15 知っている名前のようです!
一面には、たくさんの木々が生い茂っていた。
外は雪景色のはずなのに、その場所はとても暖かい。天井や壁は硝子張りで、魔法で作られたらしき柔らかな光が降り注いでいる。
(温室、というものですね?)
シャーロットの目の前を、青色の蝶がふわふわと横切った。温室中央の一画には、白い丸テーブルが据えられて、お菓子とお茶が並んでいる。
「お座りなさい」
「はい!」
意気揚々とテーブルにつき、膝の上に両手を重ねる。ハイデマリーとお茶を飲むのかと思いきや、彼女はいつまでも座らない。
「ハイデマリー先生?」
「ご存知の通り。あなたの夫であるラングハイムは、王城において複雑な立場に置かれています」
シャーロットは、薄水色の目をぱちぱちと瞬いた。
もちろんそんなことは初耳だ。だが、『ご存知の通り』というからには、当然知っておかなければならないことなのだろう。
「はい! そうですね!」
「夜会であなたに近付いてくるのは三通り。あなた自身が目的の者、あなたを通してラングハイムに近付きたい者――それから、あなたを利用してラングハイムを陥れたい者です」
「!!」
聞き逃せないのは、最後のひとつだ。
「オズヴァルトさまの敵がいる、ということですか? あのお方に!? あんなに素晴らしいお方なのに……!?」
「お分かり? 夜会とは戦場。あなたの敗北は、すなわちラングハイムの不利益です」
その言葉に、シャーロットは気を引き締めた。
「本当に、夜会という場を甘く見ていました! 格好良く着飾ったオズヴァルトさまを拝見できる、きらきら楽しいだけの空間ではないのですね……!!」
「……昔はもう少し、違った側面も持っていたものですが……」
ハイデマリーの厳しげな声音に、少しだけ懐かしそうな響きが混じる。
「上流社会の人間というのは、案外孤独なものなのです。だからこそ近しい身分の者が集まり、互いの近況に華を咲かせる場というのは、それぞれ掛け替えの無い時間でした」
「それは素敵ですね。夫の素晴らしさについて語らえるお友達、私も欲しいです!」
「友達? あなたが?」
(あ! そうでした)
シャーロットは、『悪虐非道の聖女』として恐れられているのだ。憎まれているか嫌われているかのどちらかだというのに、友達を欲しがるのはよろしくない。
「ひょっとしてハイデマリー先生は、王城の夜会を、昔のような場に戻したいのですか?」
「自分の身も守れないような小娘が、余計なことを考えなくてよろしい」
「はい! 余計なことは考えません!」
ぴしゃりと冷たく言い捨てられ、ぴしりと背筋を正す。
(ですが、本当は?)
そんなことを考えていると、ハイデマリーが口を開いた。
「世渡りの仕方には、いくつかの種類があります。使いこなせない方法を学ぶより、いま持つ能力を伸ばすべきというのがわたくしの考え」
「はい! 私はどのようにするべきでしょう?」
「それを今から試すのです。あなたはこれより、くれぐれも、自分が誰の妻であるかを伏せておくように」
「先生?」
「――来たわね」
そのとき、軽やかなベルの音が鳴り響いた。
「お入りなさい」
「失礼いたします」
開いた扉の向こうには、四人の女性が立っていた。
シャーロットと同じくらいの年齢で、どの人も上品に着飾っている。女性のひとり、青い髪を持つ少女が、全員を代表するかのように歩み出た。
「ご機嫌いかがですか? ハイデマリー先生」
「お気遣いをありがとう。みなさんもお元気そうで何よりです」
「今週もよろしくお願いいたしますね。――あら?」
青い髪の少女は、シャーロットを見て微笑んだ。
「新しい方がお入りに?」
「初めまして。私は……」
「……」
ハイデマリーに見下ろされたシャーロットは、なんとなく察して口をつぐむ。
代わりにハイデマリーが、シャーロットの肩に手を置いて言った。
「この子は訳あって、ほんの少しだけお預かりしているお嬢さんです。申し訳ないのだけれど、皆さまのお茶会に混ぜて下さるかしら?」
「もちろん、ハイデマリー先生が仰るなら」
少女が言うと、他の三人も次々に頷く。四人とも美しい女性だが、一番目を引く青髪の彼女に、みんなが追従しているらしい。
「――こちらのお方、どのようなご出自でいらっしゃいますの?」
彼女は言い、シャーロットの全身を眺めた。
顔だけは優雅に微笑んでいるが、値踏みするような目付きだ。ハイデマリーは目を伏せ、こう答える。
「大変に苦労した境遇でしてね。とある事情から、少しだけ作法をお教えすることになっているのです」
「まあ。ではきっと、さぞかし可哀想なお方なのですね」
そう言って、少女がふっと笑みを浮かべた。
「お任せくださいハイデマリー先生。私、『田舎者や庶民の子にも、分け隔てなく接することが出来る優しい子』だと、子供の頃から母に言われておりましたの」
(あらら。なんだか私の事情について、彼女の中で自由な想像が構築されたようですね?)
