第拾参話 御贔屓様の場合
「いらっしゃいませ、ご隠居様」
胡蝶の夢自慢の大扉が開かれると同時に、来店されたお客様に俺は頭を下げる。
このお客様はセフィリス・トリフォリウム・カンプス様。
王都グレンカイナでも五本の指に入る大商店、「三大陸」の先代だ。
十年以上前に御長男に身代を譲られ、楽隠居を愉しんでおられるとはご本人の談。
御歳は当年とって七十幾つとお聞きしているが、とてもそうは見えない。
背筋はしゃんとしておられるし、声もハリがある。
それだけなら冒険者ギルドの「神殺し」や、王国魔導軍の「賢者」も同じだが、この方は七十歳越えという年齢が冗談にしか聞こえない見た目をしておられる。
銀縁の方眼鏡を左眼にかけ、長めの銀髪を無造作に伸ばしているその整った顔は、若造にこそ見えないものの、おじいちゃんにもとても見えない。
年齢不詳というのがぴったりくる。
亜人の長寿族って訳でもないのに、表情によっては二十代でも通ってしまいそうな、そういう不思議な魅力を持ったお方だ。
夜街の王とはちょいと趣は違うが、王都グレンカイナの夜街では知らぬ者とてない「遊び人」
大店の御隠居として湯水の如くお金を使われるし、粋な遊び方をされるって点では欧州紳士的なのが夜街の王、和の風流人とでもいうのが御隠居ってのが俺の印象だ。
もう長いこと胡蝶の夢の「四枚花弁」である、ヴィオレッタ嬢を御贔屓にしてくだすっている。
というよりヴィオレッタ嬢はご隠居に「四枚花弁」にしていただいたと言っても過言ではない。
胡蝶の夢にとっては上得意中の上得意様だ。
「おんや、支配人が出迎えなんて珍しいことがあったもんだね。どしたぃ?」
相変わらず矍鑠とした、という表現を使う事に違和感を持つほど見た目も声もお若い。
ただそこにちょっとした疲れのようなものが見えるのは、支配人という立場上、要らん――要らんともいえないが――情報を持っているゆえだろうか。
「いえ、とくに理由は在りませんが、今宵見えられると予約表で知りまして。久しぶりにご挨拶をと」
――嘘だ。
確かに仕事で一階に降りてきている時にお見かけすりゃあ、当然ご挨拶はする。
だが大扉の前で来店されるお客様を支配人である俺が待ち構えていることは普段ない。
支配人の仕事はそんなに暇でもない。
どれだけの御贔屓筋様が見えられるとしても、普通に遊びに来られる際にはそんなことはしない。
王陛下でも見えられるってんなら話は別だが、さすがにそんなことはありえないだろうしな。
王族、しかも女性が来る娼館ってだけでも珍妙なのに、王陛下がお客様として来られる娼館はもはや娼館じゃねえような気がする。
だから今日、俺がこうしてご隠居をお待ちしていたには理由がある。
それは――
「はいはい、底意地の悪りぃ質問したアタシが悪かったから、猿芝居は止めにしておくれな。今宵が最後だから、だろ?」
「御隠居様……」
からからと笑って、俺が無粋にも大扉の前で待っていた理由をあっさりと仰る。
そうなのだ。
その名の通り三つの大陸全てに幾つもの支店を持ち、世界的な商売をしている「三大陸」が飛んだという情報は、ごく一部の人間の間に出回っている。
「三大陸」級の大商店が潰れるとなれば影響は大きく、いまだその情報を知っているものは限られている。
俺が知り得たのは、偏に所有者の店である胡蝶の夢の支配人であるが故だ。
「なんてぇ顔してんだい、あのお人のお弟子さんが。シャンとなさいな、こんなこたぁいくらでもそこらに転がってる話だよ」
「はい……」
ご隠居も胡蝶の夢の所有者を直接知る数少ない人の一人だ。
というよりも所有者に遠慮なくものを言う、俺が知る唯一の人だ。
そんな人が胡蝶の夢へ来るのが今日が最後なんて、ピンとこない。
おかげでらしくない事をしてしまったが、これ以上何を出来るわけでもない。
俺は娼館の支配人に過ぎず、世界を相手にした商売なんざ想像も及ばない。
だったら今日の夜を出来るだけ楽しんでもらう事くらいが俺の出来ることだが、ハナからこんなむさくるしい顔にご隠居を付きあわせてたんじゃあ話にならない。
「だから特別な事はしなくていいからね。いつも通りヴィオレッタのお嬢ちゃんと遊ばせてくれりゃあそれでいいよ。もちろんお代は持ってきてる。ツケで遊べねぇってな粋じゃあないがしょうがないね。ま、娼館で銭金の話しといて粋もへったくれもあったもんじゃないけどサ」
