第409話 絶望の始まり
チチチチチ……
微かに聞こえた鳥の声で、ぼんやりと意識が覚醒する。
アツァー族の村の外周部は、畑や山羊達のための牧草エリアになっている。草木の極めて少ない広大なナパにあって、こういった村は鳥達のオアシスのような存在なのだろう。
ゆっくりと目を開けると、至近距離にティルヒルさんの整った美貌があった。
僕を見つめていた彼女の綺麗な目と、艶やかな黒い唇が笑みの形を描く。
「んふふ…… おはよ、タツヒト君」
「おはようございます、ティルヒルさん…… もしかして、結構前から起きてました?」
「うん。君の寝顔を眺めてたの。すっごく可愛かったよ?」
「あ、ありがとうございます……」
「--んふ! 起きてても可愛い! もうずっとかわいい!」
ちょっと照れながらお礼を言うと、彼女は僕を思い切りハグしてキスの雨を降らせ始めた。
ストレートすぎる愛情表現におずおずと返すと、彼女はそれをさらに倍にして返してくれる。
そんな感じでしばらく馬鹿みたいにイチャイチャしていると、ベッドの側に敷かれてた寝具から、ヴァイオレット様がむくりと起き上がった。寝具は、多分隣の部屋から借りて来たやつだ。
「ふぁ…… あぁ、おはよう二人とも。昨夜は素晴らしいひと時を過ごせたな」
ヴァイオレット様は、僕らに挨拶しながら何やら満足げな表情で頷いた。
これ、今回も僕の知らない所で淑女協定が動いてた感じかな……?
「うん! ヴィーちゃん達のお陰ですっごく楽しかったよー!」
「おはようございます、ヴァイオレット様。なんと言うか、その、すごい夜でしたね……」
正直夢のような一夜だったけど、一欠片の羞恥心が邪魔してそれが言葉にできない。
最初はギャラリーに徹していたティルヒルさん以外の四人も、途中から次々に参戦し、もうえらいことになったのだ。
背後に感じる体温に振り返ると、ゼルさんが僕らと同じベッドで丸くなっていた。何ともすっきりした満足そうな寝顔だ。
ヴァイオレット様の側に目をやると、キアニィさんとロスニアさんが絡み合うように眠っている。昨夜の後半戦、彼女達はいつものように二人の世界を作り出していた。
みんな一糸纏わぬ姿なので、超眼福で正直いつまでもこうしていたかったけれど、日差しの感じからしてもう昼に近そうな時間だった。
そろそろ起きなければという事で、僕らは名残惜しく身支度を整えて部屋を出た。すると。
「あー! や、やっぱりであります!」
殆ど同時に開いた別室のドアから、シャムがこちらを指さし叫んでいた。彼女の後ろにはプルーナさんもいて、二人とも今起きたのか、まるで爆発したかのような寝癖だ。
「や、やぁ。おはようシャム、プルーナさん」
「ぐぬぬぅっ…… シャム達が疲労で眠っている隙にぃ……! 初対戦の様子を観戦できる、貴重な学習機会を逃してしまったであります!」
肩を怒らせて僕らに詰め寄るシャムに、僕らは思わず苦笑いしてしまった。この子がそういった場面を盗み見してくるのはもう常態化していて、最近では隠しもしない。
しかし初対戦て…… 多分教えたのはゼルさんだな……
「シャ、シャムちゃん。大っぴらに言い過ぎだよぉ…… --あの、ティルヒルさん。おめでとうございますと、言っていいんですよね……?」
おずおずとそう口にしたプルーナさんと、まだプリプリしているシャムを、ティルヒルさんは感極まったようにまとめて抱きしめた。
「うん……! すごかったよ! 二人とも、応援してくれて本当にありがとね! あ、寝癖直したげる!」
「あ、ありがとうございます…… えへへ……」
「むぅ…… まぁ、観戦できなかったのは残念でありますが、ティルヒルが嬉しそうで良かったであります!」
ティルヒルさんに髪を梳かされて笑顔になっていくお子様組二人に、僕らもつられて微笑んだ。
なんか、みんな本当に僕には過ぎた人達だよなぁ……
お子様組も含めて全員の身支度を終えたところで、僕らは揃って階段を下った。
この建物はビアド村の長老さんのお家で、僕らは上階の客間に泊めて貰っていたのだ。
なので、ひとまず長老さんに挨拶をと思って一階の居間まで降りたのだけれど、そこには誰もいなかった。
「ん〜……? にゃあキアニィ。この家、誰もいにゃくにゃいか?」
