第弐拾話 支配人の原風景
真夜中。
王都グレンカイナは午前二時。
さて今夜のお仕事もこれでひと段落だ。
朝が来るまでは完全にお役御免とはいかねえが、夜半を過ぎて時間売りの嬢は手仕舞い。
時間売りの嬢達への洗浄・回復魔法もかけ終わったし、深刻な体調不良を抱えている嬢が居ないことも確認が済んでいる。
あとは一晩売りの嬢やそのお客様に問題が起らない限り、夜明けまでは基本的にのんびりしたもんだ。
店員たちも交代で仮眠を取るし、厨房関連部署は朝食の仕込みをして本当に業務終了。
時間売りの嬢達は明日に備えておねむだし、一晩売りの嬢達も多くは夢の中だろう。
朝まで耐久戦を繰り広げているようなのは知らん。
がんばれ。
本来華やかな娼館がしんとするこの時間帯を、俺は結構気に入っている。
人の気配はそこかしこからちゃんとするのに、全てが静かな感じ。
寝ているような、半分起きているような不確かな気配を、娼館『胡蝶の夢』がまるで大きな生き物になって発しているような不思議な感覚。
今夜は執務室で一人、その時間を迎えている。
今日も相変わらずの騒がしい夜を越え、身体がぐったりしていることが自覚できる。
執務室の立派な椅子に深く身体を沈め、目頭を軽く指で揉む。
自然と吐き出される長い溜息とともに、身体各所の疲れが把握できる気がする。
これが実は本当に気がするだけで、俺の魔法で回復させるとなると思っているところと全然違うところが疲弊していたりするから面白い。
いや怖いのか。
事務方で動いている俺や店員でもこうなんだ、実際に身体張っている嬢達の疲れはこんなもんじゃねえだろう。
俺の『ユニーク魔法』はかける対象の状態に関係なく、俺の魔力で病気を癒し体力を回復させる便利なものではあるが、心には効果が無い。
嬢達の身体にかかる負荷は俺が何とでもしてやれるが、心にかかる負荷は適切な手段で軽減するしかないのだ。
一定時間以上確保された睡眠時間、美味くて栄養バランスが考えられた食事、適切な休暇設定。
そういった物理的になんとでもなる条件はできるだけ整えているつもりだが、それだけで何とかなるものでもないのが心への負荷だ。
だがよく寝て、美味いもの食って、ちゃんと休む。
そういう単純なことが一番大事なのは確かだろう。
俺のユニーク魔法が実際はかける対象の状態に左右されないにもかかわらず、各々の基礎体力を魔法で転用しているだけだと言っているのはその為だ。
そうでも言わねえと無理する連中ばっかりだからな、胡蝶の夢は。
自分の為ってんならまだしも、他人の為でも無理しちまえる馬鹿が最近増えてることだしな。
それ以上はお互いが気を付け、上手く支え合っていくしかねえ。
うぬぼれや油断は禁物だが、胡蝶の夢はそのへん上手く回っている方だと言っていいはずだ。
まあそりゃ俺の手柄ってよりゃ、嬢達がみんなでいい空気をつくろうと思ってくれてるが故なんだけどな。
某三人娘にいわせりゃ、そういう気にさせたのは俺なので、ふんぞり返っていればいいらしい。
そういう訳にもいかねえだろうが、まあ頼りにゃしてる。
何もかも自分でやっちまおうとすりゃ、あんまりよろしくないことになるのはさすがにもう思い知っている歳だし、上手く支え合う事こそが肝要だ。
簡単だが、難しい。
支え合うってなそんな不思議な事だと思いはするが、個人的には困った時に、ちゃんと困ったと声に出せるようにできてりゃ上出来だと思ってる。
どんなものであれ弱音は吐いていい。
それを聞いて、どう対処するかを一緒に考えられるからこそ人の集団には価値があるんだと思う。
