幸福の時間(前編)
第七章「I know(11)」では削ったエピソード、ウォルフィ、シュネーヴィトヘン、ヤスミン達が過ごす最後の夜のお話です。
丸テーブルを間に、相対していた憲兵が椅子から立ち上がった。
見計らうかのようにシュネーヴィトヘンの唇から嘆息が漏れ、目を伏せて深く椅子の背に凭れかかる。
昨夜から今朝方に掛けての余韻がまだ全身に残っているのか、怠くて仕方ない。
顔を俯かせ、ぼんやりと床に視線を落とす。
席を立った憲兵達は監視役のエドガーと話していて、シュネーヴィトヘンの様子を特段気にする様子がなかった。
むしろその方が有難いけれど、と思いながら顔を上げる。
すると、扉近くの壁際で固まっているエドガーと憲兵達と思い切り視線がぶつかった。
(……??……)
シュネーヴィトヘンと目が合った途端、憲兵達は徐に彼女から視線を逸らした。
憲兵達だけでなく、エドガーも一瞬だけ狼狽えたように視線を泳がせる。
訝し気に彼らをじっと見つめれば見つめる程、彼らはシュネーヴィトヘンからさりげなく視線を逸らそうとする。
意味が分からないし、はっきり言って余り気持ちの良い態度ではない。
先程よりも深く息を吐き出し、視線を軍人達からウォルフィへと移動させる。
ウォルフィは、いつものように扉を挟んだ左側の壁際に一人佇んでいた。
何時間もひたすら立ちっ放しだというのに――、それ以前に昨夜の件も踏まえても――、疲れた様子は微塵も見せていない。
こちらは一日中、気怠いし眠気も酷いのに――、恨めしい気持ちを込め、じとりと睨みつける。
気付いているのか、あえて知らぬ振りをしているのか。
平然と無表情を保ち続ける彼が憎らしかった。
(何よ、今はあんな涼しい顔してるけど……)
昨夜のことが脳裏に過ぎれば、自然と頬に熱が集まってくる。
元を正せば、この気怠さは彼の求めに様々な形で――、例えば、彼女が上になったり後ろから抱えられたり――、一晩中応じ続けた結果によるもの。
『意外に好色漢なのね』と揶揄えば、『相手は選ぶが』と真剣に返されれば黙るより他はない。
頬の熱と込み上げる羞恥を振り払うように、俯いたままで軽く頭を振り、ブロック柄の床を白いタイルと黒いタイル、それぞれの数を数える。
その間にも憲兵達とエドガー、ウォルフィは部屋から退室していく。
(……いよいよ、明日、ね)
明日、シュネーヴィトヘンは憲兵司令部の地下牢へと再勾留される。
アストリッド邸で過ごすのは今夜で最後だ。
犯した数々の罪状に反して破格の待遇を受けただけでなく、積年のわだかまりが解けて愛情と娘との絆も取り戻せた。
充分すぎる程のものを得られたが、欲というのは尽きないもので。
(最後に一つだけ、叶えたいことが……)
だが、自らが口にするにはおこがましく、シュネーヴィトヘンは更に深く、大きなため息を吐き出した。
深まる一方の宵闇がカーテンの僅かな隙間から濃い影を作り出す。
影を通して、夜の冷気が音もなく室内へと忍び入ってくる。
そこはかとなく漂う闇と冷気は、シュネーヴィトヘンに孤独を感じさせる。
今夜は、否、今夜もか――、一人で夜を過ごすのは心細い。
二十数年の余、たった一人でスラウゼンの古城で暮らしていた時は、むしろ一人でいる方が心穏やかでいられたというのに。
つくづく、弱く脆い女に成り下がったものだと自嘲する。
強大な魔力の盾と苛烈さの鎧を失くした今の自分が、きっと本来の姿なのかもしれないが。
コンコン――
扉をノックする音にハッと我に返り、ようやく顔を上げる。
思っていた以上に訪問者を待ちわびていたらしい。
扉を注視する瞳が期待の色に満ち、口角がゆるゆると弧を描くのを己自身で感じ取ってしまったから。
「どうぞ、入って頂戴」
扉の向こう側の人物に許可を下せば、「ママ!」と声を弾ませ、茶器や菓子類を乗せたトレイを手に、ヤスミンが入室してきた。
ヤスミンの後にはウォルフィが続いた。
最早習慣と言っていい程、毎日続いたヤスミンとの一時も今夜で最後となる。
ヤスミンもきっと知っているだろうが――、知っているからこそか。
いつもと何一つ変わらない明るい笑顔、元気な態度を崩すことなく、テキパキとティーポットの紅茶をカップへと注いでいく。
その時、トレイの上に乗せられていたカップと菓子の皿の数が一つずつ多い事に気付いた。
「ねぇ、ウォルフも席に着いてくれない??」
相変わらず、扉付近の壁際に凭れかかって佇むウォルフィに、シュネーヴィトヘンは話しかけた。
「ヤスミンが、貴方の分のカップとお菓子も準備してくれたみたいなの。折角だから、頂かない??」
「…………」
ウォルフィは眉を寄せ、少し迷うような素振りを見せたものの、黙って壁際から離れて席へと近付いていく。
「あ、パパ。すぐに紅茶をカップに注ぐから!私の右隣の席に座って!」
両親の雰囲気が今までぎこちなかったせいか、『親子三人でお茶会したい』という希望を中々言い出せずにいたのだろう。
両隣の両親に挟まりながら紅茶を注ぐヤスミンの表情はいつにも増して嬉しそうだった。
「今日焼いたシュネッケはね、ちょっとシナモンの粉を多めに振ってみたの」
「うん、今まで食べた中で今日のが一番美味しいわね」
「本当?!へへ、ママに褒めてもらえた……」
手作り菓子の味を母に褒められ、ヤスミンは照れ臭そうに首を竦めてみせた。
娘の照れる顔が可愛くもあり愛おしくもあり――、シュネーヴィトヘンもまた、思わず穏やかな笑みを口元に湛えた。