猫耳をぴこぴこと動かしながら問うゼルさんに、キアニィさんも周囲の様子を探りながら頷く。
「え、ええ。気配が感じられませんわぁ。昨日は長老さんとそのご家族も沢山住んでいるご様子でしたのに……」
「皆さん、お仕事に出かけているんでしょうか……? --いえ、今はお昼時ですから誰もいらっしゃらないのはやはり変ですね……」
ロスニアさんの言葉に全員が頷く。
「ええ、僕もそう思います。外を探してみましょう。何か、嫌な予感がします……」
僕らはやや警戒度を上げながら、早歩きで外へ出た。長老さんの家は村の広場にも近いのだけれど、その広場にも人影が無く、立ち並ぶ家々にも気配が無い。
ならばと外周部をぐるりと探していると、村の西側の端に人だかりができているのを見つけ、僕らは安堵の息を吐いた。
「皆さん、おはようございます。集まってどうされたんですか?」
声をかけながら近づいた僕らは、村の人達の異常な様子に気づいた。
ここには、老若男女、亜人と只人の区別なく恐らく村のほぼ全人口が集まっているのだけれど、その全員が西の方を呆然と見つめ、僕らが声をかけても反応を示さないのだ。
「ね、ねぇ! みんなどーしちゃったの……!? あっちって大防壁しか-- え……?」
ティルヒルさんが村の人達と同じ方向に目を向けた後、呆けたような声を出した。
その様子に、慌てて僕も西の方、二週間前に完成したばかりの大防壁の方を見た。ここビアド村はナパの西の果てにあるので、村の上からでも防壁が見えるのだ。
ナパの赤っぽい土を圧縮して作られた大防壁は、今日も陽の光に照らされて紅色に輝いている。
相変わらず地表には魔物が犇めいているけれど、どこもおかしな所は……
--いや、よく見ると変だ。高さ30m程の巨大かつ長大な大防壁には、もちろん塗装などしていない。
なので、その色は一様な紅色のはずでなのに、防壁の頂上付近が茶色く染まっているのだ。
しかもその茶色く染まった部分は、微かに蠢き、徐々に広がっていてるようにも見える。何か、不定形のものが覆い被さっている……!?
ごくりと唾を飲み込みながらさらに目を凝らすと、防壁の向こう側から決定的なものが一瞬見え、心臓がヒヤリと冷える。
それは、数え切れないほどの巨大な茸の群れ。ナパの全勢力を注いで建造した大防壁を、今まさに大陸茸樹怪が乗り越えようとしているのだ。
「し、しまった……! 大岩鬼に手が一杯で、誰も奴を監視して無かったんだ!
あの様子だと、突破は時間の問題だ……! 長老さん! どこですか!?」
僕の大声にびくりと反応したティルヒルさんが、あたりを見回し一点を指さす。
「タツヒト君、こっち!」
彼女について人集りを掻き分けていくと、村の人達の先頭で、長老さんは呆然と大防壁を見つめていた。
--無理もない。大岩鬼相手に絶望的な二週間耐え抜き、やっと危機を脱した末の光景がこれなのだ。でも……!
「長老さん、しっかりして下さい!」
ご老体を気遣いながらも激し目に肩を揺らすと、彼女はゆっくりと呆けた顔をこちらに向けた。
「--あぁ、御使殿。昨夜はお楽しみだったな」
「そ、それについては後ほど謝罪を……! とにかく、まだ終わっていません! 僕らは、この可能性も予想して準備してきた筈です!
僕とティルヒルさんは、今から大防壁の次善策を起動しに行きます! 長老さんは手筈通り、ナパの村々にこの事を伝えて下さい!」
僕の言葉に、長老さんの目に徐々に光が戻っていく。
「次善策…… そ、そうか……! そうであった! 皆、ぼうっとしている暇はないぞ! 戦士達よ、すぐに使いを出すのだ! 他の者達は…… 避難の準備を!」
長老さんの鋭い声に、呆然としてた村の人達が慌てて動きだす。よし、これで事態はナパ全体に共有されるはず。
「それじゃあみんな、後を頼みます!」
「ああ……! 君たちも気をつけて!」
村に残るヴァイオレット様達が頷き、ティルヒルさんがその場で羽ばたきはじめた。
「行こう、タツヒト君! 時間ないから、あーしの足に掴まって!」
「はい!」
差し出された脚をしっかりと掴むと、彼女は一気に上昇し、音を置き去りにする速度で北へ飛んだ。
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