第弐拾弐話 弟娣子の目的
いつもの俺の執務室。
大窓の外では日に日に強くなる日差しがまだ午前中だというのに水路に湛えられた水を僅かずつながら蒸発させ、王都グレンカイナ全域をどこかけだるげな陽炎に包もうとしている。
これが昼下がりともなれば揺らめく陽炎は強くなり、王都全域に張り巡らされた水路の水面で乱反射する陽光と相まって、どこが幻想的な風景に王都は包まれる。
確かに人はいる。
そこかしこで働いて水路を渡り、陽気に笑い、または怒声を発してもいる。
だけどみんな色付きの影法師……というのも妙な表現だが、輪郭や表情、影までも曖昧になって、まるで一枚の騙し絵が大窓の向こうに在るような錯覚を得る。
まるでお伽噺に聞く『幻の都』のごとく、音はしているのに音が消えたような、そこに在るのに存在していないような、不思議な光景。
あっけらかんと明るい陽光の下で、どこか偽物みたいな非現実感を纏う夏待ちの街。
それは夜の帳が下り、灯が燈った『夜街』としての貌とはまた違う、王都グレンカイナが持つ多くの貌のひとつなのだ。
街で汗する連中にとっては暑いわ、その上湿度は高いわで不快指数がとんでもないことになっているのだろうが、魔法で適温に保たれた俺の執務室から見るその風景を俺は嫌いじゃない。
そんな夏待ち月も深まった日の午前、俺は執務机に坐し、今日も今日とて昼仕事に精を出そうとしているわけなんだが……
「おい、弟娣子殿」
先日師匠、もとい所有者から一方的に預けられた我が『弟娣子』殿のお陰でまったく書類仕事に集中できない。
「名前で呼んで」
その巨躯をのっそりと俺の椅子の背後に横たえ、その巨大な咢をわずかに開いて可愛らしい声で我が弟娣子殿は名前で呼ぶことを所望される。
そのギャップたるや、可愛いマスコット小動物がまるで魔王のような威厳あふれる声で語り出すのと正面から戦えるほどのものだ。
正直慣れない。
しかし、なんとなくの思いつきでつけた名をずいぶんと気に入ったものだ。
「――リン」
師匠に着けてもらったという、その巨躯と溢れる存在感、というか威厳というか恐怖の具現化みたいな『魔獣』には似つかわしくない首元の銀鈴。
それが動くたびにりんりんと鳴るので、とりあえず安易に『リン』と名付けてみたのだ。
名を聞くと
「僕は銀狼。名前はまだない」
などと、お前は大文豪の作品の主人公かと言いたくなる答えが返ってきたので、とりあえずではあっても名付ける必要を感じたのだ。
いいかげん過ぎて怒るかと思ったが、何やら大層気に入った様子で、それ以来その名でよばねば「名前で呼んで」以外の返事をしなくなった。
いいのかね、こんな割りといい加減な命名で。
まあ涼やかな響きだし、これから暑くなる季節にはちょうどいいかもしれないが。
冬になったからといって改名するつもりはない、念のため。
そんなことをすれば、気に入っているらしいリンに齧られかねない気もするしな。
「なに? 兄様」
その名で呼ぶと俺など一咬みで絶命させられるであろう巨大な咢を支える喉を、嬉しそうにごろごろ鳴らしながら返事をする。
狼はイヌ科だと思うんだが、なんか猫みたいな仕草だな。
いや尻尾をわっさわっさ振ってもいるので犬で正しいのか。
よくわからない。
こっちの世界の『銀狼』とやらが俺の知識にある狼と一致しているかどうかははなはだ心許無い限りだが、そもそも『魔獣』、それもユニーク種らしいとくればイヌ科もネコ科もへったくれもないのかもしれない。
あっちでは『狼』の『魔獣』とくれば、大物が結構揃っている。
みんな大好き『フェンリル』にはじまり、太陽を呑む『スコール』、月を呑む『ハティ』、または『冥府の女神』の別名であったり、俺の国では狼=大神なんていうのもあったな。
『一匹狼』なんて言葉があるかと思えば、それに反して『千疋狼』などという言葉もあり、群れで襲う存在であるともみられていたりする。
実際の狼はそうらしいと聞くが、当然俺はあくまでも知識として知っているに過ぎない。
本物の狼の群れなど見たことは無いし、そんな経験をする生活は正直ぞっとしない。
――『送り狼』ってやつは、胡蝶の夢のお客様としてはちょいと捨て置けない存在ではあるな。
