第512話 魔神の呼び声
アラク達と別れたタツヒト達が、魔物の王国で歓待を受けていた頃。
彼らから遠く離れたベルヴァッカ帝国のとある公爵領。その領主の居城にて、日没と同時に目覚める者がいた。
「--朝か……」
光の無い広い寝室。天蓋付きの豪奢なベッドから気だるげに身を起こしたのは、鮮血のように赤い長髪の女だった。
冷たい美貌に長く尖った耳。薄く開かれた目は暗闇に赤く灯り、髪を掻き上げる指先には剣先のような鋭い爪が備わっている。
彼女の名はヴェラド・ドラクレシュテ。かつて、その絶大な力と残忍さから鮮血の魔王と畏怖され、吸血族の女王の座を追われた女だ。
「ふぅ…… ん?」
彼女がベッドについた手の指先に、何か冷たいものが当たった。
「あぁ、昨晩飲み干してしまったのか……」
一瞥してそれへの興味を失った彼女は、側に置いてあった呼び鈴を鳴らした。
チリリン。
澄んだ鈴の音の僅か数秒後。執事の格好をした吸血族が寝室に入り、恭しく一礼した。
「おはようございます、ヴェラド陛下。本日は見事な満月でございますよ」
古くからヴェラドに使えている者は、女王の座を追われてからも彼女を陛下と呼び続けている。この執事もそうした者の一人だ。
「うむ。支度を。それと寝台の空き瓶を片付けておけ」
「はい、かしこまりました」
執事や他の使用人達の手によって着替えたヴェラドは、寝室を出ると食堂へ向かった。
食堂へ続く廊下の窓は鎧戸が固く閉ざされ、吸血族にとって致命的な日光が一筋も入り込まないようになっている。
暫し歩き廊下を歩き、仄かに明かりの灯った食堂に入ると、何人もの使用人が彼女を迎えた。
全員が目に赤い燐光を灯す吸血族だが、ヴェラドのような赤髪はいない。赤髪は、吸血族の始祖神の血を色濃く受け継いだ証なのだ。
「陛下。本日の目覚めの一本はどれになさいましょう。各種取り揃えてございます」
席についたヴェラドに、先ほどの執事が問いかける。
執事が示したのは十人ほどの只人。年齢は子供から中年まで幅広く、男女が半々、髪や肌の色も違う。
只人である事以外に彼らの共通点は二つ。その手に、産地や年数などのラベルが貼られた空の瓶を持たされている事。そして、その表情が恐怖と絶望に沈んでいる事だ。
「ふむ、最近あまり食欲が無くてな…… 飲み口が軽めな…… 白をもらおうか」
「かしこまりました。ではこちらを…… 領内で丁寧に育てた、十三年ものの白でございます」
執事の視線を受けた者。「エンパラドール公爵領、聖暦1247年産、白」と記載された瓶を持つ少年は、震えながらヴェラドの元へ歩み寄り、跪いた。
するとヴェラドはおもむろに少年の両肩に手を置くと、ぐいと引き寄せてその首筋に噛みついた。
「あぐっ……!」
少年が苦痛に喘ぐ。鋭い牙が彼の柔らかい皮膚を突き破り、鮮血がヴェラドの口内を満たす。瞬間、ヴェラドは目を見開いて首筋から口を離した。
「これは…… 瑞々しく後を引かない軽やかな甘さ。青い果実を思わせる爽やかな香気……! 中々の上物であるな……!」
目を輝かせたヴェラドは、少年の首筋に再び、より深く牙を突き立てた。
「ゔぅ……!」
少年の苦悶の声に続き、ヴェラドが大きく喉を鳴らす音が食堂に響く。
彼の顔色は瞬く間に白くなっていき、体から力が抜けていく。
幸運にも今回は選ばれなかった只人達が、奥歯を鳴らしながらその様子を見つめる。
この城において彼らに人権は存在しない。ヴェラドの渇きを潤す血液瓶として扱われるのだ。
多くは領内から集められているが、アウロラ王国近海における海賊行為で『収穫』されてしまった者もいる。
「うぁ…… ぁ……」
その内少年が死の痙攣を始めると、ヴェラドは血を啜るのを止め、名残惜しそうに少年の首筋から口を離した。
「おっと危ない。昨晩のように飲み干してしまう所であった…… 執事よ、これは吾輩の秘蔵の品に加えておけ。再び芳醇な血に満たされたら頂くとしよう」
「はい。かしこまりました、陛下」
執事の目配せに只人達が動き、グッタリとした少年を抱えて逃げるように食堂から去って行った。
それを横目にナプキンで口元を拭っていたヴェラドが、そういえば、と執事に問いかける。
「最近は領内の品が多いようだな? 少し前までは、異国の品々も多く食卓に並んでいたと思うのだが」
「申し訳ございません。例の天から落ちてきた王国が、我らの『収穫』を邪魔しているようでございまして…… 異国のものは現在品薄になっている状況なのです」
「あぁ、例の国か。全く忌々しい。確か国王は、雷公などと呼ばれているのだったか?
