ゲス顔
黒羽は美里の体を自分の車まで引きずっていき、その前で止まった。
ドアのドアノブに触れるとガチャッとロックが解除される。
美里の体を持ち上げて後部座席に乗せようと考えてから動きが止まる。
万が一車内で嘔吐されたらかなわない。
顔にビニール袋でもかぶせるか、それとも意識を無くすまで殴っておとなしくさせるか。
と考えた。
いや、待て、すでに嘔吐している状態のこの体を乗せるのさえ嫌だ。
顔は吐瀉物や血や唾液でべたべただ。
例え床にもそれらがつくのは我慢ならない。
生きてる女の体内から出た何かが車内に付着するのはぞっとする。
あのアキラの実姉で手強い殺人鬼だと聞いていたのに、こんなに簡単に入手できてしまうとは思わずに準備が足りなかった。
体を縛るロープも袋もない。
車のトランクに入れるのもちょっと……嫌だ。
黒羽は振り返った。
笹本に何か借りればいい。
姿は見せないがどうせこの乱闘には気がついて眺めているだろう。
携帯電話を取りだし笹本にコールする。
「もしもし」
と出た声は笹本ではなかった。
「殺したの? 笹本さんが怒ってるよ。美里さんは貴重なハンターなんだから」
「その声は山田か……殺してはない」
「そう? ずいぶんと痛めつけてるみたいだけど? ハンターとしての機能が落ちるのは困るな。それに彼女は観賞用にも十分耐えうる容姿だ。壊してしまうのはエイミ様がお怒りになる」
「のんびり眺めてないで、ブルーシートとロープを持ってきてくれ」
山田の冷たい口調に黒羽はいらいらとしたが、冷静に答えた。
「何故?」
「何故だと? この女を車に乗せる為だ。血や嘔吐物で汚されたくないからな」
「そう? でもまだ終わってないんじゃない? それと一つ教えてあげる。笹本シェフが呼んだ応援がもう少しで到着するだろうね。三対一になったら黒羽さん不利じゃない? 美里さんを崇拝してるアキラ君に黒羽の方が殺されるかもね」
うふふ、と笑う声がして通話が切れた。
応援というのはアキラと藤堂だろう。
確かに三対一になればこちらが不利だ。
車を汚されたくないなどとのんきに対策を考えている場合ではない。
黒羽は電話をポケットにしまいながら美里の方へ振り返った。
いない。
先ほどまで足下に蹲っていた美里の姿がない。
黒羽はそう慌てることもなく、四方に目を走らせた。
這いつくばって逃げる姿も見られない。
この場を離れないという事は走って逃げる力がないという事だ。
駐車場には黒羽の物以外に車は止まっていないとなると目の前の車の向こう側へ隠れるしかない。
「隠れても無駄だぞ。お前の応援が来る前に仕留めてやる」
と黒羽が言った。
車の後方へ足を進める。
その瞬間、少し足が滑った。
転ぶというほどではない。少しずるっと革靴が滑っただけで、足が止まった。
「ん?」
と足下を見る。
駐車場内は暗く、足下に何があるかは見ることは出来ない。
笹本の店は街の大きなストリートにあるが、オフィス街でもある。
住宅街は少し離れていて、特にこのレストラン裏手の広い駐車場は閉店後の深夜には灯りも落とされている。
笹本がいるであろう解体倉庫からの灯りは遠い。
黒羽はそう気にせず、また足を進めた。
車の後方をのぞき込むと、美里が地面に座っていた。
「観念したようだな」
と言うと美里が顔を上げて黒羽を見た。
月の明かりが美里の顔を浮かび上がらせた。
右目の端が切れて青あざが醜く腫れ上がっている。
口内を切って血を吐いたのだろう。唇、あごなどが赤黒く汚れている。
アスファルトでこすったせいか頬もおでこも幾十にも擦り傷が入っている。
惨めだな、と黒羽は思った。
殺人鬼として何十人殺してきたであろう女が最後に自分がおびえた獲物になるのだ。
それは運命だがこの女には屈辱だろう。
最後までおびえさせてやろう。
それで誰が自分を支配するのかその身に刻みつければいい。
エイミ様は褒めてくれるだろう。
凶暴な獅子を見事に仕留めて君主に捧げる騎士のようだと賞賛し、そして今度こそ永遠の恋人をご褒美にくださるに違いない。
美里は少し首をかしげて黒羽を見上げた。
月の明かりで青ざめて見える彼女の顔は酷く傷ついていたが、それでも美里の美しさは少しも損なわれていない。
黒羽が少し遠くを見て、にやっと笑った。
それは一瞬の隙だったが美里にはそれで十分な時間だった。
左手には百円ライター。
右手にはつんと刺激臭のする何かで濡れた小さなナイフ。
にやにやしながらじゃりっと黒羽が右足を踏み出したその瞬間。
美里が動いた。
蹲るような姿勢のまま黒羽の右足にナイフを突き立てた。
だが衣服の上からでは的確に肉を切り裂くという効果はない。
黒羽は面倒くさそうに左足で美里の胴体を蹴り上げようとした。
「ぐ!」
美里のナイフが突き刺さった右足に焼けるような痛みが走った。
一瞬で焦げ臭い異臭が漂った。
美里はさっと後方へ下がった。
黒羽は自分の足下を見た。
燃えている。
足に刺さった小さいナイフが燃えている。
それは小さい傷口をえぐるように燃やしている。
通常のナイフの刺し傷よりも格段な痛みが走る。慌てて足をふるうと火のついたナイフはカランと地面に落ち、そしてぼっと黒羽の足下が真っ赤に燃え始めた。
足が滑ったのは灯油か何かをまかれていたのか、と悟った時にはもう遅かった。
焼け付く足の痛みに黒羽は膝をついた。
ばたばたばたと不格好に手や足をばたばたさせて火を消そうとする黒羽の側で美里はゆっくりと体を起こした。
ポケットを探り、ウイスキーのミニボトルを取り出す。
きゅっと蓋を開けて、黒羽を見た。
今度は黒羽が美里を見上げた。
月明かりに照らされた美里の顔は片方の口角がきゅっと上がっていた。
そしてほんの少し薄目だった。
顎でふっ、とミニボトルをさす。
言葉はない。
美里はミニボトルの中身を黒羽の体に振りかけるだけでよかった。
消されかかった火が新たな液体を飲み込んで燃えだした。
黒羽のズボンに着火してめらめらと繊維を焼き尽くす。
火は素早い速度で黒羽の体を駆け巡った。
黒羽は慌ててぱんぱんと自分の体を叩いた。
「死ねよ。クソ野郎」
と美里が言った。




