第517話 感染
ゴキュッ、ゴキュッ、ゴキュッ……
燭台に灯った火だけが周囲を照らす薄暗い食堂。大きく喉を鳴らす音が響く中、二つの影が重なっている。
「あ…… あぁ…… ぁ…………」
影の片方からは小さな悲鳴が上がり続けている。最初は絶叫と言って良いほどに力強かったが、もう片方が喉を鳴らす音と共に声はどんどんか細くなっていった。そして。
ゴキュンッ……!
一際大きな嚥下の音と共に、悲鳴は完全に止まった。
--ドサッ……
影の片方、屈強な中年男性の体が崩れ落ちる。残ったもう片方、この常夜の城の主であるヴェラドは、満足げに息を吐いた。
「ふぅ…… 荒々しい海風を思わせる、野趣に富んだ味わいだった。さて、今朝はそれで最後か」
ヴェラドが目を向けたのは、食堂に唯一の残った若い女性だった。
「い、いやっ…… いやぁぁぁっ! 許して! 助けてぇぇぇっ!!」
女性は涙を流しながら必死に逃げようとしたが、給仕の吸血族に凄まじい力で拘束されそれは叶わなかった。
「ほぅ、随分活きが良いではないか。どれ……」
ヴェラドが女性の首筋に牙を突き立て、先ほどと同じように絶叫と嚥下の音が響き、やがて静寂が訪れた。
「ふぅー…… うむ。蕾が開く前の花を刈り取るような、甘く背徳的な味であった」
そう満足気に感想を述べると、ヴェラドは動かなくなった女性を空き瓶か何かのよう放り捨てた。
彼女の足元には、今や何体もの遺体が転がっていた。その性別、年齢、体型までもが様々で、大半が海賊行為によって国外からさらってきた只人だ。領内から集められた人々は、とっくの昔に消費されている。
魔神ニプラトの『加護』を得てから、彼女は一日に数十人の人間を食い散らかしていたのだ。
食事を終えて満足げにナプキンで口元を拭うヴェラドに、彼女に古くから支えている執事は目に涙を浮かべながら語りかけた。
「陛下、お見事な健啖振りにございました……! まるで、陛下が戦場にて淫魔共を血祭りに上げていた頃が戻ってきたかのようで、私は、私は……!」
「ふはは、また懐かしい話を持ち出しおって。だが、ふむ…… 魔神への贄を捧げ、祖国を我が手に取り戻した後。淫魔共の国を攻め滅ぼすのも一興であるな」
ヴェラドは血と栄光に満ちた未来を思い、笑みを深くした。するとそこへ使用人が一人、食堂に入って来た。
「陛下。グラツィア卿が、謁見を賜りたいとここへ参じてございます」
「ほう。良い、ここへ通せ」
「は」
暫くして食堂に現れたのは、漆黒の毛並みを見事な鎧で覆った、隻眼の狼人族だった。
彼女の名はグラツィア。陽の光を弱点とする吸血族を日中の間守る事を使命とした、黒狼騎士団の団長である。
この公爵領においてヴェラドに次ぐ実力者であり、その力と忠誠心により吸血族からも一目を置かれる手練だ。
「陛下、拝謁を賜り感謝いたします。ますますお力を増したご様子。このグラツィア、喜びに打ち震えております……!」
傅くグラツィアに、ヴェラドが鷹揚に頷く。
「わかるかグラツィアよ。久しぶりに貴様に稽古をつけてやるのも良いが、何か用があるのだろう?」
「は。皇帝より書簡が届いています。こちらを」
「あの小娘から? どれ…… ほぅ」
ヴェラドがグラツィアから受け取った書簡には、今すぐ帝都に来い。海賊の件で話がある。そんな意味の文章か書かれていた。
「なるほど、少々獲物を獲りすぎてしまったようだな。ちょうど良い。吾輩も、そろそろあの小娘に会いに行こうと思っていた所だったのだ。グラツィアよ」
「は。すでにご出立の準備を整えてございます。道中の護衛は、どうか私めらにお任せを」
「うむ、良きに計らえ」
日光を完全に遮断する装甲馬車に揺られる事数日。ヴェラドは帝都の宮殿へと足を運んだ。
時刻は夜。ヴェラドが謁見の間に通されると、その最奥の玉座には、巨躯の牛人族が座していた。
青鏡級に至った英傑でありながら、巨大な帝国を束ねる皇帝。エンペラトリス四世である。
「来たか……」
