を心掛けながら、気位高く言い放った。
「私、この方にはご挨拶したくありませんの」
「な……っ!? せ、聖女殿!!」
「前々から私に会いたかったと仰るのなら、とうにご存知のはずでしょう? ――神力も封じられた、ただの小娘である私の名を」
「!!」
貴族男性の顔が、赤くなってぐっと歪められる。周囲の人々が、聞こえるようにひそひそと噂話を始めた。
「ブラウアー閣下……どうやら聖女の機嫌を損ねたな」
「なんと愚かしい。今後変化する勢力図には、間違いなく聖女の存在が影響するというのに」
「ぐ、ぐぬぬ……」
だが、シャーロットの目的は、彼に言われた悪口の反論をすることではない。
だからこそ、傍らのオズヴァルトにねだる。
「ね。お許し下さる?」
「…………」
シャーロットは、ちゃんと以前の通りに振る舞えているだろうか。
オズヴァルトは驚いた表情をしている。彼を見つめたまま、他の誰にも知られないように、くちびるの動きだけで伝えた。
(オズヴァルトさま……)
――『叱って』、と。
「!」
オズヴァルトは、それだけで察してくれたようだ。
「……駄目だ。シャーロット」
言い放ったオズヴァルトに、周囲が息を呑む。
「私がそれを許さない。……閣下に向けて、シャーロット・リア・エインズワースと名乗るように」
(オズヴァルトさまの『私』……っ!!)
噛み締めかけて、すぐに正気を取り戻した。
(……ではありません、『エインズワース』! 『エインズワース』ですね、オズヴァルトさま!!)
得ることの出来た情報を胸に、表面上は拗ねたふりをする。
「……聞き分けますわ。他ならぬ、オズヴァルトさまがお命じになるのなら」
そして改めて男性に向き直った。
妖艶に見えるであろう笑みを浮かべてみると、男性がたじろぐように息を呑む。
シャーロットはくすっと吐息を零したあと、全身全霊の一礼を、あくまでさり気なく披露した。
「シャーロット・リア・エインズワースと申します。以後、お見知りおきを」
「……っ、あ、ああ……」
「これでよろしいですか? オズヴァルトさま」
あくまでオズヴァルトしか見ていないシャーロットに、彼は溜め息をついてみせる。だがそれは、本当に呆れた時の溜め息とは違うようだった。
「申し訳ございません閣下。聖女の神力は封じているものの、まだまだ私の躾が至らぬようで」
「いや……」
「それでは失礼。――行くぞ、シャーロット」
腕を差し出され、大人しくそれに掴まった。
再び歩き出したシャーロットたちを見て、周囲の人々が囁き合う。
「見たか? 聖女は噂通り高慢なようだが、ラングハイム閣下だけには従うぞ……!?」
「さすがは大陸随一と呼ばれる天才魔術師、オズヴァルト殿だ! 聖女もあの方に敗北し、神力を封じられたことで、敵わぬ相手だと理解しているらしい」
「どうやらラングハイム閣下がいらっしゃる限り、聖女を必要以上に危険視する必要はなさそうだな」
そんな言葉を聞きながら、内心でほーっと息をつく。
(大成功です……! 以前の私らしく振る舞いつつ、記憶喪失であることも隠せました! いまの私が安全だという証明と……更に更に更に!)
表面上はつんと澄ましたまま、それでも我慢しきれずに、オズヴァルトのことを見上げてしまった。
(更に! オズヴァルトさまが本当にすごくて素敵なお方なのだと、他の皆さまにますますご理解いただけたようです……!!)
瞳がきらきら輝いてしまったことを、オズヴァルトだけには見つかっただろう。
けれど、彼がやっぱりくちびるの動きだけで『良い子だ』と褒めてくれたので、それだけで死にそうになってしまう。
(うう、嬉しいです……! 昨晩の私の『訓練』の際、オズヴァルトさまが読んでいらした『狼系魔物の躾け方』に書いてありましたものね。群れ内の序列をはっきりさせるには、『叱っているところを見せつけ、周囲に向けて上下関係を明確にする方法もある』と!)
「……だから、俺がエスコートしているのは、子犬ではなく人間のはずなんだが……?」
オズヴァルトが小さな声で呟いた。
どうやら彼もあの本を思い出していたらしく、以心伝心だ。




