剣術指南
「はぁ……はぁ……」
「あの、殿下」
「何だい? ……カティア」
顔を上げて私に問い掛けて来る殿下。
殿下の身長は私より少し低く、百六十センチ半ばといったところ。
男としては低めだが年齢は十五歳なので、まだ伸びる可能性はある。
本人が身長を必要としているかは分からないが。
そんな殿下が息を切らせているのは運動を開始して暫く経過したから――ではない。
「どうして歩いているだけで息が上がっておられるんですか……」
「言っただろう? はぁ、ふうっ、体力がないと」
実はまだ、中庭に到着してすらいない。
書庫を出て廊下を進み、階段を降りただけだ。
予想以上に酷い体力……。
「む。今、呆れた顔をしただろう?」
「気のせいです」
しかも、聡いから迂闊に顔に出せない。
歩みの遅い殿下に合わせてゆっくり歩いて行くと、すれ違う兵士がギョッとした顔をしてから慌てて殿下に敬礼した。
何だ?
中庭に着くと、アカネと意外な人物がお喋りに興じていた。
「――から数年を経ても、それを忘れられなかったのであろうな。ティムが他の女に靡くことは無く……当時の周囲の者は、剣聖にまで昇りつめた男の優秀な血を残さんと、あれこれ画策したものであるが」
「スパイクおじいちゃんは何かしてあげなかったの?」
「近しい者ほど、二人の仲がどんなものか知っておったのでな。余とて、あのままで良いとは思わなんだが……不甲斐なくも、時間が癒してくれることを願う他なかった。結局、頑なにティムは独り身のままであったよ」
「そっか……」
「幼い子に何の話をしていらっしゃるんです? 御爺様」
スパイクさんが、アカネに昔話のようなものを話して聞かせている。
テーブルセットを中庭に持ち込み、執事さんが後ろに控えている。
二人はそこに腰掛けて話し込んでいた。
カリル殿下が声を掛けると、スパイクさんが顔をこちらに向ける。
「おお、カリル。そちを屋外で見たのは何時ぶりであるか?」
「大袈裟ですね。父上の葬儀の時には外に出ましたよ? ……日差しが眩しいですね」
……アラン様の崩御ってもう数ヶ月前なんだが。
その間、一度も外に出ていないのか?
それは体調も崩すわ。
「いやなに、アカネがどうしてティムは独り身なのかと聞くのでな……昔話に付き合って貰っていたのだ。カティア、其方は仔細を知っておるか?」
「酔った時に少しだけ。どうも口が滑ったような様子でしたが……。爺さまが元は戦災孤児で、出世した後に唯一愛した女性も、戦争が原因で失ったとか。それ以上は深く聞けませんでしたが」
「ふむ。では一つだけ教えておこう。仮定の話が許されるのなら……ティムは余の義弟になっていたかもしれん男だ」
義弟? それって……。
私が憶測を口にしようとすると、スパイクさんが片目を閉じてニッと笑う。
それ以上は言うな、ということらしい。
「続きは故郷に帰ってからティム本人に聞くがよい。カティア……其方にはリリを任せてはいるが、己の命も大事にして貰いたい。矛盾しているようだが、余はティムの悲しむ顔は見たく無いのでな」
「身に余る御言葉です、スパイク様。身命を賭して――では、お言葉に背いてしまいますね。全身全霊を以って任務にあたります」
「うむ、それで結構。城内で見られる美女が減るのは余も悲しいのでな。はっはっはっ!」
陽気に笑うスパイクさんを、カリル殿下が蔑んだような目で見る。
「下品ですよ御爺様。亡くなった御婆様が聞いたらどんな顔をなされるか」
「何を言うかカリル。美女を愛で、花を愛で、親しい友と酒を酌み交わすが長生きの秘訣ぞ。アレも、余の豪気な所に惚れたと生前はだな――」
「分かりませんね。上に立つ者がそう節度の無い発言をなさっては、王家全体の品性が疑われます」
「考え方が若いな……しかし、内心で似た様な思いを抱いていれば同じことでは無いか? ん? カリル。一つ問うが、何故先程からカティアの姿を直視しない?」
それはさっきから気になっていた。
何故か目を逸らすんだよな、殿下。
こちらが話をしている時にも目を合わせようとすると、目が左右に泳いでいく。
「何故って、女性をじっと見るなんて失礼でしょう?」
「え? そんなことはありませんよ。舐め回すような視線ならともかく、相手の顔も見ない方が人によっては嫌がるかと」
私がそうだし。
嫌われているのかと、少し寂しい気持ちになる。
殿下は思ってもいなかったという様子で、目を見開いた。
どうやら悪意は無かったらしい。
「そ、そうなのか?」
「ほれ。カティアの許可も出たことであるし、篤と見るがよい」
「む……」
スパイクさんに促され、殿下がこちらをじっと見る。
鳶色の瞳に自分の赤い影が映り込む。
しかし、その赤色が広がっていくかのように顔が徐々に赤くなり――結局、目を逸らされてしまった。
「ハハハハハ! 素直に言うがよい! 色香に照れて直視出来ないとな!」
「くっ……」
「いろか? お姉ちゃん、エロエロなの?」