玉座から傲然とヴェラドを見下す彼女の側には、紫宝級の位階にある筆頭宮廷魔導士と将軍が侍り、部屋の左右には百名近い完全武装の近衛騎士がずらり並んでいる。
ヴェラドはその様子に頬を歪め、皇帝の前に跪いた。
「皇帝陛下。このヴェラド、お召しにより参上致しました」
「うむ、久しいなヴェラド公爵よ。む……? --貴様、本当にヴェラドか?」
数年ぶりに顔を合わせた皇帝は、目の前のヴェラドの姿に驚いた。
記憶の中にあるヴェラドより、肌の様子や髪の艶、姿勢や所作などが明らかに若返っているのだ。
そして何よりも纏う雰囲気が違う。以前は疲れた中年といった様子だったのが、今は溢れるような気力に満ちているように見えた。
「これは異な事。吾輩こそがヴェラドに他なりません。しかし、最近はとてもよく食が進むので、少し肌艶が良いのかも知れませんなぁ」
「なるほど、それほど食が進むか。 --やりすぎたな、ヴェラドよ」
皇帝がすっと手を上げた。すると彼女の側に侍る二人が臨戦体勢を取り、騎士達も一斉に抜剣した。
「おや…… これはどう言った趣向ですかな?」
楽しげな口調のヴェラドに、皇帝は眉をしかめながら一通の書簡を取り出した。
「アウロラ王国から、貴様の悪行に対する強烈な抗議文が届いたのだ。それも五カ国連盟のだ。
内、貴様の故国からの要求はいつもの事だが、アウロラ王国とその近隣二国は、自国民を貴様に食い殺されたと激怒している。
ずいぶん派手に、そして雑に暴れたようだな? 貴様の子飼いの海賊が持っていたという、裏帳簿の写しまで添えられていたぞ。
更にまずいのは、聖国の教皇猊下の詰問状まで添えられている事だ。対応を誤れば、最悪、帝国から聖職者が居なくなるという事まであり得る。
まだ若造と思っていたが、かの雷公は武勇だけでなく政治も達者らしい」
「ほぅ…… それはそれは」
皇帝同様、ヴェラドもタツヒトの手腕に感心してた。更に、喰らおうと思っていた贄が、向こうのほうから仕掛けてきたのだ。魔神の強い導きを感じ、彼女は胸が躍るようだった。
「これまではその功績と、歴代の皇帝に仕えた忠節で見逃してきたが、もはや看過できん。
ヴェラドよ。貴様を推定数千名にも及ぶ殺人罪で逮捕する。身柄はアウロラ王国に引き渡す事になるだろう。
少しでも長生きをしたければ大人しく捕まるが良い。向こうは、最悪死体でも構わないと言ってきている」
皇帝がヴェラドに手を向けると、周囲を取り囲む騎士達がじりじりと距離を詰めてくる。その様子に、ヴェラドは我慢できず吹き出してしまった。
「ふふっ…… ふはっ、ふはははははっ!」
「--何がおかしい?」
「小娘が、これが笑わずにいられるものか……! 貴様の前にいるのが、鮮血の魔王だということを忘れたか!?」
ズンッ……!
「「……!?」」
ヴェラドから凄まじい威圧感が放射され、手練の騎士達がまるで金縛りにあったかのように停止した。
動けたのは皇帝と、その両脇に侍った二人だけだった。
「将軍!」
「は!」
皇帝と将軍が同時に剣を抜き、筆頭宮廷魔導士が必殺の魔法を発動させた。
『千連石槍!』
瞬間、上下左右の石壁から千を越える鋭い石の槍が出現し、瞬きよりも早くヴェラドに殺到した。
ドシュシュシュシュッ!
極限まで研ぎ澄まされた切先の群れは、彼女の強力な身体強化を貫通。悲鳴を上げる間もなくその身を串刺しにした。
「……!」
数えきれない槍に縫い止められたヴェラドの体から、夥しい血が流れ出る。
暫しの残心の後、筆頭宮廷魔導士が皇帝に頭を下げた。
「申し訳ございません皇帝陛下。生捕りは叶いませんでした」
「いや、よくやった…… しかし、これでは死体の顔を確認してもらうのも一苦労--」
バギギッ……!
「「……!?」」
何かが折れるような異音。謁見の間にいる全員が、すでに事切れたはずのヴェラドに目を向けた。
ヴェラドは、自身を縫い止めていた槍をへし折りながら、血に濡れた顔を笑みの形に歪めていた。
その光景に真っ先に反応した将軍は、渾身の力をこめて延撃を放った。
「ぬんっ!」
ゾンッ……!