ふむ…… 若くして、只人の身で紫宝級に至り、数多の困難を退け王座に至ったオスか。ふふっ、きっと極上の白なのだろうなぁ……
だが、只人とは言え、他国の王に手を出すのは後が面倒だ。手の届かぬ品に思いを馳せるのは止めて、仕事に取り掛かるとしよう」
朝食後。彼女は公爵として仕事を粛々とこなし、あと一、二時間もすれば夜が明けるという時間になった。
すると彼女は、城の地下に造らせた礼拝堂に入り、禍々しい祭壇に向かって日課の祈りを捧げ始めた。
祈る対象は、表向き領内で信仰されている創造神や、吸血族の始祖神では無い。
彼女達吸血族が秘密裏に信仰している邪悪な存在。破壊と混沌を司る魔神ニプラトである。
ヴェラドやその配下達の間で特に強く信仰されているが、現在の吸血族の国では邪教に認定されている。
「魔神ニプラトよ。戦乱を巻き起こし、血の大河を築きし神よ。その偉大なる力を以て、どうか我が悲願たる復讐を叶え給へ……」
跪き、真摯に祈りを捧げているように見えるヴェラドだったが、その内心は複雑だった。
理不尽に祖国を追われて帝国に落ち延びて以来、いつか故郷の裏切り者どもを蹂躙するため、その復讐の成就を夢見て彼女は励んできた。
そして長い年月をかけて公爵にまで上り詰め、祖国を攻め滅ぼすになる戦力も整いつつある現在。彼女は、祖国への復讐心を失いつつあった。
気力と体力が衰え、ここから遠い祖国へ攻め上るのが、とてつも無い重労働に思えてしまうのだ。以前なら、そんな事を困難と思う彼女ではなかったのだが……
吸血族の中でも特に長寿な彼女も、老いには勝てなかったのである。
「吾輩は…… あの裏切り者どもを誅する事もできず、このまま異国の地で朽ちていくのだろうか……?
昔日の、敵の血に濡れながら爪を振るっていた頃の吾輩に…… 焼け付くような渇きに突き動かされていたあの頃に戻る事ができれば……!
--いや、誰にも時を戻すことはできぬ。明日の仕事に響く。そろそろ、寝るとしよう……」
そう独りごちたヴェラドが、祭壇に背を向けて歩き始める。その時。
『我が信徒ヴェラドよ』
「……! 何者だ!?」
突然脳内に響いた何者かの声に、ヴェラド瞬時に背後を振り返って臨戦体勢を取った。
しかし、いくら探してもこの場にいるのは自分一人。再び脳内に声が響く。
『我の名はニプラト。破壊と混沌を司る魔神なり。汝の篤き信仰と、その切なる願いが我を呼んだのだ』
「魔神ニプラト、だと……!? 笑止……! 自らを神と騙る者を信じる馬鹿が何処にいる! 卑怯者め、姿を現せ! --もし本物だとして、なぜ…… なぜ今更……!」
『--我には汝の真なる願いが手に取るように分かる。取り戻したいのだろう? かつての血気盛んだった頃の自身を……』
「……!? --その話。詳しく聞かせてもらおうか」
ヴェラドは、半信半疑のまま魔神ニプラトと名乗る者の声に耳を傾けた。
そして、もうすぐ朝日が昇るという彼女にとって危険な状況の中、声の指示に従って領内のとある場所へ走った。
人の踏み入った痕跡のない岩山で見つけた洞窟。その奥へと進むと、それはあった。
「まさか、本当に見つかるとは……」
ヴェラドが呆然と呟く。石造りの部屋の中心。祭壇のような台座の上に、黒々とした液体で満たされた黄金の盃が置かれていたのだ。
『それこそは悪魔の黒血。全て飲み干せば、汝の真なる願いは叶うだろう。さぁ……』
脳内に響く声に、ヴェラドはまるで操られたかのように盃を手にした。
かつての彼女であれば、もっと用心深く振る舞ったかもしれない。しかし今の彼女には、魔神の言葉はあまりにも甘美だった。
ゴクリ、ゴクリと、静かに喉を鳴らしてヴェラドは盃を干した。
「ふぅ…… --何も、起きぬようだがっ……!? ぐぁっ…… ガァァァァァッ!?」
腹を中心に、全身を数千の針で貫かれたかのような激痛。尋常でない痛みに、ヴェラドは堪らず倒れ込んだ。
騙された。なぜあのような戯言を信じた。なぜこんな馬鹿な真似を。怒りと後悔に苛まれながら、彼女は冷たい石畳の上をのたうち回った。
やがて彼女は意識を失ったが、以降も悪魔の黒血はその体に変化を起こし続けた。
それから丸一日が経った頃、ヴェラドは、まるで生まれ変わったかのような晴れやかな気分で目を覚ました。
石畳の上からゆっくりと立ち上がると、彼女は自身の心身の変化に驚愕した。
「おぉ…… 体が軽い、力が漲るようだ……! そしてこの焼け付くような渇き、衝動……! 今ならば、吾輩一人でも憎き祖国を攻め滅ぼす事ができよう! ふはっ、ふはははは!」
かつて無い程の全能感に満たされ、ヴェラドが哄笑を上げる。
外見にも変化があった。瞳の赤い燐光は輝きを増し、顔に刻まれつつあった小さな皺は全て消え失せ、皮膚の上からうっすらと筋肉が隆起が窺える。
全盛期の姿を取り戻した彼女の脳内に、以前よりはるかに鮮明に魔神の声が響いた。
『目覚めし我が忠実なる僕、ヴェラドよ。汝は、破壊と混沌に満ちた世界を望むか?』
「……! はい、我が神よ。それこそが吾輩の真なる願い、宿願にございます……!
そうだ。なぜ忘れていたのか……! 自ら蹂躙した敵の血のみが、吾輩の渇きを癒してくれたことを……!」
『--よかろう。ならば聞くがいい。天より堕ちし王国、その王から生まれし呪われた赤子の血を我に捧げよ。
そして王と、王にに連なりし全ての者の血が流れ切った時、汝の求る世界は成るだろう……』
「地に堕ちし王国…… 仰せのままに、我が神よ。吾輩の全霊を以て、彼の国に地獄を作り出してご覧に入れましょう……!」
その場に跪いたヴェラドは、虚空に向かって獰猛に笑った。
金曜分です。大変遅くなりましたm(_ _)m
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【水曜以外の19時以降に投稿予定】
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