まあ胡蝶の夢は厳しい連中が多いんで、それがただの「甘え」だった場合、周り中からお叱りを受けるって場合もよくあるんだけどな。
それだって、支え合いの一つの形だ。
そういうこともわかった上で、言い合える場であることが重要なのだろう。
しかしまあ、よくもこんなふうに思えるようになったもんだ、俺も。
支配人になった――いや肩書きだけでまだ本当の意味でなれていなかった頃には、そんなことを考える余裕なんざなかったからな。
頭では娼婦の為だとかあるべき夜の街だとか、ご立派な事を考えていたような気はするが、実際は手前の事で手一杯だった。
当たり前っちゃ当たり前の話だが、嬢達との関係も今みたいなもんじゃあなかったし、何よりルナマリア、リスティア嬢、ローラ嬢の三人にゃ完っ全に舐められてたもんなあ……
今みたいになれたのは、やっぱり俺の『ユニーク魔法』の恩恵が大きい事を認めないわけにはいかない。もしもこの力がなかったら、俺は今みたいな支配人にはなれちゃいないだろう。
いやその辺はあれか。
俺にこの力があったからこそ、所有者は俺に『胡蝶の夢』の支配人を任せてくれたって考えた方が正解か。
だけどそれもなあ。
最初に俺の『ユニーク魔法』の使い方に思い至ってなけりゃ、自滅してた気もするんだけどな。
長い時間を生きてると、そういうのには無頓着になるものなのかね?
そんなことを取りとめなく考えていると、ずっしりとした全身の疲れが眠気を誘う。
自分の魔法で回復させちまえばそれで済むが、俺は結構疲れに逆らわずに微睡むのが嫌いじゃない。
事がありゃすぐに目は覚めるし、その時点で即回復させりゃあいい。
そのまま睡魔に身を任せ、意識を手放す――
事態は深刻だ。
所有者が「やってみろ」と言ったからにはそれに逆らうつもりも、逆らう権利も、逆らう力も俺にはない。
だから娼館の支配人をやることに、今更どうこう言うつもりはない。
いや正直いろんな種類の「何故?」がありはするが、何も考えずにそれを聞いても答えてくれる人じゃないしな、所有者は。
自分なりに考えた上で、正解はこうですか? と尋ねれば正解かハズレかくらいは答えてはくれるんだが。
それに今まで『師匠』と呼んでいたのに、今日からは『所有者』と呼べと言われてもなあ。
何事も形から入るのは重要とのことらしい。
よって俺のこの格好も、所有者が思い浮かべる『娼館の支配人』像に従ったものなのだろう。
着るべき人が着れば格好いいのだろうとは思う。
純白のボタンダウンのシャツに、漆黒のベストとパンツ。上着も同色。
生地や仕立てについて全く詳しくない俺でも、こいつがとびっきり上等な代物であることくらいは理解できる。
制服と言われたからには身につけてはいるが、完全に服に負けている。
自覚があるだけに、笑いを堪えられるとへこむんですが師匠、もとい所有者。
いや問題はそこではない。
問題は俺が自分で思っていたよりもずっと女に弱いという事実だ。
ここの支配人を任されてすぐに、それは思い知らされた。
弱いだけならまだいいが、相当な女好きの疑いも発生している。
今更こんなことが発覚するとは、我ながら想定外だ。
甘く見ていた。
娼館の支配人と言ったところで、事務方がメインであれば娼婦たちとの接点など言うほどないだろうと思っていたのだ。
戦闘ではクソの役にも立たない俺の『ユニーク魔法』を活かすには娼婦たちと直接接点を持つことは避け得ないとはいえ、魔法は非接触でかけることができるし、そんなことは問題になるとも思っていなかった。
普通に暮らして、普通に異性と接している程度では、『娼館の支配人』という立場に自分が置かれた場合どうなるかの参考にはまるでならないって事を、痛いほど理解した。
