第二十六話:新人ラッシュ
◆ギルド本部からのお達し/リアナ視点
「――“新人育成強化週間”?」
朝一番。ギルド支部長室に呼び出されたリアナは、デスク越しに差し出された羊皮紙の書簡を二度見した。
眠気も吹き飛ぶような、不穏な文字列がそこには踊っていた。
「そうだ」
支部長バルドは、いつもの仏頂面で重々しく頷いた。
その眉間には、いつもより深い皺が刻まれている。
「本部からの通達だ。
“死亡率の低い迷宮を使い、各支部の新人を集めて、育成の集中的な強化を行え”だとよ」
「……うちの北西迷宮、完全に狙われてますね」
「お前の報告書が優秀すぎたんだろうな」
バルドが、書簡の別紙を太い指で叩く。
そこには、リアナがこつこつと集計し、本部に上げていた数字が並んでいる。
北西迷宮・浅層〜ゴブリン前線まで
死亡率:0%
重傷率:抑制傾向(装備の全損率は高いが、人命損失は皆無)
撤退率:高いが、再挑戦率(リピート率)も極めて高い
「“死なないのに育つ”って話が、本部のお偉方の耳に入ったらしい。
『じゃあそこで新人をまとめて鍛えよう』という、まあ、現場を知らない連中のありがちな発想だ」
「……ありがちな、ですけど」
リアナは、頭の中で迷宮前広場の光景を思い浮かべる。
最近でこそ露店が並び賑やかになってきたが、キャパシティには限界がある。
あの広さ。あの入口。
今でも朝はそこそこ混雑しているというのに――
「支部長。これ、期間は?」
「とりあえず一週間。様子見だとよ」
「“とりあえず”で一週間……」
リアナは天を仰ぎたくなった。
新人を一気に送り込む。浅層は飽和状態になる。
当然、トラブルも増えるし、回復薬の在庫も枯渇するだろう。
「リアナ」
「はい」
「お前の顔、完全に“面倒臭い”って書いてあるぞ」
「書いてません。業務遂行上の懸念事項を整理しているだけです」
即答したが、胸の奥はまさにそれだった。
胃がキリキリと痛み始めている。
「……やるしかないんですよね」
「そうだ。拒否権はない。
ただし、“死亡者ゼロ最優先”は本部も条件に入れてきている。
無茶な突撃をさせようとする馬鹿なパーティがいたら、受付の権限で依頼を切って構わん」
「了解です」
リアナは深く頭を下げる。
やるからには、徹底的に管理するしかない。
今まで絶妙なバランスで冒険者を受け入れてきたあの迷宮が、この“強制イベント”にどう反応するか。
彼女はため息を飲み込み、“新人育成強化週間”の対応策をまとめ始めた。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「――ログの流量、おかしくない?」
翌朝。
日課のモニタリングを始めた俺は、コンソールの前で固まった。
「おかしいですね、ご主人」
ナノも、少し光の明滅を早めている。
迷宮核の前で展開された立体モニター。
そこに流れる文字列の速度が、尋常ではない。
侵入パーティ数。
同時接続数(迷宮内滞在人数)。
罠作動回数/分。
どれも、普段の倍以上のカーブを描いて上昇している。
まるで、ブラックフライデーのECサイトのサーバー負荷グラフを見ているようだ。
「ギルド側で何かやってるっぽいですね。
街の掲示板を解析しました……“新人育成強化週間”だそうです」
「名前からして嫌な予感しかしないんだけど」
俺は眉間を揉んだ。
育成強化週間。つまり、質より量のバラマキ期間。
「これ、DDoS攻撃(大量のアクセスでサーバーを落とす攻撃)と変わらないぞ……」
「悪意がない分、タチが悪いですね」
「やるしかないか。
ナノ、全階層の消費魔力リミッターを解除。
ゴブリン、スケルトン、サハギン、全戦力をシフト稼働させろ。
罠の自動修復サイクルも最短に設定だ」
「了解です! 魔力消費、跳ね上がりますよ!」
「稼ぎ時だと思えばいい。
――絶対に、システム(迷宮)を落とすなよ」
◆ゴブリン前線・ローテーション/ジグ視点
「……多い」
第一階層の奥、ゴブリンたちの待機部屋。
ジグは、通路の先から響いてくる足音と喧騒を聞きながら、ぼそりと呟いた。
金属の擦れる音。
靴底が石を叩く音。
そして、緊張と興奮が入り混じった、大量の人間の匂い。
いつもの倍――いや、もっとかもしれない。
途切れることなく、次から次へと“お客さん”がやってくる。
「今日、どうしました?」