いろいろと見抜かれている。
その上笑いながら支配人んとこのツケはきっちりしといたからね、と付け足される。
この人が夜街で銭金の話をするなんてな、本来ありえない。
それでもきちんとしなくちゃならない時には、きちんとする。
「いえ……。すぐにヴィオレッタ嬢は参りますので、それまでくつろいでお待ちください」
こういう手におえないくらいエロくて、粋で、見惚れちまうような遊び方をされる方がいなくなるってのは夜街全体の損失だ。
銭金の話だけじゃなく、夜街から艶が消えてしまう。
こういう夜の世界ってのはお客様にも色艶あってこそ、艶やかな空気ってのは醸されるもんだ。
そういう存在が夜街から失われると、殺伐とした空気になってしまいかねない。
夜街の王やご隠居のような粋人は、お客様側で必要な華なのだ。
この方はご隠居だ。
今回の原因に直接かかわっておられた訳じゃない。
――身代譲ったからには、余計な口は出さねえほうがいいんだよ。
と仰って、夜街で大金を使っては、当代に嬉しそうに叱られておられた。
当代もご隠居の代ほどではないが手堅く商いを行い、先代が築いた商売を堅実に広げて行っておられる、穏やかだが優秀な方だ。
間違っても店を潰してしまうような、愚かな方じゃない。
何と言ってもこのご隠居が育て、認め、身代を譲った方なのだ。
――息子というよりゃ、出来の悪い弟子ですよ。
というのが酔われた時の口癖で、何度かご一緒させていただいた当代はその言葉に嬉しそうに笑っておられた。
今回はしてやられたのだ。
しかも相手は同じ商売人ではなく、いくつかの国が組んでの事らしい。
俺はそういう経済だの商売だのの難しい話はよくわからねえ。
それでもなんか理不尽なものを感じる。
そういう事がありな世界だというのなら、こっちも……
「悪い顔してますよ、支配人」
お好きな葡萄酒をやりながらヴィオレッタ嬢をお待ちの御隠居に、あっという間に思考を見抜かれる。
それでも向こうがそういうやり方で来るのなら、こっちだって、というのは単純な俺はどうしても思ってしまう。
「お気持ちは有り難いけどね、支配人。そりゃアンタの大嫌いな憐みと一緒です。アタシも息子も商売人の矜持ってもんがありますから、商売の世界でやられたことを政治や軍事の世界でやり返すてなあ道に外れる」
返す言葉もないです。
そういうつもりは無かったなんで、何の意味もない。
相手がそう取れる言動をした時点で言い訳の余地もない。
「息子は手前の判断で大勝負かけて負けたんです。そのツケは払わなきゃならない。そりゃ当たり前のことですよ。騙された訳でも、寝首をかかれた訳でもない。相手がでかいって事を知りながら、勝った時に得るものを望んで挑んだのはあの子です」
いちいちごもっともで、余計な言葉を差し挟むこともできない。
「これが軍人さんや冒険者さんだったらどうです。答えは簡単、死んじまってますよ。生きてるだけでめっけもんなんです」
そりゃそうだ。
己一人の事なら、俺だってそう納得できる。
だけど弟子の負けに、師匠が巻き込まれるのが納得いかねえ。
それが商売の世界だって言われりゃそれまでなんだろうが、軍人や冒険者――所有者だったら俺がバカやっておっ死んでも余裕で生き残る。
いや違うか。
俺が駄々こねてんのはあれだ。
弟子が負けた時に、師匠が仇取ってくれねえことを子供みたいに拗ねてるんだ。
所有者ならそうしてくれるって、ご隠居にもそれを期待してるんだ。
度し難いってもんじゃねえな。
「セフィリス様、お待たせいたしました」
準備の終わったヴィオレッタ嬢が、ご隠居から贈られた豪華な衣装に身を包んで現れる。
間違いなく仕事なのに、商売モードではなく嬉しそうなのは長年の付き合いの結果だろう。
高級娼婦が本気で笑うと、その場が嘘みたいに華やかになる。
ご隠居は今日、俺とお話に見えられたわけじゃない。
長年可愛がっていただいたヴィオレッタ嬢に、最後に逢いに来てくださったのだ。
俺のくだらない「納得いかない」ってな気持ちで、この時間を台無しにするわけにはいかない。
「はい支配人、不粋な話はここまでだ。アタシは手前が贈ったヴィオレッタの服を脱がすのに集中します」
「セフィリス様……」