俺が支配人を命ぜられた娼館『胡蝶の夢』は、『世界で最も淫らな街』とよばれる王都グレンカイナでナンバーワンの高級娼館。
つまりそこに所属する娼婦たちはみなとびっきりの美人揃いなのだ。
ただ美人というだけではなく、自分の見せかたを熟知している、その道のプロだ。
「花弁制度」という階級制度があるらしく、その上位級になって来ると、大袈裟ではなく同じ空間に居るだけで正直頭がぼーっとしてくる。
微笑みかけられれば真っ赤になってしまうし、一つ一つの仕草でこっちの思考をいいように制御されている気さえする。
いや赤面しておろおろしている程度ならまだいい。
二人っきりの時に誘惑されれば、何も考えずにあっさりその誘いに乗ってしまいそうな自分が一番怖い。
所有者は所属する娼婦たち全員の前で、はっきりと『胡蝶の夢』における全権を俺に任せることを明言した。
その際に、とびっきりの娼婦である彼女らにとっても師匠――所有者は絶対者だという事は、一目見て理解できた。
特に上位の娼婦たちは、所有者と何らかの契約を交わして『胡蝶の夢』の娼婦をしているらしい。
その「契約」の扱いすらも俺に一任するといったのだ、所有者は。
俺を籠絡すれば、彼女らの「契約」を完了させることも可能。
それでも所有者が尊敬、あるいは畏怖されているがゆえに俺を軽く扱う娼婦はいない。
だが自分達と話す俺の態度から、「与し易し」とみられていることは間違いないだろう。
そしてそれはほぼ正鵠を射ている。
俺は間違いなく与し易い。
トップ娼館である胡蝶の夢の中でも売り上げトップを誇り、王都グレンカイナ中でも五人しかしない「花弁制度」最上位の三人にあからさまにバカにされていなければ、こんな風に悩むことなく籠絡されていた恐れすらある。
ルナマリア、リスティア、ローラと名乗った三人の美少女は、まだ年若いにもかかわらず『胡蝶の夢』のトップ3であり、それが与太話ではないと思わせるだけの美しさと色気……だけではない雰囲気を身に纏っていた。
綺麗過ぎて邪な想いを持つことすらもはばかられるような気がして思わず素に近くなった俺を、心の底から蔑んだような目で見ていた。
ちくしょう、素になって思い返せば確かにみっともなかったよ。
自分たち以外の娼婦にオタオタする俺が、本気で頼りなく、情けなく映っていたのは自分でさえそう思うので仕方がない。。
だがその冷たい視線のおかげで、何とか対策を練らねばならんと思い至る事が出来た。
与し易いとみて籠絡にかかるのではなく、俺のような青二才相手にもわかるくらい明確にバカにしてくれるというのは、考えてみればありがたい話なのだ。
彼女らにしてみれば、俺を骨抜きにしてやりたいようにやる方がよっぽど利のある話なのであろうから。
それをわざわざわかりやすく馬鹿にして、克己心を煽ってくれるってなどう考えても「親切」でしかない。
だからと言って悔しいのは悔しいんだけどな!
「生理的に無理だから、包み隠さず本心を出してみました」だったらどうしよう。
なんにしても、何としても見返してやらねばならない。
いやそれを除いても、何とかしなければ『娼館の支配人』として務まらない。
幸いにして俺には今、一つの腹案がある。
俺の『ユニーク魔法』は、衛生・体調管理に特化されたものだ。
それを深く理解し、工夫をすれば面白い使い方が出来ることに思い至ったのだ。
男にはどんな美女の誘惑もものともしない状態が、ごく短時間とはいえ存在する。
曰く『賢者モード』
それを俺の『ユニーク魔法』で人為的に生み出すことが出来れば――
名付けて人工的永続賢者モード!