エロくないやい、普通だよ。
きっと、単に私の様なタイプを見慣れていないだけだよ。
――殿下は頭の回転は速いのに、結構やり込められることが多いな。
経験が足りないってことなのかな……知識ばかりで。
私にも言いくるめられて此処に連れ出されたし、スパイクさんにも好き勝手にからかわれている。
簡単に言うと、駆け引きが下手。
「しかし、リリ姫様ほどの美人が近くに居るのですから、カリル殿下は目が肥えてらっしゃるんじゃありませんか? 私などを見れないという事はないでしょう?」
「身内と他人とでは違うものだよ、カティア……。一つ訊きたいんだが、君は自分の容姿をどの程度のものだと思っているんだい?」
「最近は褒められることが多いので、少しだけ自信が付いてきました。見れないレベルでは無いのかな、と」
「本気かい? ……本気のようだね。正しくない自己評価は取り返しのつかない事態を招くよ。例えば、余りに無防備だと強引に男に迫られたり――」
「?」
「いや、無いか。実際に強さを目にした訳ではないが、称号持ちな訳だから相手も命懸けだ。異様にガードが堅い女性二人も近くに居るようだし……」
「???」
「だから自覚する機会が無いのか……しかし僕の口から直接言うのは憚られるし……」
殿下の最後の方の発言は呟きというか、何かを確認するような独り言というか。
早口で上手く聞き取れない。
殿下はややあって嘆息すると、私を指差してこう言い放った。
「面倒だなっ、君は!」
「ええっ!?」
面倒な奴認定された。
別段腹は立たないが、何だか納得いかない……。
「それよりも、そろそろ始めないかい? 悪いけど、立っているだけで疲労感が襲ってくるんだ」
「あ、はい。そうですね。といっても、私がお教えできるのは――」
「剣くらいなもの、だろう? 分かっているさ。王族とて、自衛の手段くらいは持たないといけない。以前に居た僕の指南役よりは上手く教えてくれると期待しているよ」
まあ、当然そうなる。
何をするのかを予想していたのか、スパイクさんの傍に立っていた執事さんが木剣を差し出してくれる。
少し待って頂いて、訓練場まで取りに行くつもりだったのだが……用意が良いな。
どうして木剣が必要だと分かったのだろう? ――って。
「ダグザ……さん?」
「お久しぶりです、カティア殿。息子がお世話になっております」
情報部長であり、ミディールさんの父親であるダグザさんだ。
スパイクさんと良く一緒に居るので考えてみれば当然なのだが、何故か何度会っても直ぐに彼だと認識出来ない。
何か印象を操作する技術でも使っているのだろうか?
「ダグザか。相変わらず近付くまでお前だと気付けないな」
「殿下が体を鍛える気になったと聞いて、私も嬉しく思います」
「乗せられたとはいえ、嘘を吐く気は無いからね、仕方ないさ。……それよりも、一つ思いついたことがあるんだが」
「何です?」
殿下がダグザさんに耳打ちを始める。
アカネが盗み聞こうと忍び寄るが……ダグザさんに気付かれて距離を取られた。
唇を尖らせてアカネが戻ってくる。
私はポンとその頭に手を乗せると、聞こえて来る会話に耳を傾けた。
途中から声のボリュームが上がったので、そこからは聞かれても構わない話のようだ。
「……左様ですか。騎士の正装としてはおかしいですが」
「キョウカも同じ様にすれば拒否できまい。それに――面白いとは思わないか?」
「確かに。ミディールも喜ぶでしょう」
「ん? お前の息子は、そうなのかい?」
「はい。惚れております」
「そ、そうか。彼女の魅力を考えれば分からないでもない。そういった自覚を促す意味でも、良いのではないかな。行き過ぎて傲慢になるということも、話した印象から思えば無いだろうし」
「ええ、承りました。例え只の殿下の意趣返しだとしても、先程スパイク様に下品と仰った割にそれは良いのか? などと私が思ったとしても――従うのが臣下の務め」
「……。そこは僕の顔を立てて、黙って了承するという選択肢は無かったのかい? だがまあ、そういうことで」
立場が近しい故か、気が置けない様子の二人だ。
何について話しているのかは判然としないが。
話が終わったのか、殿下がこちらに向き直る。
近付いてきて私の手から木剣を受け取った。
「見物人の視線が気になるけど……帰る気はなさそうだから仕方ないね。で、まずはどうすればいい?」
「殿下の今の力量を拝見してから考えます。私に打ち込んで来てください」
「いいのかい?」
「但し、準備運動はきちんとして下さいね? 間違っても、急に全力で動かれないように」
「うん。少し待ってくれ」
のっそりと、老人のような動きで準備運動を始めるカリル殿下。
体、固いな……怪我をしないか心配だ。
パキパキとあちこちの関節が音を立て、その度に顔を顰めている。
異常に遅い準備運動を終え、殿下が取った剣の構えは基本的なものだ。