将軍の放った光の帯のような斬撃は、寸前で拘束から脱したヴェラドの右腕のみを断ち切った。
獰猛な笑みを浮かべたまま、ヴェラドが皇帝達に左手を向けて唱える。
『血よ!』
ジャッ!
ヴェラドが流した大量の血液。ただ謁見の間の床を濡らしていたそれが、巨大な獣の爪のように幾本も立ち上がって皇帝達に殺到する。
「がぁっ……!?」
高速で迫る鮮血の大爪の群れは、咄嗟に展開した防壁を突破。筆頭宮廷魔導士を縦断した。
更に、皇帝の元へ走ろうとした将軍の行手とその視界を遮った。
一瞬の間。大爪の群れが過ぎ去った後に将軍が目にしたのは、皇帝の首筋に牙を突き立てるヴェラドだった。
「皇帝陛下……!? 貴様ーっ!!」
怒りの咆哮を上げて突貫してくる将軍に、ヴェラドは大きく後ろに飛んだ。
将軍はそれに追撃をかけず、負傷した皇帝を背後に庇った。
「陛下! ご無事ですか!?」
「う、うむ…… 少し首筋を噛まれただけだ……! どうという事は無い!」
「……! 陛下、ここはお下がりを。あの痴れ者は私が--」
ズシュッ……
「……!?」
突然の激痛に、将軍は思わずヴェラドから目を外して自身の体を見下ろした。
見えたのは、背後から自身の胸を貫いた血ぬれの剣。驚愕と、急速に体から力が抜けていくのを感じながら振り返ると、そこには自身が剣を捧げた主君がいた。
「へい、か……? な、何故……!?」
「すまぬな将軍。我が主人の命令なのだ……」
問いかけた将軍に、皇帝は本当にすまなそうに謝った。
混乱の中、将軍は再度ヴェラドへと顔を向けた。ヴェラドの傷は、切断された右腕も含めていつの間にか完治していた。
そしてその顔には、悍ましく邪悪な笑みが浮かんでいた。
「ばけ、ものめ……」
将軍の目から光が消え、その体が地に沈む。
ヴェラドはそれを見届けると、周囲を見回して楽しげに笑った。
「ふはは、流石は皇帝を守る双璧と呼ばれた手練。これ程の手傷を負ったのは、祖国を追われた時以来であるな…… 感謝いたします、魔神二プラトよ」
ヴェラドはその場に跪くと、自身の神に祈りを捧げ始めた。
吸血族の始祖神の血を色濃く受け継ぐヴェラドは、血液を操る魔法を得意としていた。
それにより軽い負傷を治療したり、はるか各下の相手の血液を操作して金縛り状態にする事ができた。
しかし魔神の『加護』を得た今、それらの能力は遥かに強化され、牙を突き立てた相手を支配下に置く邪法まで使えるようになっていた。
暫くして立ち上がったヴェラドは、ふと思い立って玉座へと腰掛けた。
「さて、エンペラトリスの小娘よ」
「は、何なりとお申し付けを」
その彼女の前に皇帝が跪く。先ほどとは真逆の構図だ。
「まずは、そこな騎士どもも吾輩の配下に加えてやれ。やり方は分かるな?」
「は、承知しました」
皇帝は立ち上がると、いまだ金縛り状態にある騎士達の元へ向かった。
「こ、皇帝陛下、お気をしっかり! どうか……! がぁっ……!?」
騎士の一人に皇帝が牙を突き立てる。するとその騎士の顔から表情が抜け落ち、隣の騎士へと牙を剥いた。
「や、やめ……!?」
「くそっ、体が動かねぇ……! 誰かぁ!」
悲鳴が上がる中、最初の騎士から噛まれた次の騎士も、すぐに別の騎士へと牙を突き立てた。
以降、騎士が騎士に襲いかかる事が繰り返され、ほんの数分で全ての騎士がヴェラドの支配下に落ちた。
その騎士達を従え、皇帝は再びヴェラドの下へ跪いた。
「終わりましてございます」
「ご苦労。さて次だ。近く、吾輩は雷公の国を攻め落とす。貴様はそれに備えて戦の準備を進めておくのだ。当然、彼の国に悟られぬよう秘密裏にな」
「仰せのままに、我が主人よ」
「うむ。しかし、帝国の戦力のみでも十分だろうが…… ここは雷公殿に倣い、吾輩も同胞を集めてみるのも一興か。ふふっ、ふはははは……!」
血に濡れた謁見の間に、ヴェラドの哄笑が響いた。
金曜分です。遅くなりましたm(_ _)m
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【水曜以外の19時以降に投稿予定】
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