これで俺もどんな魅力的な娼婦たちにからかわれても、さらりとドライに受け答えが可能になるはずだ。
この世に女さえいなければ、男は神のように生き得よう。
――トーマス・デッカー
女性を無くすわけにはいかないので、神には至れない。
だが賢者たること位は可能なはずだ。
そしてそれで俺の目的は充分果たされる。
俺のユニーク魔法をこんなふうに使うことを思いつくなんて、俺って結構天才なんじゃなかろうか。
しかもこれは娼館ではしゃぐお客様の血の気を一気に引かせるには、最強の技を手に入れたとも言える。
どんな強面であっても、「二度と勃たなくするぞ!」と脅されて平気な兵はいないはずだ。
正直所有者抜きでの荒事なんて考えたくもない俺には、望外の武器だといえる。
さて。
だいたいの魔法構築は完了しているし、後は実験するのみ。
万一失敗したらと思うと血の気が引くが、俺の魔法を駆使すればなんとか復活も可能なはずだ。
一応短時間で解けるようにしておいて、ここは度胸一発、実験してみるしかない。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
度胸一発、おもいきって試作魔法、仮名「人工的永続賢者モード」を自分に対して発動する。
…………。
これといって何か劇的に変わることはないな。
ただ妙に落ち着いていることは自覚できる。
さっきまで思い出してはのたうち回っていた恥ずかしい記憶も、思い出しただけで落ち着かなくなっていた綺麗なお姉さんたち、特にルナマリア、リスティア、ローラというトップ3の事を思い出しても、さっきまでのように心は乱れない。
それどころか、こうやって冷静になって思い出してみると、『胡蝶の夢』に所属する娼婦たちがどれだけとびっきりかがよくわかる。
中でも俺の情けなさを指摘してくれた三人は、人間とも思えない美しさだ。
そりゃ男の本能を搭載したままであれば、冷静に相手することなどとても無理だという事が、こうなって初めて納得できる。
あれは俺や手玉に取られるお客様が情けないのではない。
男と生れた以上、抗い様のない存在が彼女たちなのだ。
弱ければ手玉に取られ、強ければ暴力ででも自分のものにしようとする。
そんなみっともない人生を送るくらいであれば、このまま文字通り賢者の――
――魔法の効果が切れた。
…………。
こわ。
こっわあ。
本気で血の気が引いた。
これ時限で解けるようにしておかなかったら、うっかり「もうこのままでいいや」で生涯男としての機能を取り戻さないままで暮らしかねないぞ。
いや時限にしておいても累掛け可能な状況なら、そろそろ切れそうだしめんどくさいからと累掛けしてしまう事も充分考えられる。
しかも俺本人が、それをよしとしてさらっさらの人生を全うしてしまいそうだ。
俺の魔法でなくとも、歳くって自然回復力が失われれば男ってああなってしまうものなのか。
枯れたおじいちゃんの穏やかさの秘密を、一足先に体感してしまった気分だ。
これは慎重な使い分けが必要だ。
確かに女の武器にまるで動じない自分には憧れもするし、所有者から任されたこの仕事を十全にこなすには有用な魔法であることは間違いない。
だけどそういう男の性をまるっきり放り投げての人生も味気ないもんだろう。
ついさっきまでの俺がそう思っていたように、確かに欲に振り回されるのはみっともいいものではない。
だけどそれこそが「男」で、男の性を歯ぁ食いしばって、やせ我慢するからこそのかっこよさってのもあるはずだ。
