こうして、虫嫌い令嬢は大好きな彼と結婚した
ソフィアは、大の虫嫌いだ。
生まれてこの方、十八年間、ずっと嫌い。
そんな大嫌いな虫が、片思いの相手であるアルロ・バルドの肩に乗っかっている。
―― アルロ様と婚約できる、最後のチャンスなのに……!
ソフィアは、アルロに片思いをしていた。王立学園のクラスメイトでありながら、ただ眺めるだけの三年間。挨拶以外の言葉を交わしたことは、一度もない。
なぜ想いを伝えなかったのか。
それはアルロが手の届かないスーパースターだったとか、浪漫ある理由ではない。当時の彼には婚約者がいたからだ。
気持ちを抱えたまま卒業を迎えてしまい、その恋は始まらずに終わった。
それがどういうわけか、卒業から三か月後に彼の婚約は破棄され、新しい婚約者を立てることになったそうだ。
バルド伯爵家は大きな領地を持っており、金も権力も申し分ない。アルロ自身の人気はそこそこであっても、バルド伯爵家嫡男は大人気。婚約者が決まっていないご令嬢たちにとっては棚からぼた餅。引く手あまたの大激戦だ。
当然、ソフィアも参戦を決め、たくさんいる婚約者候補の一人として顔合わせをしている。それが、今日だった。
応接室で談笑しているときはよかった。和やかな時間。両家とも打ち解け、ではそろそろ若いお二人でごゆっくりタイムだろうと、アルロが庭に連れ立ってくれたのだ。
素敵な庭を見て、ステキですねなんてそのままの感想を告げる。ここからアピール開始だと、気合いを入れて彼を見た。
瞬間、右肩に虫が飛来。
アルロにエスコートをされるという夢のようなお散歩タイムだというのに、本当に夢であれと願うような大きさの虫が、彼の肩の後ろ側に引っついている。重みを感じてもおかしくないサイズ感だ。
―― なぜ気づかないの!? 重くないの!?
そういえば、彼は鈍感だった。全く気付かれなかったソフィアの熱視線。学生時代を思い返して遠い目になる。
ようやくチャンスが巡ってきたかと思ったら、これだ。まさにおじゃま虫ね、なんて上手いことを考えることで気を紛らわしていると、当の本人が心配そうに顔をのぞき込んできた。優しい茶色の瞳がソフィアに向けられる。
「ソフィア嬢。顔色が悪いようだけど、大丈夫ですか?」
「ええ、全く。全く、本当に大丈夫ですわ。少し虫の居所が悪いだけで」
「は、はぁ……」
とてもじゃないが、言えなかった。
今は、乙女の戦いの最中。何が減点になるか分からない状況なのだ。一つもミスは許されない。
「では、庭を案内しますね。レディ、どうぞ?」
「は、はい」
初めてのエスコート。すなわち、初めて触れるアルロの腕。この胸の高鳴りが、彼に聞こえてしまいそうなほどに近い。
であれば、虫も近い。アルロが動くたびに虫が飛び立つのではないかと思うと、気が気ではない。もう一歩も動くなと、ドスの効いた声を出しそうになる。
―― 執念深い虫ね。私と良い勝負だわ。どうにか排除しないと、このままでは虫に負けてしまう……!
彼女が戦うべきは虫ではなく他のご令嬢なのだが、ソフィアは虫に気を取られすぎていた。
そのとき、アルロが「あ!」と言って大きく左を向く。二人の身長差によって、ソフィアの鼻先に虫がくる。
―― ひいっ!
「ソフィア嬢。あの花、王立学園の中庭に生えていたんですよ。覚えてます?」
「ええ、覚えてます覚えてます。這ってます。右をごらんになられては!?」
「え、右? あぁ、右にもありますね。本当だ」
虫が飛び立つんじゃないかと思い、彼が大きく動くたびにソフィアはビクッと身体を震わせる。
せっかくのエスコートなのに、ついつい間合いを取ろうとしてしまう。こんなはずじゃなかったのに!