『ギルド側の施策だとさ』
ご主人の声が、頭の奥で返ってくる。
いつもより少し、早口で、硬い声だ。
『新人をたくさん送り込む週らしい。
しばらくはこのペースが続く』
「新人……多い。
俺たち、足りる?」
『足りないから追加で召喚をした。
それに、お前たちの休憩時間を確保するために、シフトを細かく刻む』
ジグは、背後を振り返る。
新しく召喚されたゴブリンたちを含め、総勢二十体近く。
第一小隊、第二小隊、第三小隊。
それぞれが交代で前線に立ち、疲労が溜まる前に交代して回復部屋に戻る。
HP三割を切ったら、例の“倒された演出”とともに強制転移。
回復部屋でロクにポーションを飲まされ、少し休んで、また別のルートから前線へ。
まさしく、人海戦術。
終わりのないマラソンだ。
「……働く」
ジグは、棍棒を握り直した。
不満はない。飯はうまいし、寝床はある。
何より、仲間が死なない環境を作ってくれている。
なら、これくらいは返さなければならない。
『無理はするなよ』
「“死なないのが仕事”」
『そう、それ』
ご主人の声が、少し疲れているように聞こえた。
ジグは、気になって尋ねる。
「ご主人、大丈夫?」
『大丈夫。今日はちょっと忙しいだけだ』
「さ、仕事だ! 第一小隊、前へ!
舐められるなよ、俺たちはこの迷宮の“顔”だ!」
「ギャッ!!」
通路の角を曲がってきた新人パーティの集団に向かって、ジグたちは吠え、走り出した。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「……はは、笑えない」
俺は、迷宮核の周囲に展開した立体モニターを十枚以上並べながら、顔を引きつらせた。
各階層のそれぞれに、パーティがひしめいている。
第一階層は渋滞気味。
第二階層の迷路では、スケルトンに追われた新人が悲鳴を上げて逃げ回っている。
第三階層の水場では、半魚人が次々と冒険者を水没させている。
「浅層同時アクセス数、現在三十二パーティ。」
ナノが、淡々と読み上げる。
「罠の自動難易度調整スクリプト、負荷増加に合わせて正常稼働中。
HP三割以下退避スクリプトも、誤動作なし。
現状、障害ゼロです」
「障害ゼロなのに、この胃の痛さなんなんだろうな」
「“大量アクセス時のトラウマ”ですね」
言い方。
でも、図星だ。
ログが流れる速度。
エラーは出ていないのに、画面の更新頻度だけで心拍数が上がる。
(落ちる……落ちる……って、どこかで頭が勝手に警報鳴らしてくる)
前世の“地獄の夜”が、ふと脳裏をよぎる。
リリース直後のゲームサーバー。
想定の十倍のアクセス。
詰まっていくデータベース。
鳴り止まないアラート音。上司の怒鳴り声。
あの時も、ログは出ていた。数値は動いていた。
でも、システムは追いついていなかった。
そして――気付いたら、俺はサーバルームの床で冷たくなっていた。
「ご主人、呼吸、浅くなってます」
ナノの声が、すっと意識に差し込んでくる。
「一回、画面から目を離してください」
「ダメだ。今外したら、どこで何が起きるか――」
「だから、自動運用スクリプトを入れてるんですよ」
ナノの声が、珍しくきっぱりしていた。
いつもはふざけた口調の光球が、今は真剣に俺の目の前に割り込んでくる。
「“異常値検知”と“閾値アラート”は、ボクが見てます。
ご主人は、“本当に手を出さなきゃいけない時だけ”動けばいいんです」
「……本当にそれで間に合うか?」
「間に合わせるのが、システム側の仕事です」
少し、笑いが混じった声。
「今までずっと、“人間がシステムの尻拭い”してきたでしょ。
ここくらい、“システムが人間の尻拭い”してもいいじゃないですか」
妙な言い回しに、思わずふっと笑いそうになった。
肩の力が、数ミリだけ抜ける。
「……お前、ほんと、時々いいこと言うよな」
「時々ですか」
「よし、五分だけ目を離す」
くだらないやり取りを挟んで、俺は一度だけ、深く息を吸った。
画面から視線を外し、迷宮核の脈動に意識を向ける。
ドクン、ドクン。
一定のリズム。
魔力の流れはスムーズだ。各階層の“温度”も正常。
(――まだ、持つ)
エンジニアとしての直感がそう告げる。
「ナノ。
もし、“本当にやばい”ってなったら――」
「なったら?」
「リリを、一時的に第一層に回して構わない。