一人の男としては、そっちの方がよっぽどいいと思える。
だが高級娼館『胡蝶の夢』の支配人としては、使い方次第で有効だろう。
要は使い分けを間違わなければいいだけだ。
よし、ちょっと嫌な汗はかいたが、実験は成功とみていいだろう。
見てろよ、恐ろしいくらいに綺麗だった三人娘。
ルナマリア、リスティア、ローラ。
お前らの女としての魅力を十全に理解した上で、この上なく冷静に対応してやる。
『娼館の支配人』とはかくあるべしを体現してやるぞ。
彼女らにだって、自分をそういう目で見ない男がいるって事があってもいいだろう。
それが今は、偽りのものであったとしても。
「寝とる」
「寝てますね」
「熟睡だね~」
夜が明けて一晩買いの御贔屓筋と朝食を食べてお見送りし、お仕事から解放されたルナマリアとリスティア。
時間売りの最終客がいつも朝まで延長するために実質一晩売りと変わらぬ時間まで拘束されるローラがその二人と合流し、執務室へ支配人の様子を見にきての声である。
支配人は昨夜仕事が一段落した時点で己の椅子に身体を沈め、そのまま寝こけてしまっているのだ。
「余計な事さえしなければ、起きぬのな」
「完全に支配人の魔力感知範囲内なのにね~」
「……うれしいですよね、無警戒」
常の支配人であれば、執務室周辺に他人が来れば間違いなく目を覚ます。そのはずなのだが、三人がこっそり執務室に侵入してもなお起きないというのは正直に言ってかなり嬉しい。
第一種警戒態勢の警戒対象に、自分達は含まれていないという事だからだ。
おそらくは無意識の事だろうから、ここで信頼を失えば、容赦なく再び警戒対象に戻されることは間違いない。
いやこの事実を知っただけで戻される可能性も高い。
千載一遇の悪戯のチャンスを得ながら、それがとりもなおさず支配人の信頼を裏切る事になると思い至って、ほぼ完全に動きを封じられる三人娘である。
どのような状況でも、惚れた方が負けという大原則は適用されるようだ。
「一定までじゃがな」
「悪戯しようとしたら、最大警戒域まで一瞬だもんね~」
「それでもここまで許されているのは、きっと私達だけです」
余計な事をするなよ、という確認をお互いが取りあうように会話を交わす。
まあ確かにリスティアの言うとおり、ここまでを許されるのは自分達だけだという自信と喜びもある。
そうとなれば無防備に寝こけている顔を見ているだけでも充分か、と思えてしまうところが我ながら安いと思わなくもないのだろうが、本音なので仕方がない。
「……なんかすごいドヤ顔してませんか、支配人」
ほんの少し頬を染め、何がそんなにうれしいんだという表情で支配人の間抜けな寝顔を飽きもせずに見つめていたリスティアがぽつりと漏らす。
「……いい夢見ておるようじゃのう」
こちらも熱に浮かされたような表情で、支配人の机に顎をのせて見つめていたルナマリアが同意する。
少なくとも嫌な夢を見ているというような表情ではない。
また夢を見ており、それが表情に出るという事はそろそろ目覚めの時も近いという事だ。
寝顔を見るのは堪能した、少々の信頼と引き換えに悪戯をするのであればこれが最後のチャンスという状況ともいえる。
「……ちょっと見てみたくないですか、ローラ?」
「……のう、ローラ」
なぜかルナマリア、リスティアの二人がローラに話をふる。
「そりゃ見たいけどさ~。……裏切らない?」
ローラは寝顔を見つめるのではなく、眠る支配人の椅子に身体を預け、自身も目を閉じてうっとりとしていた。
