ク魔王との対決
木箱の上に置かれた絵本に、アリシアが呼びかける。
「……クマさん。クマさん。私よ、レティシアよ。中に入れてくれないかしら」
その様子をじいっと見守るフェリス。
絵本は静まりかえったままで、なんの反応もない。
「クマさん、怒っちゃったんでしょうか……」
フェリスは心配になった。もしクマが絵本の世界への扉を開けてくれなかったら、どうなるのだろう。ジャネットは絵本の住人になってしまって、絵の一枚になってしまって、二度と外には出て来られないのではないか……、なんて、不安ばかりが小さな胸に広がっていく。
「……きっと大丈夫よ」
怯えるフェリスの頭を、アリシアはそっと撫でた。フェリスは強大な魔導師だが、十歳の女の子だ。あまり怖がらせるのは可哀想だし、見ているのがつらくなる。
アリシアは諦めずに絵本へ話しかける。
「さっきはごめんなさい。やっと会えたのに、クマさんのことを怖がってしまって。ずいぶん久しぶりだったから、びっくりしてしまったのよ。もう一度会って話したかったけど、学校があるからそろそろ帰らないと。……それじゃ」
アリシアがフェリスの手を引いて、屋根裏部屋から立ち去ろうとしたとき。
『サセナイ……サセナイ……帰ラセセナアアアアアアイッ!!』
地の底から沸き上がるような声が響き渡り、絵本の中から光が溢れた。
物凄い速さでページがめくられ、風が吹き荒れる。
フェリスとアリシアは悲鳴を上げながら抱き締め合い、壮絶な光と共に絵本の中へと吸い込まれた。
「こ、ここは……」
「戻って……来たみたいね」
フェリスとアリシアはお互いに抱き締め合ったまま、辺りを見回した。
それは、二人が絵本の中で最後に見た光景、クマの城の外庭だった。
さっきと違うのは、城の外壁に大きな鳥籠が吊されていて、ジャネットが閉じ込められているということ。その隣では、大きなクマのヌイグルミが仁王立ちしている。
「レティシア! やっぱりレティシアじゃなきゃダメだ! 代わりのレティシアはダメダメだ! 全然おしとやかじゃないし、やけに気が強いし、ボク泣きそうだった!」
それを聞いたジャネットが憤慨する。
「ちょっと! わたくしのどこがおしとやかじゃないと言うんですの!? どこが気が強いんですの!? 訂正なさい!!」
囚われ人とは思えないほどの勢いで足を踏み鳴らし、がっしゃんがっしゃんと鳥籠の柵を揺さぶる。
「ヒイ! ほら気が強いじゃないか! 本物のレティシアはお前なんかとは違うんだ! おしとやかで、おとなしくて、本物のお嬢様なんだ!」
「わたくしのどこがお嬢様じゃないって言いますのーーーーーーっ!? ラインツリッヒの名を侮辱しましたわね!!!!」
「ヒイイイイイイイ!!」
クマは蜂の巣でも抱えるかのようにおっかなびっくり鳥籠を壁から外すと、フェリスとアリシアの方にずいと押し出す。
「こ、こいつは返すよ! どっかやって! ボクにはホントのレティシアが戻ってきてくれたしね!」
「解放されたのは嬉しいですけど、なんだか釈然としませんわ……」
ジャネットはへこんでいた。選ばれるのは嫌だが、選ばれないのも切ない。
「さあ……レティシア。こっちにおいで。ボクとずっとずっとずーっと、永遠に……この世界で暮らそうねえ」
クマが邪悪な笑みを広げ、前肢を差し伸べながらアリシアに近づいてくる。
ずしん、ずしんと、重々しい音と共に地面が揺れる。
「…………っ」
アリシアは体をこわばらせた。
ジャネットを助けるためカースドアイテムの中に乗り込んできたのはいいが、ここは誰よりもアリシアにとって危険な場所である。クマのヌイグルミはアリシアを――レティシアの面影を映す少女を求めているのだから。
「アリシアさん……」
フェリスはアリシアの手からそっと自分の手を離した。
そして、震える足を動かしてアリシアとクマの間に立ちはだかる。
「だ、だめです! アリシアさんは、学校に行かなきゃいけないんです! ジャネットさんと、わたしと一緒に、授業を受けたりごはんを食べたりお買い物に行ったりするんです!」
「はあああああ? そんなの知らないしい。その子はレティシアだしい。ボクはレティシアと幸せに暮らすんだしい。ボクがぜーんぶ決めちゃったしい!」
クマは肩を怒らせ、猛々しい咆哮をほとばしらせた。
あまりの大音声に空気が痙攣し、フェリスたちの体にびりびりと振動が走る。鼓膜が裂けそうになり、フェリスは慌てて耳を手の平で塞いだ。
怖いけど、ここで退いてはいられない。ジャネットやアリシアを失うわけにはいかないし、ここに囚われている人々を置き去りにするわけにもいかないのだ。
フェリスは小さな足を踏ん張って、巨大なクマを見上げる。震える声で訴える。
