初めての海
青く晴れ渡った空。
水晶を流したような海。
燦然ときらめく砂浜。
海鳥が飛び交い、波の音が砕ける。
「わあーっ、わあーっ、わあーっ! これが……これが、海なんですね!」
馬車から飛び降りたフェリスは、荷物を取り落とすのも構わずに、大きな歓声を上げた。
海という単語は知っていた。教科書の中で、海という概念も学んでいた。
しかし、どんなに言葉を尽くされても、どんな地図でも、この潮騒、潮風、広さ、遠大さを、決して知ることはできなかった。
「ええ、これが海よ」
隣に立って微笑むアリシア。
フェリスは一生懸命尋ねる。
「あのあのっ、この海って、どこまで続いてるんですかっ!?」
「サトア大陸の海岸までよ」
「この水って、どこから来たんですかっ!?」
「雨が降って貯まったのよ」
「なんでこんなにピカピカしてるんですかっ!?」
「太陽の光が反射してるのよ」
「どうしてピチピチ跳ねてるんですかっ!?」
「お魚がいるからよ」
「ふああああああ……海……海、すごいですうううううううう……」
フェリスはいっぱいに見開いた目をきらきら輝かせた。
ジャネットはくすくす笑う。
「フェリスって、本当に海は初めてなんですのね。」
大きくうなずくフェリス。
「はい! ずっと魔石鉱山に住んでましたから、こんなに水がたくさん貯まってるのを見るのは初めてです! 感動ですっ!」
「この海岸は、近くに火山がある影響で、一年中海水浴を楽しめるぐらい温かいんですのよ。リゾート地としても有名ですわ」
「火山って……沖の方でモクモク煙を出してるあれですか? どかーんってなったりしないんですか?」
フェリスは不安を覚えながら、遠くの火口を眺めた。
「大丈夫ですわ。遙かな昔、高名な魔導師が周辺の地脈から魔力を引き込んで火口に封印魔法を施したって言われていますから。いつも煙は出てますけど、本格的な噴火が起きた試しはありませんのよ」
「なるほどおおお……ジャネットさんって、物知りなんですねー!」
フェリスは尊敬の眼差しでジャネットを見上げる。
ジャネットは誇らしげに鼻を突き上げた。
「そ、そうでしょう!? そう、わたくしはなんでも知っているのですわ! 仕方ありませんわね、ここは特別に、この地方に伝わる伝承のすべてをフェリスに語ってさしあげますわ!」
「語り部になるのもいいけど、とりあえず先に着替えてきましょう。日が暮れてしまいそうだわ」
「はいっ! 泳ぐの楽しみですーっ!」
たしなめるアリシア、うきうきと歩き出すフェリス。
「うう……せっかくいいところでしたのに……」
溢れる知識をアピールしようと思っていたジャネットは、しょんぼりしながらフェリスの後を追う。
その途中で、ふとすれ違った人物に目が留まった。
魔術師のローブをまとい、フードを被っている人間。周囲にはリゾート気分で華やかな格好をしている者ばかりなのに、その一人だけが異質で、奇妙な空気を漂わせている。
ジャネットは小走りでフェリスとアリシアの隣に並び、ささやいた。
「なんだか、海になにをしに来たか分からないような変な人がいましたわ」
「変な人?」
「どんな人ですかー?」
「ほら、あの人ですわ」
ジャネットが二人に指差して振り返ったときには。
ローブの魔術師の姿は、いつの間にか消えていた。
「あれ……? おかしいですわね……さっきまでそこにいましたのに」
「ジャネット……大丈夫? 今日は暑いから、あんまり無理をしないでね?」
「おかしな心配は無用ですわ! 本当にそこにいましたのよ! どこに行ったのでしょう……」
ジャネットは首を傾げるばかりだった。
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三人の少女は水着に着替えて砂浜に降り立った。
その姿はまるで天使が下界に降臨したかのようで、海岸の人々の視線は否が応でも集まってしまう。
熱い砂に足の裏を炙られながら、フェリスはアリシアとジャネットを見上げる。
アリシアの水着は、清楚な雰囲気のワンピースタイプ。優雅なフリルがたっぷりとあしらわれていて、いかにも海辺の令嬢といった風体だ。
一方、ジャネットがまとっているのは、大胆なセパレートタイプの水着だ。抜群のプロポーションが惜しげもなく晒され、真っ白な肌が陽光にきらめいている。
そんな二人を見ていると、フェリスはなぜかちょっと胸がどきどきするのを感じた。両手を握り締めて、感嘆の声を漏らす。
「アリシアさんもジャネットさんも、すっっっごく大人っぽいです! 憧れちゃいますっ!」
「憧れ……!? フェリスが、わたくしに憧れ!? そそそそそれはつまり、フェリスがわたくしの屋敷で一生暮らすということですのね!?」
「なにがどうなったらそうなるのよ……?」
動揺するジャネットに、呆れ顔のアリシア。
フェリスは小さくため息をついて、自分の幼い体を見下ろす。
「二人と比べて、わたしはダメダメです……。どうしたら、そんなに大人っぽくなれるんでしょう?」
「フェリスは大人っぽくなんてなる必要はありませんわ! そのままが一番ですわ! むしろ永遠にそのままが最高ですわ!」
「そ、そうでしょうか……」
ジャネットから妙に熱心に主張され、フェリスは首を傾げた。
アリシアは口元に指を添えて小さく笑う。
「永遠にそのままがいいかどうかは別として、一番可愛いのはフェリスだと思うわ。ぎゅってして、さらいたくなっちゃうくらい」