まああっちでの『狼』を基礎とした魔獣の伝承が我が弟娣子殿に当てはまるかどうかは不明だが、師匠が弟子にしたからには大層な『力』を持っていることは確かだろう。
最初の弟子が俺なのでいまいち説得力に欠けるが、不肖の兄弟子ですまんな弟娣子。
俺を兄弟子として扱っているとお前さんも侮られかねないな、それだけの戦闘に特化した『力』を持っているのに。
本気モードのルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢には文字通り尻尾を巻いていたが、あれは相手が悪いと言える。
三人とも我が弟娣子殿が「キャン」いうくらい本気モードだったしな。
あれは怖いわ、うん。
とはいうものの、『銀狼』――我が弟娣子がそこらの冒険者や魔法使いが何人か集まった程度ではどうにもならないくらいの、文字通り化け物であることは確かだ。
その恐ろしくも可愛らしい『本当の姿』とは違い、俺の目にもう一人映るリンの姿は本当に可愛らしい、というか可憐なものだ。
小汚い旅装だった服は高級娼館『胡蝶の夢』で働く『禿』――嬢付の幼女たち――といっても何の違和感もない可愛らしいものに変わっている。
いや胡蝶の夢に『禿』はいないけどな。
リンがこの姿で胡蝶の夢の店内をうろちょろしはじめたら、こっちでもそういうのが定着するかもしれないが……出来るなら子供を娼館で育てたくはない。
そうするしかない状況ってものがあることは、理解してはいるのだが。
おそらく師匠、おっと所有者の御手製『魔法具』は本人の体調や機嫌によってその見せかたを変えるのだろう。
リンがその目で見た服や髪型、化粧なども影響するようだ。
明らかに胡蝶の夢に来てから衣装や髪型の種類が変わった、というか爆発的に増えた。
毎日変わるのが面白いが、その気になれば一瞬で『変身』できそうで一度見せてもらいたいものだと思う。
一度厚化粧みたいな状況になっていて、こらえきれず笑ったら一日中巨大な尻尾で定期的に叩かれたので、やはり女性はジャリであろうが魔獣であろうが取り扱いに細心の注意を払わねばならないことを改めて学んだ。
俺の『ユニーク魔法』で万全の体調を取り戻したリンの本当の姿は、今や毛並みもつやつやの神々しい魔獣……妙な表現だがそんな感じになっている。
胡蝶の夢へ来たときにやつれて見えていたのは、肉体的なものというよりも、魔力的な枯渇が一番堪えていたようだ。
そのへんも俺の『ユニーク魔法』は問題にしない。
リンが俺になついているような言動をするのも、ルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢を『格上』と見做して服従していると同時に、俺の『ユニーク魔法』をいたく気に入ったからだというのは嘘偽りなく本当だろう。
……魔法かけるとき、この巨体で腹を晒して尻尾わっさわっさ振るものな。
デカかろうが、魔力を持っていようが、人語を解そうが、やはり本能には逆らえないものらしい。
胡蝶の夢の嬢たちもあんな風に腹晒してわかりやすく懐いてくれたら……いろいろ困ったことになりそうなのでそれはちょっと遠慮したほうが無難か。
あの三人がリンのように腹晒して懐いた仕草を見せているところを想像してちょっと笑った……それ以上にくるものがあったのでその妄想は中断する。
――人工的賢者モードを偶にぶち抜いてくるこの感覚はなんと名付ければいいものかね。
しかし日頃便利に使っている俺の『ユニーク魔法』が『魔獣』であるリンにも使えるとは少々驚いた。
いやリンの形がこうだからそう思ってしまうだけで、ルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢に使えている時点でそりゃそうかってなものか。
なんにせよ所有者の『魔法具』が見せるリンの姿は、今は可憐な少女になっている。
サラサラになった銀髪はルナマリアのそれと対を成すような光を放っているし、斑の金の瞳は無表情ながら強い光を讃えている。
白磁の肌は本当に陶器のようで、指先で弾くとピィンという澄んだ音を鳴らしそうだ。
表情はほぼ無表情で瞳が少し変化するだけ。声は可愛らしいが常に落ち着いている。
わっさわっさ振っている『本当の姿』の尻尾が、一本ぴんと伸びたアホ毛に連動しているのは所有者の冗談か何かなのかね?