右手で持つレイピア用の構えで、私の喉に向かって剣を、左手は自身の顔の横に立てる。
「何処からでもどうぞ」
「了解……せいっ!」
カンカンと、木剣同士がぶつかる音が響く。
カリル殿下の剣に勢いは全くないが……筋は悪くない。
基本に忠実で、癖のついていない素直な突きだ。
「はぁ、はぁ……もう、いいかな……? カティア」
「あ、バテましたか?」
「息が……はっ、ふっ、しかも全く手応えがない……げほっ!」
うん、何となく現状は分かった。
殿下の体力に合わせて、以前居たという剣術指南役はレイピア用の訓練をしたらしい。
確かに他の剣よりもレイピアは軽いんだが……このままレイピア用の剣を学んでも殿下の為にはならないか。
主な目的は殿下の体力の向上、剣技はおまけで身に付けばいいな、という感じだ。
付け焼刃ではなく、長い目で見て成果が上がるような――それでいて、鍛えるのが楽しいと思って貰わなくてはならない。
結構難しいな……。
私は少し考えた末、一つの方策を思い付いた。
「ダグザさん。大きめの木剣ってありますか?」
「大小長短、一通りの物を用意してございます」
「さすがですね。それを殿下に」
「ちょっと待ってくれ、カティア。僕にそんな大きな剣が扱える訳がないだろう?」
「物は試しです、殿下。心配しなくても、楽に振れる方法をお教えしますよ」
「楽に?」
取り敢えず最も重く大きい木剣を持たせた上で、構えを取らせる。
剣は担ぐように肩の上へ。
左手はフリーで、振り下ろす際に両手持ちへ移行させる。
剣の重みを利用して振り下ろさせるように、何度か動きを憶えるまで補助しながら反復して振って貰う。
最初は重みで体が泳いでも、いっそ振り終わりで剣を放しても構わないので、剣を自分の体にぶつけないようにと注意を促しておく。
「では、今の要領でもう一度私に攻撃を」
「う、うむ。行くぞ」
殿下が軽く腰を落とし、右足を踏み込んで剣を振り下ろす。
型は教えた通りに綺麗で真っ直ぐだ。
重さに任せて勢いの乗った剣が、袈裟斬りに向かってくる。
防御の為に剣を構え――少しだけ殿下の剣を押し返す様に、最も剣に威力が乗る位置で受ける。
カーンッ!
乾いた音が中庭に響いた。
「む?」
「殿下、良い感じです! もう一度!」
「お、応!」
カリル殿下が再び肩に剣を担ぎ直し、私に向かって振り下ろす。
その度に、木剣同士から澄んだ打撃音が鳴らされる。
「ほう、巧いなカティアは。ティムの弟子なだけはある」
「どういうこと? スパイクおじいちゃん」
「カティアはカリルの剣に合わせて最も相手にとっていい位置に自分の剣を持ってきている。あれだけの力強い音と、手に跳ね返る適度な重い感触――打ち込む側からすればさぞ気持ちが良いことであろうよ」
「へー」
スパイクさんは気付いたか。
出来ればその情報はカリル殿下のお耳に入れたくないのだけど。
殿下は二人の会話を聞いて……無いな。
気が付けばカリル殿下の口元は笑み、最初に教えた型など気にしないかのように縦横無尽に剣を振り回し始めている。
あれだけ動くのが億劫だと言っていたのが嘘のように躍動している。
楽な型ではなく、自分なりの最適解を探る様に――
「っは、楽しい……! 剣は、楽しい……ものなのだな、はっ、カティア!」
「殿下にそう言って頂けると嬉しいです」
剣を打ち込み、相手がそれを跳ね返してくる。
言葉にすればただそれだけだが、剣が鳴らす音が、返る手応えが己の斬撃の質を一つ一つ採点してくれる。
そして湧き上がる、もっと上手くやれるのでは? という欲求。
そこが剣士としてのスタートラインだ……と、私は思っている。
「ははっ! はぁ、はぁ……でも……僕はもう、げ、限界みたいだ」
「殿下!?」
突然カリル殿下の膝ががくりと落ち、木剣を取り落とした。
私は慌てて体を支える為に駆け寄った。
足りない酸素を求めるように胸が激しく上下している。
「ぜぇっ、ぜぇっ……出来れば、また剣を教えてくれると嬉しい……」
「は、はい! 喜んで!」
「ふふ……僕にもこんな一面があったんだな……疲れも、何処か心地良い……」
フラフラになった殿下を、スパイクさんの対面の椅子へと座らせた。
ちょっと調子に乗って無理をさせ過ぎてしまったかな……?
でも……上手くいった、よね?
「うむうむ、見事。こんなに楽しそうなカリルを見たのは久しぶりであるな。ではカティアよ、本日からカリルの剣術指南役を命ずる」
「はい?」
「今後も教えるのであろう? で、あるのなら正当な報酬は支払わねばな。日時の調整は情報部か騎士団長のアイゼンにやらせる故、どうか宜しく頼む」
「……はい。謹んで拝命致します」
「お姉ちゃん忙しいねー。いつ休むの?」
私に聞かれても。
ただ、前世がああだったから必要とされるとつい嬉しくなっちゃうんだよな。
剣術指南役か……自分が人に何かを教えられる立場になるなんて、夢にも思わなかった。