「わわわわわわ……」
そんなことを言われると、恥ずかしくなってしまうフェリスである。熱いほっぺたを感じながら、もじもじと縮こまる。
ジャネットが耳を赤くしながらつぶやく。
「わ、わたくしも、世界一可愛いと思うのは、フェ、フェ、フェ……」
「くしゃみが出そうなんですか?」
フェリスはきょとんとして訊いた。
「ち、違いますわよ!」
「ガマンしないでください。わたし、耳を塞いで待ってますから!」
両方の手の平を耳に押し当て、びくびくして待機するフェリス。
「そこまで大っきなくしゃみはしませんわよ! ラインツリッヒ一族はクシャミも優雅なんですのよ!?」
「それはすごいわね……」
「わたし、聞いてみたいです! 今すぐ聞きたいです!」
「急に言われても困りますわ。次回クシャミをするときは、必ずフェリスに聞かせてさしあげますから……」
なんて言いながら、自分はいったいなんの約束をしているのだろうかと内心で頭を抱えるジャネットである。
しかし、期待に目を輝かせるフェリスを見ていると、必ずやその期待に応えなければならないと思わされる。今晩からいつでもクシャミを出せる練習を欠かさないようにしようと、心に決めるのだった。
「行きましょ、フェリス、ジャネット。あんまりのんびりしてると、海が逃げちゃうわ」
「海って逃げちゃうんですか!? 早く捕まえないとっ!」
「そんなわけありませんわっ!」
アリシアがフェリスの手を取って走り出し、ジャネットがその後を追うようにして駆ける。
フェリスは砂を蹴立てて進みながら、その素足に心地良い感触を覚え、小さな体でいっぱいに陽光を吸い込んでいた。
その三人の前に、同じく三人の男が立ちはだかった。
幾重にも割れた腹筋、赤銅色に日焼けした肌、妙に浮ついた雰囲気の服装。
これまでほとんど見たことのないタイプの人間だったので、フェリスはびくっとしてすくみ上がってしまう。
怯えながらアリシアの腕にしがみついていると、男の一人がアリシアに声をかけてくる。
「ねえねえ君、すっごく綺麗だね。良かったらオレたちと一緒に遊ばない?」
他の男がジャネットに歩み寄る。
「わーお、スタイル最高じゃん! マジ海の天使! マーメイド! オレらと一夏の思い出を、作ろうZE!」
「……………………??」
状況が分からず戸惑うフェリス。
すると、アリシアがため息をついた。
「悪いけど、そういうのは一切お断りよ。私たちは友達でのんびり遊ぶためにここに来たんだから」
ジャネットも顔をしかめる。
「だいたい、あなたたちみたいに下品なタイプと遊びたくなんてありませんわ。わたくしとフェリスの大切な時間を邪魔しないでくださいまし」
「おーおー、こりゃ手厳しいねえ! でもそーゆーとこもイイ! お嬢様って感じじゃん? これはもう恋のアバンチュールやるしかねぇじゃん?」
男たちはぐいぐいと迫ってくる。
フェリスはさらに怯える。
「あ、あの、これって、悪者ですか? 戦わなきゃいけないですか!?」
掲げようとする両手を、アリシアが押し止める。今にも極大の魔術がぶっ放されそうで危うい。
「違うわよ、フェリス。これはナンパ。この人たちは私たちに一時的な交際を申し込んでるの」
「ふええええっ、すごいです! アリシアさんとジャネットさん、『ナンパ?』されてるんですか!? なんかよく分からないですけどっ、すごいですっ! モテモテですっ!」
フェリスは尊敬の眼差しをアリシアとジャネットに送った。
ジャネットは髪を掻き上げて胸を張る。
「ま、まあ? わたくしならこのくらい、日常茶飯事ですけど? 街を歩いていたらナンパをされない日の方が珍しいですけど?」
「ふわーっ、ホントにすごいです~。わたしなんて、一度も『ナンパ』されたことないですよ~」
よく分からないなりにフェリスがちょっとしょげていると、男たちのうちの一人がフェリスに近づいてくる。
「ね、ねえ、ボクは君と遊びたいんだけど、ダメかな? たくさん美味しいモノ食べさせてあげるから、向こうに行かない? ね? ね?」
「ええ!? わたしみたいに小っちゃい子で大丈夫なんですか?」
フェリスが心配すると、男はだらしなく笑う。
「むしろ小っちゃい子が好きというか……へへ」
「分かりました! 行きますっ!」
「フェリス!?」「フェリス!?」
アリシアとジャネットが二人して肩を跳ねさせた。
ジャネットは瞬時にフェリスの手を掴み、その場から猛スピードで離脱する。アリシアもしんがりを守るようにして走る。
「わわっ、ジャネットさん!? どうして逃げるんですか!?」
「あんなのについていっちゃダメだからですわ!」
「でもっ、美味しいモノ食べさせてくれるって言ってましたし……」
「美味しいモノくらいに釣られちゃいけないのよ!」
とアリシア。
「小さな子が好きだって言ってましたし、子供好きの良い人だって思いますけど……」
「断じて違いますわ!」
「ち、違うんですか?」
「ああもうっ、おバカなフェリスはわたくしが全力で守りますわーーーー!!」
なぜジャネットが必死になっているか、フェリスには分からなかったけれど。その手に引かれているのは、絶対に迷子にならないような安心感があって、素敵だった。
水の音、人のさざめき。
人垣の果てに、碧い海が待っている。
全身がポカポカするのを心地良く感じながら、フェリスは波打ち際に向かってジャネットやアリシアと一緒に走った。




