第百七十話 魂に変化をもたらす香り
石鹸の使用感ならば、俺が使ってみればいいだけのような気がする。だがこういった上品な香りのする石鹸は、女が使うのが普通らしく風来燕の男達にも配っていない。なんでも女のようないい香りをさせている男は、穿った目で見られるとか言っている。
そして俺はボルトに聞いた。そこにはボルトだけがいて、他の奴らは外に出ている。
「なんで、いい香りの石鹸を男が使うのはおかしいんだ?」
「なんで…て、そりゃ、男がいい香りさせてたらマズいだろうよ。貴族様でもあるまいし」
「なぜ貴族は良くて庶民がダメなんだ」
「貴族様は香水を当たり前に使うが、庶民は香水なんて使わねえからな。いい香りなんかさせてたら、娼館に行って来たのか? なんて疑われちまう」
「しょうかん?」
「ああ」
「なんだそれば」
「はっ? お前、娼館も行った事無いのか?」
「ない。教えてくれ」
するとボルトは何かを考え込んでいる。俺はボルトが何を話すのかをただ待った。
「……い、いやいや! コハクは結婚してるんだ。お嬢様の手前そんな事を教えるわけにはいかん。今の話は聞かなかったことにしてくれ」
「マズいのか?」
「マズい。いいかこれは非常にマズい話だ。誰にも言うんじゃないぞ」
「わかった」
どういうことだ?
《ノントリートメントは動物であり、娼館は、ある欲求を満たすための場所として機能します。娼館で提供される実地体験は、人間の身体や脳に様々な影響を与えることが想定されます。あなたのようなヒューマンは神経VRシステムにより、擬似体験の脳内分泌が可能です。残念ながらノントリートメントには、VR機能がありません。よって、それらの施設を使う必要があります》
そのデータがあるのか?
《前世の古代のテキストデータが残っています。娼館と酷似したもがあります》
なるほど…それと石鹸がどういった関係がある?
《脳を刺激する為に、嗅覚を刺激している可能性があります》
それを…体験すると石鹸の良さが分かるのか?
《体験せずとも、使用すれば石鹸の良さは分かると思われます》
そうだよな。
意味が分からんが、アイドナが言う分には使えば良さが分かるらしい。だが、マージはヴェルティカと一緒に体感しろという。屋敷の補修をやって一日が終わり、その日の夜にマージがまた俺に行った。
「いいかい、今日の夜に石鹸の効果を調べるんだよ」
「石鹸を持って、ヴェルティカの元に行けばいいんだな」
「そうだよ! 何を言っているんだい?」
「わかった」
夜飯も一緒に食うのだから、わざわざ大袈裟に言う必要はないはずだ。
その後で普通に、俺とヴェルティカとメルナが飯を食った。男爵家は主が飯を食う場所と、使用人が飯を食う場所が分けられている。風来燕も使用人達と飯を食い、時には自分らの部屋で食う事もある。
「ヴェルティカ。今日の夜は時間があるか」
「……はい……」
ヴェルティカがおかしな雰囲気だ。だがこれで石鹸の使用感についての話が出来る。
そして、いつもと違う物が食卓に置いてあった。それを飲んで俺が言う。
「アルコールか?」
「そうね。ワインね」
「なんでアルコールが?」
「なぜかしらね」
《アルコール成分を分解、発汗で排出します》
ああ。
いつもの通りだ。俺が酒を飲むとアイドナが、身体に影響を及ぼさないようにアルコールを全て排出する。飯を食い終わり、使用人達が食器を片付けた。
「じゃあヴェルティカ。マージが言うとおりに話をしよう」
「はい」
「どうした? 顔が赤いぞ」
「酔っぱらったみたい」
「そうか。話はできそうか?」
「はい」
何だ……なぜか大人しくなっているようだ。
するとマージがメルナに言った。
「メルナ。あんたは自分の部屋にお戻り」
「えー、なんで」
「二人はこれからの話をするんだよ。我慢しな」
「うん」
可哀想だが、メルナは廊下の向こうの方に行ってしまった。俺とヴェルティカは階段を上がり、一番奥の二人の為にと用意された部屋に行く。部屋の扉を開けて、中に入るとヴェルティカがドアを閉めて鍵をかけた。
「危険はないぞ」
「あ、念の為よ」
「そうか」
そして俺はテーブルの上に石鹸を置く。