冒険者から得られる魔力は減るかもしれないが、第一層の魔物の安全を優先してくれ。
あいつら(ゴブリン)が崩れたら、この迷宮は終わる」
「了解しました、ご主人」
ナノの光が、一瞬だけ強く瞬いた。
「その判断を、“事前に言ってくれる”の、嬉しいです」
「前世では、言わずに勝手に抱え込んでたからな……」
自分で自分に、苦笑する。
報連相。基本中の基本が、極限状態だとできなくなる。
それを、今はできている。
そのとき――
視界の端で、妙な赤が点滅した。
「ん?」
「第一層の回復部屋、ポーション残量が閾値を割りました。
消費ペースが供給を上回っています」
ナノが、即座に情報を拡大する。
画面には、回復部屋でポーション瓶をがぶ飲みしているゴブリンたちの姿。
その後ろで、まだ回復待ちの行列ができている。
怪我の治りが遅れれば、前線への復帰が遅れる。
前線が薄くなれば、突破される。
「……ロク!」
◆回復部屋・裏方戦線/ロク視点
ロク――番号六のゴーレムは、仲間のゴーレムと共に、無表情の石の顔で黙々と瓶を運んでいた。
回復薬の樽。
空になった瓶。
床に散った破片。
ロクたちはひたすら動く。
休憩はない。彼らに疲労はないからだ。
だが、物理的な時間は有限だ。
樽を運ぶ。瓶を補充する。床を掃く。
樽を運ぶ。瓶を補充する――
「ロク!」
頭の中に、ご主人の声が響く。
『第一層の回復部屋のポーション残量がマイナス域に入る。
第二層の備蓄から融通してくれ』
ロクは、こくりとも動かない顔で頷いた(つもりだった)。
指示通り、第二層回復部屋の予備ポーション樽を持ち上げる。
重量200キロ。
それを軽々と担ぎ上げ、第一層への昇降機(簡易転移陣)へと走る。
通路ですれ違うゴブリンたちが、
「ロク、今日、はやい」「ありがとう」と声をかけていく。
(稼働率、向上)
ロクの内部ログに、満足そうな数字が並んだ。
求められている。機能している。
ご主人が褒めてくれれば、それでいい。
ロクは、石の足をきしませて、さらに速度を上げた。
◆迷宮核の間・そして限界へ/黒瀬視点
「……ロク、相変わらず頼りになるな」
「ロクさん、今日の稼働率、いつもの一・四倍ですよ」
「数字で見ると怖いな」
でも、そのおかげで、回復部屋のボトルネックは解消されつつあった。
戦線は維持されている。
問題は――
「ご主人の脳の稼働率ですね」
「それは言うな」
ログを追い、罠の発動ログを確認し、例外処理が走った箇所を見て、またスクリプトを微修正し――。
五分休憩なんて、とうに過ぎていた。
目が、チカチカする。
画面の文字が、少しだけ揺れて見えた。
ナノの声が、遠くなった気がする。
「ご主人?」
「……大丈夫だ。
あと数時間で、今日のピークは過ぎる。
夕方になれば、新人は帰る……」
「その“あと数時間”が危ないんですよ」
ナノの声に、焦りが混じる。
「心拍数上昇、呼吸浅い。
思考ログに“落ちる”“死ぬ”“納期”ワードが増えてます。
前世のバグ(トラウマ)が干渉してます!」
「ログ分析すんな」
「しますよ」
ナノが、きゅっと声を引き締めた。
「ご主人。
今、“手を離したら事故る”って思ってますよね」
「思ってる」
「でも、“このままご主人が倒れたら、もっと事故る”って分かってますか?」
「……」
図星だった。
分かっている。
前世と違って、ここで俺が倒れたら、物理的に迷宮運営にも影響が出る。
俺と迷宮核はリンクしている。俺の負荷は、そのまま迷宮の不安定さに繋がる。
でも、手が止まらない。
止め方が分からない。
「……ナノ」
「はい」
「悪い。“強制ログアウト処理”って、まだ残してたっけ」
ナノの光が、一瞬止まった。
「あります。
ご主人が“やりすぎた時のための非常停止用の睡眠魔法”。
……使うんですか?」
「それ、発動してくれ」
「え?」
「このままの状態で踏ん張るより、今いったん落ちた方が被害が少ない。
自分の状態管理くらい、自分で判断しなきゃな」
言いながら、自分で笑ってしまう。
「前の会社じゃ、絶対言えなかったセリフだな」
「……」
ナノは、しばらく黙っていた。
そして、静かに、決意を込めて口を開いた。
「分かりました、ご主人」
その声は、どこか震えていた。
「“ご主人、強制ログアウト処理”を実行します。
