第二十九話:絶対零度の行軍
◆第4階層・雪原/アレン視点
「――っ、寒い……!」
神官のミシェルが、ガタガタと歯を鳴らした。
無理もない。
階段を抜けた瞬間、俺たちの視界は真っ白な猛吹雪に覆われたのだ。
気温は氷点下。
そして何より最悪なのが――
「くそっ、鎧が……!」
重戦士のボルドが呻く。
第3階層の水没エリアでずぶ濡れになった装備が、この極寒の冷気で一瞬にして凍りついているのだ。
関節部分に入り込んだ水分が氷となり、ボルドの自慢の重装甲を、ただの「重くて動かない鉄の塊」に変えていく。
「レン、防壁を!」
「はいっ! 《風の防壁》!」
魔術師のレンが杖を掲げると、俺たちの周囲に半透明のドームが展開された。
吹き荒れる雪と風が弾かれ、視界が確保される。
「ふぅ……助かった。これなら進める」
ボルドが安堵の息を吐く。
だが、俺の背筋を走る悪寒は消えなかった。
「……いや、油断するな。
風は防げても、“温度”は防げない」
「え?」
レンが俺を見る。
その唇は、すでに紫色に変色し始めていた。
風魔法の障壁は、あくまで空気の流れを遮断するものだ。
外の冷気そのものを遮断する断熱効果はない。
「これじゃあ……冷蔵庫の中と同じだ」
俺は剣の柄を握りしめた。
濡れた手袋が柄に張り付いて、バリバリと音を立てる。
「立ち止まったら死ぬぞ。
体温を上げるために動くしかない。強行突破だ!」
「りょ、了解……!」
俺たち“霹靂の剣”は、絶対零度の雪原へと足を踏み出した。
◆雪原・ウルフ襲撃/アレン視点
雪の中を進む俺たちの周りで、白い影が揺れた。
「来るぞ!」
視界ではない。気配で感知する。
風の防壁の外側。雪景色に溶け込むような白銀の毛並み。
ホワイトウルフ。
それも、一匹や二匹ではない。
「グルルル……!」
防壁の切れ目、死角を縫うようにして、狼たちが飛びかかってくる。
「させん! オラァッ!」
ボルドが盾を振るう。
だが、その動きは鈍い。
凍りついた鎧が関節の可動域を制限し、いつものような鋭い反応ができないのだ。
ガキンッ!
狼の牙が盾を噛む。
その衝撃でボルドがたたらを踏む。
「くそっ、体が鉛みたいだ……!」
「ミシェル、ボルドの援護を! レンは牽制!」
俺は叫びながら、腰の剣に手をかけた。
鞘の中で凍りつき、びくともしない剣。
だが、俺には雷がある。
「――帯電!」
バチチチッ!
掌から魔力を流し込み、鞘と刀身を一気に加熱する。
ジュッ、と音を立てて氷が溶ける。
抜刀。
「《紫電・円舞》!」
円を描くように振るわれた剣から、紫色の雷撃が奔る。
飛びかかってきた三匹のウルフが、雷に打たれて弾き飛ばされた。
「ギャンッ!」
黒焦げになった狼が雪に沈む。
だが、残りの群れはすぐに散開し、雪の中へと姿を消した。
「逃げた……?」
「いや、違う。波状攻撃だ」
俺は周囲を警戒しながら言った。
「あいつらは俺たちを倒そうとしてない。
“足止め”をして、体温を奪うのが目的だ」
「走るぞ! 囲まれる前に抜ける!」
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「ご主人って、やっぱり性格悪いですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
モニターの中で、アレンたちが必死に雪原を駆ける姿を見ながら、俺はコーヒーを啜った。
濡れた装備での雪山行軍。
風魔法で吹雪を防ぐのは想定内だ。むしろ、そうさせることで「安全だ」と錯覚させ、冷気によるスリップダメージ(継続ダメージ)を蓄積させる。
「ホワイトウルフもいい仕事をしてるな」
彼らは深追いしない。
冒険者の足を止め、防御姿勢を取らせるだけでいい。
立ち止まれば、それだけ体温が奪われる。
「アレンさん、剣を雷で加熱して抜きましたね。
とっさの判断力、さすがCランクです」
「ああ。
ただの新人なら、剣が抜けずに狼の餌食だっただろうな」
だが、ここからが本番だ。
雪原を抜ければ、次は山岳地帯。
足場はさらに悪くなる。
「イエティ部隊、配置完了してます」
「よし。
歓迎の花火(雪玉)を打ち上げてやれ」
◆第4階層・山岳地帯/アレン視点
雪原を抜け、傾斜のきつい山道に入った。
凍りついた地面は滑りやすく、一歩進むごとに体力を削られる。
「はぁ……はぁ……」
ミシェルとレンの唇は、もう完全に紫色だ。
ガチガチと震えが止まらない。低体温症の一歩手前だ。
ボルドも、鎧の重さと氷の重さで、荒い息を吐いている。
(まずいな……想定以上の消耗だ)
その時。
ゴォォォォン……!