その左眼だけが開いて、話をふってきた二人を見ながら言葉を返す。
見るのであれば、一蓮托生。
そういう確認だ。
ルナマリア、リスティアの二人がそうそうみせない真剣な表情で頷く。
これからやることはローラの単独犯ではなく、ルナマリア、リスティアも結託しての共犯であることを承認したのだ。
確実にばれる。そして怒られる。少なからず積み上げた信頼も目減りするだろう。
それでも「見たい」と思ってしまう事を止められないのだ。
つまりはローラには支配人の夢を覗き見る事を可能にする能力があるのだ。
「絆魔法かけてくれてるから簡単な反面、ばれやすくもあるんだよね~。侵入したら即バレだし、あんまり詳しく見たらさすがに本気で怒られるだろうし、ざっとした内容だけだよ?」
それでも十分にプライベートの侵害にあたると思われるが、この四人の中では隙を見せた方が悪いという事なのであろうか。
その程度の事は許し、許されるという甘えにも似た信頼関係があるのだろう。
あるいは逆か。
偽りなく世界一の娼館で人気トップを誇る、百戦錬磨という表現ですら生温いいい女が三人揃って、たかが男一人の夢の内容を知ることに生唾を飲み込んでいる。
左手の美しい小指を艶やかな桜色の口唇に含み、唾液に濡れるそれをルナマリア、リスティアの前に差し出すローラ。
それを二人が左右から、少しだけ舌を出した口唇で啄ばむように舐めとる。
ルナマリアとリスティアの口唇同士は、すれすれのところで触れそうで触れあわない。
背徳的にも見えるこの行為がローラの能力を共有するために必要なものか、三人共に躊躇も恥じらいも見られない。
最期に三人の唾液が綯交ぜになって濡れるローラの小指を、眠る支配人の唇にそっと触れさせる。
体液の粘膜接触が能力発動に必要なのだろう。
触れた瞬間に、支配人の見ていた夢の内容が、ダイジェストのようにローラ、ルナマリア、リスティアへと伝わる。
その結果――
「お、お腹痛い……」
かろうじて声を出せたのはリスティアのみ、ルナマリアとローラはあまりの事実に声も出せないで震えている。
支配人がどうやって自分達の誘惑に動じなくなっていたかの合点はいったが、そこへ至るまでの試行錯誤が笑わずにはいられない。
日頃支配人が『胡蝶の夢』で騒ぎを起こす慮外者達の心胆寒からしめている必殺技に最初に青ざめたのが、まさかその遣い手本人とは思いもよらなかった。
「男の人」の生態、それに引きずられた思考が新鮮で素直に面白い。
対象が想い人である支配人故というのはもちろんあるにしてもだ。
しかしおかげで支配人が「対女性」に関して無類の強さというか、動じなさ誇る理由はよく理解できた。
「私たちの技や手練手管って、そういうのを増幅させるものですもんね」
「その元を消されては、何一つ通じぬわけじゃ」
「ずるいよね~」
四則演算乗法において、被乗数を零にしてしまわれれば乗数にいくら大きい数値――技や色気、手練手管を駆使しても意味がない。
零には何を乗じたところで零なのだ。
ある意味生物としては男ではなくなっている状態の支配人に、生物学的男に有効な手段が通じるはずもない。
ずるいとしか言いようのない鉄壁の防御方法に文句を並べたてようとして、三人ともがほぼ同時に思い至る。
確かに支配人はどんな綺麗な女性に対しても鼻の下を伸ばしたり赤面したり、動揺したりといったことはほとんどない。
だが自分たちに対してはどうだっただろう?
本当にそこまで鉄壁だっただろうか?