権限、いただいていいですか」
「うん。
任せる」
そう言った瞬間――
視界が、ふっと暗くなった。
強制的な睡眠魔法が、脳のスイッチを切っていく。
モニターの光が遠ざかる。
迷宮核の脈動も、薄れていく。
最後に見えたのは、
ジグたちゴブリンが前線で笑っているログと、
浅層の“稼働率グラフ”が、なめらかなカーブを描いている画面だった。
(……ああ。
“ちゃんと回ってる”)
そう思ったところで、
俺の意識は、すとんと底へ落ちた。
◆迷宮核の間・留守番組/ナノ視点
「――ご主人、ログアウト完了」
ふよふよと浮かびながら、ナノは、少しだけ長い息を吐いた。
迷宮核と接続されていた“ご主人の感覚ライン”が、一時的に遮断される。
彼の身体は、別室の簡易ベッドへとそっと転移させておいた。
(ロクと、休憩中のゴブリン数名の協力付きで。みんな心配そうに運んでいった)
「さて」
ナノは、光を強めた。
迷宮核の前に浮かび、管理者権限の一部を代行する。
「ここからは、ボクたちの時間です」
立体モニターを再配置する。
浅層〜ゴブリン前線までのログ一覧。
自動運用スクリプトの状態。
エラーアラート用のウィンドウ。
ご主人が組んだスクリプトは優秀だ。
あとは、それを監視し、微調整するだけでいい。
「ジグさん」
『なんだ』
ゴブリン前線のリーダーの声が返ってくる。
少し、息が上がっているが、力強い声だ。
『ご主人、どうした? さっきから声が聞こえない』
「ご主人、今日は“お休み”です」
『病気?』
「“働きすぎ病”です。強制的に寝かせました」
『……』
しばし沈黙したあと、ジグは、短く吐き捨てた。
『またか』
「またです」
ナノは苦笑する。
「でも今は、“ボクらだけで回せるかどうか”のテストにもなります。
ジグさんたちは、“いつも通り”で大丈夫。
何かあったら、ボクがサポートします」
『分かった』
即答だった。
『ご主人が戻ってきた時、“何も問題なかったぞ”って言ってやりたい。
だから、任せておけ』
「いい部下ですね、ほんと」
『褒めるな、照れる』
通信が切れた。
頼もしい背中が見えるようだ。
ナノは、次に深層側のモニターを確認する。
「リリさん」
『なあに?』
ボス部屋の悪魔が、翼をぱたぱたさせながら返事をしてくる。
水没した第三階層の奥で、退屈そうに爪を磨いていた。
『今日は、なんか弱いのばっかりよ。
ここまで誰も来ないじゃない』
「新人育成週間ですからね。
リリさんの出番は、今日はほとんどないです。
ここまで来れそうなパーティも、数組しかいません」
『つまらない』
「でも、“ご主人お休みの日”に、派手なのやると、戻ってきた時に胃が死にますよ」
『……それはちょっと見たい気もするけど』
いたずらっぽく笑う声。
「しないでください」
きっぱり言っておく。
「今日は、“浅層の安全と回転率”優先です。
もしここまで来れた冒険者がいたら、いつもより演出を強めにして、
”ここから先は進めなさそう”“今日はここまで”の空気、出して帰らせてください」
『了解。
“不戦勝”で追い返せばいいのね』
そう言って、リリはくすりと笑った。
『まったく。
こんなに“誰も殺したくない”なんて言う迷宮主、他にいないわよ?』
「ボクもそう思います」
でも、だからこそ。
ボクたち魔物は、この主のために働きたいと思うのだ。
◆キャンペーン終わり際・迷宮前広場/カイ視点
その日、北西迷宮は、朝から晩まで、ずっと賑やかだった。
滑走罠ゾーンで尻をぶつける悲鳴。
毒針ゾーンで「うおっ」と叫ぶ声。
ゴブリン前線で「いててて!」と笑う声、悔しがる声。
怪我人は山ほど出た。
ポーションは飛ぶように売れていた。
露店は大繁盛だった。
でも――
「死人は、出なかったらしい」
夕方、ギルドの臨時テントで、リアナからそう聞かされて、カイは息を吐いた。
「何組か、結構ひどい打撲やら捻挫やらはあったみたいですけど。
“戻ってこれなかった”パーティはゼロです」
「よかった……」
ミナが、胸の前で手を合わせる。
「あの迷宮、やっぱりすごいよ」
レオが、迷宮の入り口を見上げて言った。
「これだけ人が入って、みんなボロボロにされてるのに、誰も死んでない。
……誰かが、見ててくれてる気がする」
その言葉に、カイも頷いた。
この迷宮には、“意志”がある。