「あの……ソフィア嬢、無理はしないでください。やはり挙動が不審です。お疲れでは?」
「そんなことはございませんわ! まだまだ歩き足りません」
ここでお見合い終了となってしまっては、きっと婚約者に選んでもらえない。焦った末に、ご令嬢にあるまじき足腰の強さをアピールしてしまう。
彼は小さく笑っていた。
「白状します。実は、僕の方が歩き疲れてしまったんです。あそこの四阿で休んでもいいですか?」
アルロは優しい。疲れていない癖に、こういうことを言う。そんな彼が大好きなのだ。
「ありがとうございます、安息の四阿ですわね……。ふふっ、アルロ様はいつもこうやって体調の優れない誰かに付き添ってましたよね、懐かしいです」
「え……? ええ、まあ……」
どうぞとエスコートしてくれたので、お礼を言って座る。彼は一呼吸置いてから、ソフィアの左隣に座った。すなわち、虫が近い。
―― しまったわ。反対側に座ればよかった!
ソフィアはスッと右にスライドして、かなり距離を取った。
「あの、ソフィア嬢は――」
「は、はい!」
恥ずかしさと恐怖が入り混じり、上手く彼の方を見られない。ソフィアは緊張で顔に熱が集まるのを感じながらも、恐怖で青ざめるという芸当をやってのけた。
「……いえ。僕たち、同じクラスだったのに、ほとんど会話をしませんでしたよね。制服の印象が強いからかなぁ、ドレス姿だと知らない女性に思えてしまうね」
「ええ、印象が強いですよね、ええ、確かに」
「もしかして、僕も制服とは違って見えますか?」
「そうですわね、肩のところが特に」
すると、アルロは「あぁ、刺繍のことですよね?」とかぶせ気味に言う。虫のことですけどね。
「肩のところの刺繍は、母が手自らやったものらしくて」
「アルロ様のお母様が? まぁ、素敵! アルロ様も手先が器用でしたものね」
「え……えぇ、まあ」
ソフィアはおっとりとした顔つきの割には手先が不器用で、刺繍が上手くできた試しがない。
アルロは絵が得意で手先も器用だったから、それは母親譲りなのかもしれない。どんな刺繍だろうと視線を向ければ、そこに覆い被さる虫がいる。
「……でも、よく見えなくて残念ですわ」
「近くでご覧になります?」
「え」
アルロは気を利かせて、空いたスペースを詰めてくる。虫からすれば予想だにしない横移動だったのだろう。
瞬間、巨大な虫がバッサバサと飛び立った。
「ぎゃあ!」
可愛くもない叫び声を上げ、ソフィアは目をつぶり身体を震わせた。もし自分の身体のどこかに飛来していたらと思うと、怖くて目を開けられない。
「ソフィア嬢?」
「ご、ごめんなさい」
背を向けるソフィア。アルロは何かを探るように、その背中をじっと見てから、やはりと頷いた。
「あなたの素振りから、そんな気はしていました」
「え……?」
「さすがに、これだけ怯えられたら僕にもわかりますよ。(男性が)苦手なんでしょう?」
「は、はい……。お恥ずかしいのですが、実はとても(虫が)苦手なんです」
奇跡的に会話が噛み合ってしまった。
「そうですか、こうやって離れていれば大丈夫ですか?」
「そ、そうですね。視界に入ると少し怖いですが、離れていれば大丈夫です」
「視界に入るだけで!? では、本当は触れるのも怖かったのでは?」
「触れる!? そ、そんなことできません!」
ソフィアがぶんぶんと首を振ると、アルロは小さく笑った。
「そうかぁ、それなら僕も相当頑張らないとならないなぁ。婚約者候補とはいえ、君からしたら僕も同じ存在でしょう?」
―― え? アルロ様と虫が? 虫と同じ存在だと思っているの? 自分は虫けらだと!?