――応えは否だ。
「……でも支配人……私たちには照れたり、動揺したりしますよね。滅多にないですけど……」
「うむ、確かにな」
あからさまに色仕掛けを仕掛けた時は、高級娼婦としてどころか、一人の女として自信喪失させられるくらいに見事にあしらわれた記憶しかない。
だが他愛もない会話や、ふとした接触。
それこそ街の男の子と女の子が、ふいに目が合って照れてしまうような状況で支配人が思わずという様に赤面したり、ちょっとした動揺を見せる事は、思い出すのに困らない程度に日常的に存在する。
「それって……?」
ローラも自分の全裸を見ても表情一つ変えずに上着を投げつけてくる支配人が、ふとしたはずみに自分に照れているところを思い出しながら聞き返す。
それはいつだってくだらない、とるにたりない事が原因だったように思う。
らしくないと思いながらも、落ち込んだ嬢をはげましているところを支配人に見られて、照れ隠しにふくれて見せている時。
支配人に褒められたことが嬉しくて、素直に喜んで見せた時。
誘惑とかそういうのじゃなくて、ただ寂しくて支配人に触れたくなって触れた時。
そういう時、確かに支配人は男の人の貌で、照れていた。
「つ、つまり男の人の生物としての本能、いわゆるエッチ系なものとは無関係に、私たちの事を可愛いって思ってくれた時、なんじゃ、ないか、な、って……」
言っている途中からリスティアが真っ赤に茹で上がる。
その意味を理解したルナマリアもローラも、他人の前で見せたことが無いくらいに赤面した。
まだ男になっていない男の子が、まだ女になっていない女の子に、それでも男として向けるある意味において不純物の無い好意。
それ故に生まれる、反応。
支配人が自分たちに時折見せる反応は、それと根を同じくするものだ。
「お、女としての評価じゃないというのはいかがなものかとお、思うのじゃが」
「そ、そうよね~。そういう色気やスタイルも含めてのじ、自分だもんね~」
「でも……そういう目で見られないって事に、憧れたりしませんでした、か? その上で好きになってもらえたら、って……」
女として超が付くほど美しく魅力的に生まれてきた三人は、それ故に極幼い頃からそういう目には慣れ親しんできた。
男が自分を見る目は、デフォルトでそういうものだと思うほどに。
だからこそ、そんなことは不可能だと思いながらも自分の見た目やスタイルや、自然と流れ出す色気と言ったものをまるごと無視して、その上で好きになってくれる人に憧れたことは確かにある。
自分というものを形成する過程で、容姿をはじめとした持って生まれたものは確実に作用する。
故に恵まれた容姿や色気をひっくるめての「自分」だということはわかっていても、無いものねだりで求めてしまう事はしようがない。
うんざりするほどそういう目に晒されていてはなおの事だ。
つまりどう言い訳を並べたところで、支配人がそういう要素を一切除いた上で自分たちに赤面していたという事実に、気持ちの大事なところをこそぎあげられるような快感を得る。
汗をかくくらいに赤面してしまう事を三人とも止められない。
「こういう恥ずかしいの、慣れてないからつーらーいー」
「わ、私もじゃ」
「てれさせる事にはなれてるんですけどね……」
支配人の鉄壁の防御術を知ったが故の、予想外の「嬉しさ」が、常であれば周りの気配を失念することなどない三人をして無防備にさせる。
「――知ったな」
常であれば聞いただけでテンションが上がるはずの支配人の声に、ルナマリア、リスティア、ローラの三人の背筋が凍る。
きゃあきゃあとテレたり話し込んだりしている背後で、深く静かに支配人が目を覚ましていたのだ。
そして三人の会話から、己の見ていた夢を覗かれた事に思い至った支配人の声は、地獄の底から響いてくるようなおどろおどろしさに満ち満ちている。
ルナマリア、リスティア、ローラという女傑といっていい三人の心胆を寒からしめるほどに。
「悪気はなかったのじゃ、うむ、悪気は……」
「し、知りません、私はなにも知りません……」
「わ、わたしはやめよって……」
三人をして初めて聞く支配人の底冷えした声に怯えながら、三人三様の言い訳を口にする。
しかし時すでに遅し、支配人は狂戦士モードに入ってしまっているようだ。
「問答無用、記憶を失え」
「「「ごめんなさい!!!」」」
高級娼館であるはずの『胡蝶の夢』の一日は、とてもそうは思えないような一幕から今日も始まる。
支配人を取り巻く非日常の日常は、まだまだ続く。
娼館という場であっても、笑いと嬉しさも生み出しながら。
ごめんなさい!!!
次話 閑話 在り得る未来図
可及的速やかに投稿できるべく頑張ります。
今話で「支配人編」ともいえる章が終わり、次章から再び娼館の日常を書いて行こうと思っています。
その前に閑話が次話を含めて三つ入る予定です。
所有者絡みのお話をそろそろ。
読んでくださるとうれしいです。