厳しく、でもどこか優しい、不思議な意志が。
◆迷宮核の間・夜遅く/黒瀬視点(目覚め)
「……ん」
固いような、柔らかいような寝心地から、ゆっくりと意識が浮かんできた。
石の天井。
淡い光。
「ここ……俺の、仮眠室か」
「おはようございます、ご主人」
横で、ナノの光がふよふよと揺れた。
その光は、いつもより少し優しい色をしていた。
「現在、日付が変わる少し前。
“新人育成強化週間”初日、無事終了しました」
「俺、どれくらい寝てた?」
「半日ほどです」
「半日……」
起き上がろうとして、体のあちこちがギシギシ言った。
寝ていただけのはずなのに、変なところが疲れている。
精神的な緊張が解けた反動だろうか。
「夢見、悪かったです?」
「ログに“悪夢”タグいくつかついてましたよ」
「そんなタグつけるな」
文句を言いながらも、心のどこかで、ほっとしている自分がいた。
目が覚めた。
迷宮は崩壊していない。
「……迷宮は?」
「問題なく稼働しました。
死亡者ゼロ、重傷者も許容範囲。
回復部屋のポーション残量はギリギリでしたけど、ロクさんが頑張ってくれました。
リリさんも、暇を持て余しつつも待機してくれてました」
ナノが、少し誇らしげに言う。
「自動運用スクリプトも、想定内の動きでしたよ。
ところどころ微調整は必要ですけど、
“ご主人が一人で全部見る必要はない”ってことは証明できました」
「……そうか」
胸の奥で、何かがすとんと落ちる感覚がした。
(俺が画面に張り付いてなくても、ちゃんと回る)
それは、少しだけ寂しくて。
でも、間違いなく嬉しい事実だった。
俺が作ったシステムが、俺の手を離れて動き始めている。
「ご主人」
ナノが、そっと近づいてくる。
「正直に言うと、
“強制ログアウト”するの、ちょっと怖かったです」
「だろうな」
「でも、ご主人が“任せる”って言ってくれたから、
ボクも“やっていいんだ”って思えました」
「……」
少しの沈黙。
俺は、天井を見上げてから、ゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう。
助かった」
その一言が、こんなに重く、そして温かく感じるとは思わなかった。
「いいえ。
ボク、ああいう時のためにいるので」
ナノは、嬉しそうに光を弾ませる。
「それに――」
「それに?」
「“ご主人が一番長時間働いてる職場”って、やっぱり変だと思うんですよね」
「耳が痛い」
「せっかく“搾取する側になる”って言って転生してきたのに、
自分だけ過労死コースなんて、笑えません」
「……それは、ほんとにそう」
苦笑しながら、ゆっくりと立ち上がる。
「これから先、もっとデカい案件が来るなら、なおさら俺一人じゃ無理だしな」
「はい。
なので、“ちゃんと人と魔物を頼る練習”から始めましょう」
「ブラック経営のくせに、教育がホワイトだな」
「個人的にはホワイトを目指してますので」
言い返せない。
立ち上がって、迷宮核の間へ戻る。
立体モニターには、今日一日のログがぎっしり詰まっていた。
パーティ名。侵入階層。撤退タイミング。
「……みんな、本当にお疲れ様だな」
「まとめて、明日褒めに行きましょう」
「そうするか」
画面をスクロールしていると、ふと、一件の報告ログが目に止まった。
【Cランク冒険者が、新人教育を兼ねてダンジョン攻略の検討中】
ギルド周辺の噂話ログから拾った情報だ。
「“負荷試験に成功したので、次はストレステストをします”ってやつだな、これ」
「はい。
“深層を見たい”人たちが、そろそろ動き始める頃ですね」
ナノが、楽しそうに、そして少しだけ不安そうに笑う。
「ご主人、次の山場に向けて、一言どうぞ」
「……まずは、寝る」
「正解です」
ブラックだのホワイトだの言いつつ――結局、やることは山積みだ。
強敵の予感もある。
でも、今日はもう、“一人で全部抱え込む”のはやめにしよう。
そう決めて、俺はログ画面を閉じ、迷宮核に軽く手を添えた。
「明日も、ちゃんと動けよ。
俺も、ちゃんと働くからさ」
迷宮核が、こくん、と脈打った気がした。
それを勝手に“返事”だと思い込みながら、俺は少しだけ軽くなった足取りで、仮眠室へと引き返した。
――働きたくなる地獄は、今日もギリギリのバランスで、けれど確実に回っている。