噛み合ってないのに噛み合っちゃった会話で、ソフィアは衝撃を受けた。
彼は学園のスーパースターではなかったけれど、温和で分け隔てなく優しい素敵な人だ。勤勉で、実直で、非の打ち所もない。ずっと見てきたのだ。ソフィアは知っている。
自信家ではないにしても、満足できる自分になるための努力は惜しまない。こんな風に自分を卑下するような人ではなかったはずだ。
とんでもなく腹が立った。この空白の三か月で、彼に『自分は虫けらのような存在だ』と言わしめたのはどこのどいつだ、と――。
真実、アルロはそんなこと言っていない。彼は『そこらへんの男と同じく、僕のことも怖いよね?』と言っただけだ。
だが、勘違いをしたソフィアは口を開いてしまう。
「ぜ、ぜんぜん違います! 虫けらなんかじゃありません。アルロ様は優しくて素敵な男性です。ずっと見ていたから、知っています! 誰よりも努力をして、上手く行かないことがあっても下を向かずにひたむきに頑張っている姿を……私は知っています。ずっと……三年間、ずっと見てたもの……。自信を持ってください!」
言い切ってから、はっとする。これでは、三年間の片思いをこじらせたストーカー手前の激重女じゃないか。
恐る恐る、アルロに視線を向ける。彼は困惑している様子で、襟足をかいていた。
「えっと……?」
次にくるだろう、気持ち悪いとかそういう類の言葉を聞きたくなくて、ソフィアは耳を塞ぐ。
「ごめんなさい!」
一言、謝るのが精一杯。その場から逃げ出してしまった。
こうして、ソフィアの恋はまた始まらずに終わった。巨大な虫が現れなければ、もっと上手く立ち回れたかもしれないのに……そう思って、その夜は家中に殺虫剤を撒き散らし、枕を濡らして寝た。
ソフィアは思いもしなかった。三日後、大きな花束を抱えて、アルロが婚約の申し込みに来てくれるなんて。
その際に、アルロの前の婚約者が不義をはたらいて破談になったこと。そのせいで少し女性不信になっていたこと。さらに、男性恐怖症でありながらも、唐突に励ましてくれたソフィアに惚れてしまったことを聞かされた。
アルロが隣に並ぶと嬉しそうにはにかむのに、近付きすぎると顔を青くする。表情がころころ変わる様が可愛かったとか。
男性が怖いのに一生懸命話そうとする姿が可憐だったとか。
事実とは異なる勘違いだらけの話を、大好きなアルロの口から語られるなんて、ソフィアは思っていなかった。
あまりに美化された話にソフィアは居たたまれなくてしまい、結局、あのときの巨大な虫の話をする羽目になる。
「……というわけで、あれは男性恐怖症ではなくて、虫恐怖症だったんです……申し訳ございません」
深々と頭を下げると、笑い声が降ってきた。彼はごめんと謝りながら、笑いをかみ殺していた。
「ふはっ……まさか虫だったとは……なんか変だなぁとは思っていたけど。肩に虫……ははっ!」
「も、申し訳ありません」
この婚約話も破談になるのだろう。ソフィアはそう思った。なにせ三年間の片思いだ。もったいないことをしたと悔いる気持ちもあるが、彼の隣に立つために、実直な彼を騙して嘘をつき続けることはできなかった。
「素直に話してくれるんだね。小狡く立ち回れば、僕を騙すこともできたのに」
「騙す!? アルロ様にそんなことできません!」
「うん、話してくれて嬉しかった。むしろ、君が男性恐怖症じゃなくてホッとしたかな。でも……一つだけ、確認していい?」
「はい」
「三年間、僕のことを見ていてくれたのは、本当? それとも、また僕の勘違い?」
本当だといいんだけど。彼はそう言いながら、婚約指輪を取り出した。
こんな虫のいい話があっていいのかしら。巨大な虫に少しだけ感謝して、ソフィアはもう一度、三年分も溜め込んだ愛の告白をしたのだった。
【こうして虫嫌い令嬢は、大好きな彼と結婚した】完
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