「マージが使用感を確かめろと言うんだ」
「ええ…言ってたわね」
そこで俺はタライを取って、水がめから水を注いだ。するとヴェルティカがその石鹸を取って、手に水をつけて泡立たせ始める。
「コハク。手を貸して」
「ああ」
ヴェルティカが泡を俺の手に付けて、優しく滑らかに手と手首を洗ってくれた。それはウィルリッヒにした時よりも長く、念入りにしばらく手を撫でまわされる。
《やはり回復の成分が含まれています。そしてこの香りには、若干の覚醒作用があるようです。皮脂の汚れを取り除きつつ、必要な水分は残すようになっているようです》
それをヴェルティカに告げた。
「回復の成分。恐らくは山頂の湖の水の効果と、マージが作った薬草の成分だろう。そして充分な保湿効果があり、汚れだけをしっかり落とすように設計されているようだ」
俺がそう言うと、ヴェルティカがポカーンと俺を見ている。
「違うか?」
「あ、そうね! そうよね! きっとマージが計算して作ったんだわ。コハクの言うとおり」
「流石は賢者というところだ。しかもこの滑らかな感覚は、粉をかなり細かくしないと再現は無理だろう。これは、あの魔道具を使ったやり方だ」
「ははは…そうね。そうだと思うわ」
なんだ? 何か不思議な反応だ。
《ヴェルティカの表情筋が引きつってます。何か不具合があったのでしょうか》
「なにかマズかったか?」
「う、ううん。何でもないわ」
俺はどうしていいか分からず、とりあえずパシャパシャと水で洗い流す。
そこでヴェルティカが言う。
「体温で温まって来ると香りが変わるのよ。それが凄くいい香りになるわ」
「そうか?」
「嗅いでみる?」
「ああ」
するとヴェルティカは自分の髪の毛を持ち上げて、首筋を俺に見せて来た。俺がそれを見ているとヴェルティカがもう一度言う。
「首筋の香りで分かるわ」
「なるほど」
俺が首筋に鼻を近づけてスーッと香りを嗅いだ。その瞬間…何か俺の感覚に変わったことが起きる。
何だ……。
《ドーパミン、オキシトシン、β-エンドルフィン、アナンダミドが抽出されました。抑制いたします》
すると、すぐにそのおかしな気持ちが収まる。俺は首筋から鼻を離してヴェルティカに言う。
「いい香りだ。そして……」
「なあに?」
「なにか不思議な感覚になった。なぜか、もっと嗅いでいたくなるようなそんな気分だ」
「そう……コハクは旦那様なんだから、ずっと嗅いでいていいのよ」
「それではヴェルティカの自由が無くなってしまう」
「私の全てはコハクのものだから、コハクが束縛をしても良い事になっているのよ」
「…ヴェルティカの自由を俺が奪ってはダメだ」
「ううん。私が私の自由を奪ってほしいのよ」
おかしなことを言う。自分の自由を差し出してまで、人に匂いを嗅がせるのは理に反している。だが本気でそう言っているように見えた。
俺は言った。
「俺は、俺の自由とヴェルティカの自由、そしてメルナの自由を勝ち取るために戦う。だからヴェルティカは自由にしていいんだ」
するとヴェルティカが言った。
「自由にしていいと言うなら、もっと私の香りを嗅いで頂戴。それが私の自由だわ」
「わかった」
そして俺は、またヴェルティカの首筋に鼻をつけてかぐ。
やはり不思議な気持ちになった。
《ドーパミン、オキシトシン、β-エンドルフィン、アナンダミドが抽出されました。制御いたします》
直ぐに気持ちが収まる。だが俺は止めずに首筋の香りを嗅ぐ。
《ドーパミン、オキシトシン、β-エンドルフィン、アナンダミドが抽出されました。制御いたします》
どういう事だ。アイドナがその気持ちを強制的に解除して来る。
「ヴェルティカ。どういう気持ちか分からない、なんでヴェルティカにくっついていたくなるんだ?」
「…ふふっ。それはコハクが私の旦那様だからよ。ゆっくり理解していけばいいと思う」
ヴェルティカがとても優しい目で笑った。
「ヴェルティカ。今日は一緒に眠ろう、俺はなんだかそうしたい気分だ」
「もちろん。旦那様がそう決めたなら私は従うわ」
そうして俺達は靴を脱いでベッドにもぐりこむ。俺がヴェルティカの首筋に顔をうずめていると、珍しく急速に眠ってしまうのだった。




