進軍前夜
前哨戦であるリール・マルタ砦攻防戦から数日経過し、帝国に向けた本格攻勢が始まる前日。
王都の各地で壮行会が開かれる中、城内の蔵書室を訪れたのだが……。
見知った顔を見つけた私は、声をかけるかどうか一瞬迷った。
だが無視する形になるのもどうかと思い、その人物の近くで足を止める。
「カイさん」
「お嬢。妙なところで会いますね」
棚にもたれ、片手で小さめの本を読んでいたカイさんが顔を上げる。
ジャンルは……意外だ、少し古めの冒険活劇物っぽい。
妙なところでと言う割に、彼に驚いた様子はあまりない。
読書の邪魔をしてしまったかな?
「今更ですけど。そのお嬢って呼び方、よしませんか……?」
足音と気配で気がついていたんじゃないかなぁ、カイさん。
サメ獣人であるカイさんの表情は、室内の薄暗さもあって読み取りづらい。
「カイさんは壮行会に出ないのですか?」
思い返してみると、最初から壮行会にカイさんの姿は見えなかった。
私は部隊長である都合から、不参加というわけにはいかなかったのだが。
「リクさんとクーさんが寂しそうにしていましたよ」
「ああいう場は苦手なんです。そういうお嬢こそ、抜け出していいんですかい? 部隊員全員が寂しがりますよ」
うっ、切れ味のいいカウンター。
自分がそういう席で、過剰なまでにみんなから求められているのは知っているつもりだが……。
アカネにもらったこの容姿が故とわかっているので、なんだか気が引ける。
男の姿で転生していたなら、混ざってどんちゃん騒ぎに興じてもよかったのだが。
前世の何倍も他人の評価や視線が気になるんだよなぁ、不思議と。
「くっくっ……ま、ゆっくりしていってください。見ての通り、ここは静かですから。多少は落ち着けますよ、お嬢」
「助かります……」
忍び笑いこそ漏らしたものの、カイさんはそれ以上追及してこない。
さすが、リクさんクーさんの兄貴分。
それに私とて、蔵書室にまるっきり用事がないというわけでもない。
ええと、確かこの辺りに――あ、あった。
「……歴史書、ですか?」
目当ての本は、カイさんが立つ棚の近くで見つかった。
城内の蔵書室なので、隠匿する必要のなくなった古い交渉記録なども残っている。
それらもいくつか、ピックアップ。
「ええ。今更ではありますが、迷いを振り払うために……」
ここに記されているのはダオ帝国とガルシア王国、そして周辺三国の歴史。
迫害、侵略、追放……。
そこからの独立、抗戦、和平に向けた試み。
帝国と四国同盟の国力が釣り合うようになった近年は、戦争回避に向けて心を砕いた人々がいる。
本当なら、初陣前に済ませておくべき行為だったと思う。
「もう少し、色々なことを知っておきたいと思うのです。戦争が避けられなくなった経緯、帝国とバアル教の関係。他にも――」
「お嬢。考え過ぎです」
「えっ? わわっ!」
穏やかな中にも鋭さを感じるカイさんの声に、言葉を遮られる。
私は近くで積み上がっていた本を崩しそうになり、慌てて体勢を立て直す。
「もっと言うなら、一人で抱え込み過ぎです」
自分が読んでいた本を片付け、本格的に話す体勢に入るカイさん。
私の状態に危機感があるのか、真剣な様子だ。
カイさんの様子を見て、私も棚から取り出した本を近場のテーブルの上に置く。
「お嬢。戦う意味にお悩みで? 迷いがおありで?」
「あ、はい。大体そんな感じで……」
「そうですか。ですが、そんなことを考えるのは偉い人に任せておけばいい。俺らは兵士だ」
兵士は迷いなく戦えばそれでいい、と言うカイさん。
すっぱり割り切った考えだ……過酷な環境で生きてきた、カイさんらしい。
おそらく兵士としては、カイさんが圧倒的に正しい。
正しいと思うのだが……。
私の複雑そうな顔を見て、カイさんは思案するように一呼吸。
「……お嬢。王国の姫様――失礼。女王陛下のことはどう思っていますか?」
「敬愛しています」
「近衛騎士としての立場を抜きにしたら?」
「愛らしい人ですからね。言葉を飾らないのであれば、なるべく傍で支えていきたいと……」
姫様のことは、純粋に好きだ。
この世界で最初に出会ったのが彼女だったなら、なにも考えず全てを賭して戦ったかもしれない。
そして、そういう兵士がこの国には大勢いる。
……実際、怖いくらいに士気は高い。
カイさんが肩をすくめる。
「そういう人が上にいるのだから、そう悩まなくてもいいんじゃないですかね? 分担作業ですよ、分担作業。女王陛下が考え、お嬢は戦う。それじゃいけないので?」
「それは……そうかもしれませんが……」