「わ、わがままはいけないと思います! みんなおうちに帰らなきゃいけないんですから、解放してあげてください! お願いします!」
「うるさい! うるさい! ボクに指図するな! ボクは偉いんだぞ! ボクはこの世界の王様なんだぞ! お前なんて、ボコボコに壊してやるっ!!!!」
クマが左右の前肢を振り上げると、空がぐにゃりと曲がり、真っ赤な隕石となってフェリスに降り注いだ。
流星雨が鳥籠を砕き、中から無我夢中でジャネットが逃げ出してくる。
フェリスが手の平を掲げると、魔法結界が生まれ、少女たち三人を覆った。
クマが大顎を開き、口から紫の瘴気を噴き出す。瘴気は外庭の地面や壁を溶解させながら魔法結界に叩きつけるが、結界はびくともしない。
「くそ! くそくそくそ! なんだよそのバリアーは! どうして破れないんだよ! ここはボクの世界なのにいいっ! そこからどけ! レティシア以外は外に吹き飛ばしてやるからあっ!」
「アリシアさん、わたしから離れないでくださいっ!」
「え、ええ!」
アリシアはフェリスにしがみついた。離ればなれになれば、二度と絵本の世界が開かず、フェリスがアリシアを助けに戻ってくることもできないかもしれないのだ。
「ちょ、ちょっと! なにをフェリスにベタベタしていますの!? ずるいですわ!」
「今はそんなことを言っている場合じゃないわ!」
「どんなときだって場合ですわ! わたくしもぎゅーしますわっ!」
「ふえええええ!?」
ジャネットまで全力でしがみついてくるものだから、フェリスは動きづらくてしょうがない。普段ならアリシアやジャネットに抱き締められるのは大好きなのだが、現状が現状だ。クマの魔法による攻撃は続いているし、ますます激しくなってくる。
「ど、どうしますの? このままじゃ、埒があきませんわよ!?」
「こっちも攻撃するしかないわね。見た目は可愛くても、カースドアイテムはちゃんと倒さないと、いつまでも被害者が増え続けるわ!」
「み、見た目が可愛い……?」
牙剥き出しの巨大な怪物にしか見えない暴走グマを前に、ジャネットは困惑の限りを尽くした。
「やってみます! 『魔素さん、あのクマさんを吹き飛ばしてくださいっ!』」
フェリスはクマに手の平を突き出して命じるが、なにも起こらない。普段ならとんでもない威力の魔法がぶっ放されるはずなのに、うんともすんとも言わない。
「やっぱり……ダメですわね……」
「ダ、ダメじゃないです! ダメじゃダメなんです!」
フェリスは目をつぶり、必死に意識を集中させた。まだ魔素に直接命じる方法を知らなかった頃、複合魔術を操っていたときのように、細かく魔術のイメージを行う。
アリシアやジャネットと一緒に帰るために。そして、囚われの人たちを助けるために。
言霊を練り上げ、意志の力を最大限に込めて唱える。
「雪よ、すべての怒りの鎮圧者たる力よ、闇に轟く焔となりて、彼の敵を討ち祓え――バーティカルホワイト!!」
フェリスの手の平から、小さな雪玉が放出された。
それは小さな小さな、まるでアーモンドの一粒のような雪玉で。
「で、できました! この世界でも魔法使えました!」
「はん! そんな小っちゃな魔法でボクを倒せるわけが――――――!?!?」
雪玉はフェリスの手の平から放たれるや、驚異的な速度で膨張しながらクマの方へと飛んで行く。
空気中に存在する水分が急速に冷凍されて雪玉にくっつき、雪だるまのように膨らみながら突き進む。
「どんなに大きくたって、この世界の王様であるボクを倒せるわけがああああああっ!」
クマが口から炎の塊を噴き出して対抗しようとしたときには。
雪玉は城よりも巨大な代物になってしまっていて……それがクマの上に墜落した。
「ひぎょああああああああああああああ」
ぺしゃんこになるクマ、凄まじい地響き、もうもうと噴き上がる土煙。
とてつもない揺れに倒れそうになり、フェリスとアリシアとジャネットはお互いの体を支え合う。
やがて、揺れが収まり。
「あのう……だいじょぶ、ですか……?」
フェリスは雪玉の下敷きになったクマに、恐る恐る声をかけた。
雪玉の下から顔だけを出しているクマは、目を回して喘ぐ。
「なんなんだ……なんなんだよう、お前はあ……。この世界の法則はボクが操ってるはずなのにぃ……。可愛い格好してるのに、こんなに強いなんてあり得ないよう……」
「勝負、あったみたいね」
アリシアが胸を撫で下ろす。
ジャネットは頬を膨らませてクマを睨んだ。
「さぁて、このクマをどうしてくれようかしら! わたくしのことを『猛獣サーカス一団』って呼んだの、忘れていませんわよね!?」
「そんなこと言ってなあああああいっ!!」
クマは大きな悲鳴を上げた。