俺の前で具体的な話を出されたので、ヴィオレッタ嬢が赤面している。
高級娼婦にこういう顔させるあたり、ご隠居はやっぱり大したお人だ。
今夜が最後になるって事は、ヴィオレッタ嬢はまだ知らない。
この後聞かされて、泣くことになるんだろうか。
ヴィオレッタ嬢の最大の御贔屓様が消えるんだ、高級娼婦としては深刻な話だろう。
だが流される涙の数滴でも、娼婦としてじゃないものが混ざっていると信じたい。
いつものように笑顔でヴィオレッタ嬢の私室へ移動しようとしているご隠居が、すと俺の傍に寄ってくる。
呆れたような溜息を一つついて話される。
「しょうがないお人だねえ、支配人も。そんなベソかきそうな顔されちゃあ、安心させてやらなきゃって思っちまう。うちの図体ばっかしおっきい馬鹿息子とおんなしだねえ」
俺そんな情けない顔してたのか。
仕事中になにやってんだって話だ。
お客様に気を使わせるなんざ、支配人失格だ。
より落ち込む俺の背中を、細い腕でポンとたたいて話してくださる。
「なあ支配人。師匠ってやつぁ、弟子のケツ拭いてやれてこそ師匠なんて踏ん反り返っていられんのサ。まあ見てなさいな、息子の――弟子の不始末はアタシがキッチリ始末付けて、「三大陸」の看板なめた連中にゃきっちりお灸をすえてやりますよ」
そういって年齢不詳の顔に、子供みたいな笑顔を浮かべる。
それって――
項垂れていた顔を――項垂れてたんだな、俺は――跳ね上げる。
きっちり師匠として、ぶん殴り返すつもりも用意も出来てるってことですか。
それを隠して、しれっと最後とか言ったんですかご隠居。
人が悪いですよ。
「商売ってな甘いもんじゃありません。一回すっ転んだ人間に手を差し伸べてくれる酔狂な相手なんかそうそう居やしねえんです。だけど幸いにしてすっ転んだのは息子でアタシじゃない。アタシにゃこれまでの人生で積み上げてきた人様との繋がりてえモンがあるからね」
そう言って笑う。
これこそが悪い顔ってやつだ。
さっきの俺が浮かべた顔なんて、小僧っ子が悪戯思いついた程度の事だ。
これは相手を根こそぎ叩いて潰す顔。
敵と見做したものと相対する時に、所有者が見せるそれと、本質を同じくするもの。
何かゾクゾクしたものが身体に走るのがわかる。
これが「師匠」ってものだ。
「支配人に助けてもらうってなあ、さっきも言ったように遠慮させてもらいますよ。友情だとか同情だとか、そういう甘っちょろいもんじゃなくてアタシの商売に乗ってくる酔狂者は何人かアテがあるからね。商売ってのはそういうモンです、支配人」
そう言いながらヴィオレッタ嬢の所へ戻り、その腰を抱き寄せる。
この人たちは最後にお気に入りの女に逢いに来るなんて、殊勝な生き物じゃなかった。
喧嘩の前に、景気づけに来ただけだこりゃ。
思わず安心したような、呆れたような表情を浮かべた俺に、にやりと年甲斐もないやらしい笑顔を浮かべるご隠居。
「色てなぁ、男の原動力ですよ支配人。アンタも枯れた渋い男の振りなんてしてねえで、欲しいもんは欲しいって地団駄の一つでも踏んでみちゃどうだい。そうすりゃ結構、なんとかなるもんかもしれませんよ」
「いやあの、ご隠居、それは……」
なんだって誰もかれも知ってる態なんだ。
誰かが言って回ってるわけじゃあるまいな。
それともそんなわかりやすいのか俺達は。
この前呑んでから、そんな空気がだだ漏れでもしてるってのか。
もしそうなら引き締めなきゃならん。
はっはっはと嘘くさい笑いをしながら、ヴィオレッタ嬢と共に私室へ消えてゆく。
ヴィオレッタ嬢は不思議そうな顔だ。
さもありなん。
要らん心配して損したよ。
いや心配する事がそもそもおこがましかったんだが。
分を弁えんとなあ。
所有者。
所有者の御友人たちゃ、老いてなお御壮健。
今度帰られた時にゃ、一度そっちの呑みに俺達も混ぜてくださいよ。
十年はええよ、とか言わないで。
次話 常連客様の場合
近日投稿予定です。
その次の 王陛下の場合で、第三章は終了です。
カリン王女殿下の閑話を挟んで、四章に入ります。
四章では支配人の私生活に焦点を当てたいと思っています。
活動報告で読者の皆さんがよせてくれたアイデアも反映していきたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