頭上から、空気を震わせるような音が響いた。
「なんだ!?」
見上げると、岩陰から巨大な影が現れた。
白く長い毛に覆われた巨体。イエティだ。
それも、四体。
彼らは、自分たちの体ほどもある巨大な雪玉を抱え上げていた。
「まさか――」
ブンッ!
剛腕が振るわれる。
放たれた雪玉が、砲弾のような速度で落下してくる。
「防壁じゃ、あんな質量防げません!」
レンが悲鳴を上げる。
魔法の壁は、エネルギーや軽い飛翔物には強いが、数十キロの質量爆撃には耐えられない。
「回避! ……くっ、足場が!」
ボルドが避けようとするが、凍った地面で足が滑る。
このままじゃ、押しつぶされる。
「――僕が出る!」
俺は覚悟を決めて叫んだ。
「アレンさん!?」
「僕が道を開ける! みんなは続いてくれ!」
俺は雷魔法を身体強化に回した。
バチバチと全身から火花が散る。
凍りついた筋肉を、電気信号で無理やり加速させる。
ドンッ!
足元の氷を砕き、俺は斜面を駆け上がった。
迫りくる雪玉。
中に岩が仕込まれているのが見える。直撃すれば即死だ。
「邪魔だぁぁぁっ!」
俺は跳躍し、空中で剣を一閃させた。
紫電一閃。
雷を纏った刃が、雪玉を真っ二つに斬り裂く。
砕けた雪と岩が、俺の左右を通り過ぎていく。
そのままの勢いで、イエティの懐へ飛び込む。
「グルァッ!?」
驚くイエティの喉元に、雷撃を叩き込む。
巨体が痙攣し、どうと倒れた。
「今のうちに!」
リーダーが作った隙を、仲間たちは逃さなかった。
ボルドが盾で体当たりし、レンが風の刃で切り刻む。
激しい攻防の末、俺たちはなんとかイエティの包囲網を突破した。
◆第4階層・山頂手前/アレン視点
魔物たちを退け、俺たちはついに山頂手前までたどり着いた。
だが、限界は近かった。
ポーションは飲み尽くした。
魔力も残りわずか。
全員、満身創痍だ。
それでも――
「……見えた」
吹雪の向こう。
山頂にそびえ立つ、巨大な構造物。
そして、その中心にある、重厚な扉。
あそこからは、今までとは桁違いの魔力が漏れ出している。
「あの中にいるのは、間違いなくこの迷宮のボス……あるいは、それに準ずるものだ」
俺は震える手で剣を握り直した。
寒さのせいだけじゃない。本能的な恐怖だ。
「……みんな、もう少しだ。
あの中に入れば、少なくとも吹雪はない」
俺は努めて明るく言った。
「ただし――吹雪より恐ろしいものが待っているかもしれないけどね」
「……アレンさんがそう言うと、笑えないです」
ミシェルが、引きつった笑みを返す。
でも、誰も「帰ろう」とは言わなかった。
ここまで来て、背を向ける選択肢は俺たちにはない。
俺たちは、最後の力を振り絞って、扉の前へと歩を進めた。
◆ボス部屋前/アレン視点
扉の前に立つ。
そこだけは、不思議と風が止んでいた。
そして――
「……なんだ、これ」
ボルドが、扉の横にあるものを見て声を上げた。
それは、第1階層の入り口にあったものと同じ。
青白く光る、石造りのゲート。
転移陣だ。
『認証を開始します』
無機質な声が響く。
『パーティ名“霹靂の剣”。
第4階層までの踏破を確認しました。
転移ゲートの使用が可能です。地上へ帰還しますか?』
「……は?」
レンが、呆然と声を漏らした。
「ここで……帰れるの?」
ボスの部屋の、目の前で。
扉一枚隔てた向こうに、最強の敵がいる場所で。
「帰ってもいいよ」と、迷宮が言っている。
「……ふざけやがって」
俺は、思わず笑ってしまった。
これは慈悲じゃない。
挑発だ。
“ボロボロのお前たちじゃ、どうせ勝てない。死ぬ前に尻尾を巻いて逃げたらどうだ?”
そう言われている気がした。
ゲートの光は、暖かく、優しく見える。
あそこに入れば、暖かいベッドと食事が待っている。
ミシェルたちが、揺れる瞳でゲートを見ているのが分かった。
リーダーとして、判断しなきゃならない。
安全を取るなら、ここで帰るのが正解だ。
俺たちはもう限界に近い。
でも――
「……Cランクパーティが、新人の前で『ボス前でビビって逃げ帰りました』なんて、言えないよな」
俺は、ゲートに背を向けた。
「アレンさん……」
「それに、ここまでお膳立てされて、挨拶もしないなんて失礼だろ?」
俺は、仲間たちを見た。
ボルドが、ニヤリと笑って盾を構え直す。
レンが、杖を握りしめる。
ミシェルが、覚悟を決めたように頷く。
みんな、同じ気持ちだ。
「行こうか。
ここまでのおもてなしへのお礼を言いに」
俺は、重厚な扉に手をかけた。
氷ついた金属の冷たさが、掌を通して伝わってくる。
力を込める。
ギギィ……と、重い音がして、扉が開いた。
その先にある絶望を知らずに、俺たちは足を踏み入れた。