無表情であっても、そのアホ毛の動きを見ていれば大体の機嫌がわかるというのは便利ではあるのだろうが、『本当の姿』が見えている俺にはあまり意味がない。
機嫌よさそうにしているのはわかるが、怖いものは怖いのだ。
「正直、背後に寝そべられると怖いんだが」
カッコつけても始まらないので、正直に伝える。
しかしこれ、一部の例外を除いて俺の執務室に入った店員連中には俺の椅子の斜め後ろにちょこんと美少女が立っているように見えるだけだろうから、何にビビってるんだってなものだろうな。
暗黙の了解で最近張り付いている『暗部』の連中は緊張しているようだから正体が見えているのだろう。
俺の執務室に巨大な『魔獣』が寝そべっているのだから、緊張するなという方が無理というものだ。
あの三人と違って、所有者はリンの正体をある程度力を持つの者たちに対して本気で秘匿する気はあまりないようだ。
街に出て騒ぎを起こさぬ程度でいいと思っているのだろうけど、グレン王国王都グレンカイナともなればリンの正体が見える人間は結構いるだろうから、要らん騒ぎが起きかねないのだが……
そのあたりも含めて胡蝶の夢へ送り込んだってことだろうけどな。
そのへんもきちんと世話しなさいってことだ、はいはい解りましたとも。
でも怖いものは怖い。
「嘘。兄様が僕を怖がるなんてありえない」
少女の幻影は無表情のまま、本体は尻尾をより大きく振ってリンが即答した。
いや、当の本人が怖いと言っている訳ですが、それは……。
「いやリンさんや、そうは言うけどお前……」
兄弟子と弟娣子っていうのはまあいい、わかった。
所有者の仰ることに異を唱えるつもりもないし、いいつけには従いますよ。
だけど我が弟娣子殿とそういう信頼関係を築けるほどの時間を過ごしてもいないし、そういう儀式を経てもいない。
俺はよく言えば用心深い、そのまんま言えばヘタレなので信頼関係が無い相手はたとえ無力な子供でも『鍵の内側』で共に過ごすのは怖いんだよ。
それさえ築ければ相手が『魔族』だってうたた寝できるんだけどな。
「もう僕が兄様に危害を加えることはあり得ない。それにもしも加えようとしても……」
ああなるほど、あれだけ強い三人に守られているのであれば怖いものなんてないだろうという論法なわけか。
とはいえそれはなあ……
「そりゃまあそうなんだが、そりゃ俺の『力』じゃねえからなあ」
「? よくわからない?」
本気でわからないという感じだ。
わっさわっさ振っていた尻尾は上向いて止まっているし、それに連動して幻影のアホ毛もピンと上向いて止まっている。
――これ慣れたら結構面白いな。
どういう仕組みだか、幻影の方にも触れたらそこにいるという感覚があるのが面白い。
人混みなんかを通る時は『透過』の魔法なんかを利用しているのか、本体の巨躯の影響はないみたいだしな。
見えていてもどっちが本物だかわからなくなる。
なんか美少女が巨大な魔獣を従えているようにも見える。
今は本体と幻影が揃って小首を傾げているのが面白い。
「いやだからそりゃ、リンが恐れるのはルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢の力であって、俺の『力』ってわけじゃねえだろがよ」
「兄様の『力』だよ?」
何を当たり前のことを、という風に即答された。
魔獣的にはそうなのか?
「『力』を従え得るモノ。それも『力』」
無表情に戻り、尻尾とアホ毛を寝かせて静かな声でリンが告げる。
それはありとあらゆる『力』のカタチが荒れ狂う中で生きる魔物、その上位種である『魔獣』であれば当たり前のことなのだという風に。
「姉様たちの『力』も、今はもう僕の『力』も、あるいは師匠の『力』だって兄様のためならためらうことなく全力で振るわれる。『力』持つ者にそうさせるのが『力』でなくてなんなのかと僕は思う。それこそが『力』だとも」
「なるほどね。そういうものか」
そう言う理屈か。
個人的には『虎の威を借る狐』だと思いはするが、ここでむきになって「いーや俺に力はない、ないんだよ!」と意地を張るのもなんなのでそういうものだと思うことにする。
少なくともリンにとってはそうなのだろう。
まあわからないでもないか。
俺の『ユニーク魔法』を使いたいと思わせてくれるのは、胡蝶の夢の嬢たちだ。
その結果『夜の蝶』として万全に美しく妖艶になれるのは俺の『力』でもあるが、同時に彼女たち自身の『力』――嬢たちそれぞれの『魅力』が俺にそうさせている。
力にはいろんな在り方があるっていうのは理解できる。
「そういうものだよ、兄様」
どこか得意顔になっているのが面白いが、指摘はしない。
しかし俺のユニーク魔法が気に入ったとはいえ、リンがここまであっさりと俺に懐く理由がいまいちピンと来なくて信頼――というか安心できないのは確かだ。
『所有者が弟子と認めた』という事実がなければ、今みたいに同じ部屋で過ごすことすらごめんこうむりたい状況ではある。
ルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢が『守ってくれている』としてもだ。
――それはそれでなんか情けない話だしな、男としちゃ。
「まあいいや。そんでリンさんよ。ここのところ日がな一日そうやってるが、師匠の弟子としての目的ってないったいなんなんだ? そろそろ聞かせてくれてもいいんじゃねえか?」
――お前のいうことは私の言うことだと思えとだけ言ってある。
所有者の簡潔すぎる一文が事実であれば、素直に教えてくれるはずだ。
「お外で遊んできなさい」といっても「いや」といってずっと部屋でこうして寝そべっている以外はわりと素直に言う事を聞くリンではある。
いや、本当にお外で遊ばれたら気が気じゃないし、事と次第によっては大騒ぎにもなりかねないから、俺の執務室でおとなしくしてくれているのはありがたいといえばありがたい話なんだがな。
だが時には「いや」という答えを返すように絶対服従ではない。
基本的には従うが、何事にも応用と例外というものは存在するということなのだろうが……
「『冒険者ギルド』に所属して、要らぬ犠牲を出さぬこと……って師匠は言ってた」
「それって……」
確か来週にある、なんかよくわからん『壮行会』とやらへの招待状がガルザム老から届いてはいる。
招待者が招待者なので、招待状が届いた時点で胡蝶の夢を臨時休業して参加することはもう決定している。
招待状だけではなく、ガルザム老御自らが胡蝶の夢へおいでになって「悪いけど参加しちゃくれねえか」とまで仰られては断るわけにも行かない。
胡蝶の夢所属の高級娼婦たちもみな連れて行く予定だ。
――臨時休業時は、その日のご予約のお客様へのご連絡と調整だけで一苦労だからな。まあ嬢たちがフォローしてくれるから、なんとかなって助かってはいる。
なにごとも派手好きでおられるガルザム老がどこか乗り気じゃなかったようなのが気になってはいたんだが……
そいつ絡みか。
「おはようございます支配人! ちゃんと規定時間は寝ましたよ!」
「おはようじゃ支配人。ようし無事じゃな。上出来じゃ」
「おはよー、支配人。ねーむーいー」
じ ゃ あ ね て ろ や。
リスティア嬢、ルナマリア、ローラ嬢がいつもどおり俺の執務室に乱入してくる。
ローラ嬢は乱入というか、二人にふらふらとついてきたというような感じだが。
しかしあいも変わらず我が執務室の扉はノックしてもらえないんだな。
もういい慣れた。
最近はお前ら以外は割りときちんとしてくれるからもういいとするよ、なあ我が執務室の扉。
しかし珍しくリスティア嬢が最初に飛び込んできたな。
いつもは最後に申し訳なさそうに入ってくるのだが、服すら乱れた状態で息も少し上がっている。
いやルナマリア、確かに規定時間は寝ろといったのは俺だがな。
本気で寝入っててその間俺は無防備だったってことですか。
わりと怖いなおい。
ローラ嬢は寝てろ。いやもう半分寝てるか今も。
まあ最近俺が昼仕事をするときの定番風景といってもいいから、まあいいんだけどな。
「姉様!」
この三人に警戒されている対象であるリンは逆にすっかり懐いていて、わかりやすく尻尾を振って三人にじゃれ付きに行く。
「違います、貴女と遊びに来たんじゃありません。私たちは支配人と……」
「おー、よしよし、リン。お手」
「Zzzzz……」
なんかいろいろ言ってはいるものの、問答無用でじゃれ付かれてリスティア嬢が振り回されている。
目に見える状況だけで言えば、美女が巨躯の魔獣に襲いかかられているようにも、美少女にじゃれ付かれているようにも見える不思議な光景だ。
幻影版のほうは麗しいが、本体版のほうは猟奇モノっぽいな。
ルナマリアお前、お手って……
すっかり懐いてリンがお手しているのだからそりゃまあいいのか。
ローラ嬢は来客用のソファでだらしなく寝てしまっている。
だから隠すもん隠せ。
――まあいい。
詳しい話は今夜店が開いてから聞けばいいか。
こうなってやっと、俺も落ち着いて昼仕事がこなせるしな。
まずは目の前の書類の山を片付けてしまうことを優先するとしようか。
次話 書籍化記念特別話 「夜明けの水路 そしてはじまり続く日々」
11/4投稿予定です。
もう「できるだけはやく」とか大口叩かないことにします。
ですが書籍化作業が一段楽したので、今月からはそれなりの更新頻度に戻れる予定です。
次が来たらその限りではないのですが……
いよいよ11/7書籍版の発売となります。
かなりの改稿をしておりますので、書店などで手にとって見てもらえればと思います。
表紙にもちょっとした仕掛けがありますし、西E田先生によりカタチを与えてもらったルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢、ヴェロニカ嬢、シルヴェリア王女殿下は妖艶でもあり無邪気でもあり、必見です。
アエスタ嬢という書籍版オリジナル嬢も登場しております(この嬢も西E田先生にカタチを与えてもらっております)
書籍版、投稿版ともども今後もよろしくお願いいたします。