青髪の少女はドレスを摘み、優雅な一礼をしてみせる。
「お初にお目に掛かりますわ。私はエルヴィーラ・カサンドラ……カレンベルク、と申します」
名字を名乗る前に、たっぷりの溜めがあったような気がした。
けれどもシャーロットはあまり気にせず、立ち上がって同じく一礼を返す。
「初めまして、エルヴィーラさま! 私はええと……えーっとええと、名無しのほにゃらら……」
「彼女のことは、ただの『シャーロット』と」
「はい! 私はただのシャーロットです!」
この名前自体は、どうやら珍しいものではないようだ。ハイデマリーに倣って名乗ったあと、内心でかなしみを噛み締める。
(……フルネームを知ることは出来ましたが、名乗る機会の到来ならずです……!! 早く口に出して言ってみたいですね。オズヴァルトさまと同じ、『ラングハイム』を冠する名前……うふ、うふふふふ。『シャーロット・リア・ラングハイム』……!!)
素晴らしい名前を噛み締めた所為で、自然と顔がにこにこしてしまう。一方で目の前のエルヴィーラは、面食らったような顔をしていた。
それはどうやら、『シャーロット』と名乗ったことが理由ではないようだ。
「カレンベルク家の名前を聞いても、慌てて頭を下げたりしないですって……?」
後ろにいる三人の少女たちが、ひそひそと小声で話している。
エルヴィーラはぐっと顔を歪め、口を開いた。
「ごめんなさい、うまく聞き取れなかったのね。改めて、エルヴィーラ・カサンドラ・カレンベルクです」
「ただのシャーロットです。ご丁寧に、ありがとうございます! よろしくお願いします」
「……っ」
その瞬間、エルヴィーラが強い力でシャーロットを睨んだ。
「まさかあなた、ご存知ないの? カレンベルク家の名前を」
「あわ……っ」
もちろんシャーロットに覚えはない。
なにしろ自分の名前だけでなく、あんなに美しい夫の名前や顔すら覚えていなかったのだ。
しかし、記憶喪失であることを隠している以上、そのことを説明するわけにはいかなかった。
「な……なるほど! 私たちが思っていた以上に、大変な田舎からいらしたようね!」
「そ、そうよシャーロットさん! 遥々王都に来るのなら、カレンベルク家の名前くらい勉強してくるべきだったわね」
「本来なら、貧しい庶民が直接会話できるようなお方ではないのよ。エルヴィーラさまは」
後ろの三人が口々に言う。そしてそのうちのひとりの女性が、シャーロットに向けて言い放った。
「カレンベルク侯爵はね。ラングハイム公爵閣下の次に力を持つ、この王都では有数の貴族家なのだから!!」
「……………………」
シャーロットはぎゅむりと口を押さえたまま、困った顔でハイデマリーを見る。