ただ、私はアカネの体を借りてこの世界に来て、爺様に拾われた。
そしてニールさんが迎えに来て、フィーナさんに会って……。
王都に来てからは、数え切れない人のお世話になった。
そういう人たちの顔を思い浮かべると、思考停止でいいのか? 自分はなにも考えなくていいのか? という気になる。どうしても。怠慢ではないのか? と。
もちろん、自分の頭がそれほどよくないのはわかっているのだが。
「お嬢は優しいですね。ま、これはあくまで俺の意見……ってことで、提案だ。こういうのはどうです?」
「?」
水かきのついた指を、一本立てるカイさん。
剣だこ、傷跡などのついた硬そうな戦士の手だ。
「姫様が悩んでいる時は、お嬢が助ける。そんでお嬢が抱えきれなくなった時は、フィーの姉御や、ニールの旦那に頼る。これでどうです?」
「!」
ひどく柔軟で、甘くて、そして私好みの意見だった。
カイさんは戦闘狂を気取っておきながら、頭がいい。気遣いもできる。
私とは大違いだ。
まるで霧が晴れるように、ここしばらく抱えていた悩みが溶けていく。
「つまり、自分の頭だけで考える必要はない? ええと……困ったときは、みんなで考えよう……ってことでしょうか?」
「はっ。そうですね、言葉を飾らないなら」
「あっ……ふふっ」
先程、私が使った言葉を返されてしまった。
そういえば、こうしてカイさん一人とゆっくり話すのは初めてかもしれないな。
怖いイメージが先行していたけれど、カイさん……とても魅力的な内面をしている。
楽しい、話していてとても楽しい。
「お嬢。それでも、どうしても戦場で迷ってしまった時は……後ろを見てください」
「後ろを?」
「本当に後ろを見ろ、という意味ではありやせんよ? 自分が戦うことで、誰を守れるのか。己が死したときに、誰に累が及ぶのか。それを思い出すだけでいい」
「なるほど……」
「もっとも、俺ぁ戦いの最中にそんなことは考えませんが。お嬢の性格には合うはずだ。違いますかい?」
「違いませんね……」
カイさんの的確な分析に、ぐうの音も出ない。
ライオルさんもそうだったが、こういう人の前に立つと、自分の戦士としての心構えは二流三流だと感じる。
……ふてくされても仕方ないので、話を聞いてしっかり吸収させてもらうけれど。
「こいつぁ俺の持論ですが。後ろってのは今言った通りですが……横に誰かがいてくれるやつは、戦士として割と恵まれていると思いますね」
「横……戦友のことと解釈しても?」
「ご自由に。そんで、戦う自分よりも更に前に誰かがいてくれるやつは、それだけでもう幸福だ。戦士としての誉れを手にしていると言ってもいい」
「前……?」
前というと、先人のことだろうか?
私にとっての爺様のような。
それとも部隊長? 戦団長? 姫様のような人だろうか?
カイさんは私の疑問に答えることなく、肩をすくめた。
「ま、ともかくお嬢。もう戦いまでは間がない。ここで聞いたことは俺の胸の内にしまっておくんで、他のやつらには――」
「わかっています」
カイさんが感じていた危機感の理由は、ここにある。
仮に私が部下だったとしても、こんなに迷いのある指揮官の下で戦うのは不安だ。
……私はダメなやつだな、本当に。
「戦場での迷いは命取りです。自分だけでなく、一緒に戦う仲間も危ない」
悩みが完全に消えたわけではない。
この戦いが正しいかどうかの答えなんて、きっと出ない。
けれど、戦わなければ国が亡ぶ。
カイさんが教えてくれた、後ろにいる――大事な人たちがいなくなってしまう。
それだけは確かだ。
「ま、こっから先は大戦だ。血を見過ぎて剣が鈍った時は、俺に命じてください。優しいお嬢に代わって、敵を全て喰らってやりますよ」
私の表情を見て頷くと、カイさんは戦う際に見せる歪んだ笑みを浮かべた。
彼が血を好むようになった経緯はわからない。
わからないが……。
「……ありがとうございます、カイさん。カイさん、私なんかよりずっと優しいじゃないですか」
「は? どこがですか? 俺は血を見たいだけですよ」
「優しいですよ」
彼が先頭に立って戦うことで、リクさんとクーさんを守ってきたことは理解できた。
私の戦士としての理想像は、もしかしたら……。
「……歴史書はやめます。なにかおすすめの本、ありませんか? 娯楽系のやつで」
「俺の読書は趣味なんて高尚なもんじゃなく、暇つぶしの範疇ですが……それでもいいので?」
「はい、それでも。お願いします」
なんとなく、カイさんが選ぶ本にハズレはない……不思議と、そんな気がした。




