第85章
85.
この世界の寄生虫もアニサキスと同様の生態系で生きているらしく、人間の消化器官の中では長期間生存する事は出来ない。長くても一週間程度で、自然に治癒するだろう。手っ取り早いのは開腹して胃壁に喰らい付いた寄生虫を摘出する事だが、この世界の医療レベルでは寧ろ寿命を縮めるだけだった。
一方、万能と言われる魔法薬が存在するこの世界ではあるが、『身体を元の健康な状態に回復する』魔法薬も、身体という扱いには含まれない胃の中身までは浄化しきれない。血中に入った毒素は、浄化出来るのだが。
微妙に万能とは、言い難かった。
そこで登場するのが『虫下し』で、消化器官内の寄生虫の活力を大幅に低下させる効能があった。魔法による殺虫剤みたいな物なのだろう、『魔物除けの香木』同様に、魔法薬の一つとして市販されている程度には、世の中に普及もしている。副作用としては、服用した本人の活力も減退は免れない事だろう。それでも、それまでアルティフィナを苛んでいた激痛はなりを潜め、時折襲う普通の腹痛程度の痛みと、酷い倦怠感だけが残った。
「まぁ、大丈夫なんじゃないか?」
ベッドのアルティフィナを見下ろし、グレンは何処か呑気そうな声でそう告げると、さっさと木刀を持って鍛練の為に階下の中庭へと向かってしまった。
後にはベッドで愛用の枕(やっぱり、枕は必需品よ!)を抱きかかえ横向きに丸まる様にうずくまる、アルティフィナが一人取り残された。
流石に街中で、しかも商館の最上階の一室ともなれば魔物に襲われる危険がある訳でもなく(以前、ここまで侵入した狐っ娘がいはしたが)グレンの緊張感がないのも致し方ない。
それにしても。
何という、説得力のない慰め方なのだろう。
と、言うか、あれは地が出ているだけ、かしら。
「う、うぅ・・・」
しくしくと痛む胃の痛みは、それでもだいぶ楽になった。
確証はないが、ひょっとして、サキュバスの胃酸は人間に比較しても弱い、あるいは分泌量が少ないのかもしれない。
多少、アニサキスを包丁が傷つけてはいても、乏しい胃酸では殺しきれなかったのだろう。
アルティフィナとしては、通常の一人前の三人分を注文し、引き当てる確率も自ら三倍にしてしまった、とは認めたくない。
そう、サキュバスの経口摂取は、いわば、おまけみたいなものなのだ。
そうだ。
グレンのあの素っ気ない態度、『今夜は、お仕置きよッ』っと、一瞬そんな事も頭の片隅を過ったが、どちらかと言うと、今は兎に角寝ていたい。
マグロ状態の自分をグレンに襲わせても良いのかもしれないが、そもそも気分が乗らない。無理。
「お粥をお持ちしましたわ。少し、起きられますかしら?」
ドアの枠を叩く軽いノックと共に、お盆を捧げ持つ様にしてアイリーンが部屋の中へと入ってきた。ドアが空いていたのは、後で訪れる両手の塞がったアイリーンを見越して、では、なく。単にグレンが閉めるのを忘れただけ、だったが。
『今夜は、お仕置きよッ』・・・やっぱり、今度纏めてで、良いわ。
アイリーンはサイドテーブルにお盆を置くと、初夏向けの薄い毛布を少し剥がして、アルティフィナの上半身を抱き起こした。何処か喜々とした様子で、小さな体で両手をアルティフィナの背中に回し、全身の力を使って抱き起こしてくれる。
荷物が入り切らないと嘆いていたはずのグレンのズタ袋には、何故かアルティフィナのネグリジェだけは、しっかり、入っていた。
変態だ変態だ、とは思っていたが。やっぱり、グレンは変態かもしれない。お仕置きは、・・・もう、如何でも良いわ。
アイリーンがネグリジェ姿のアルティフィナの胸元に頬ずりすると、ベッドの足元から、毛布の中でジャラジャラと金属の触れ合うくぐもった音が聞こえた。
「ね、ねぇ、アイリーンさん? やっぱり、ほら、ベッドで足枷は似合わないかなぁ、と思うのだけど?」
少し顔を強張らせたアルティフィナが、遠慮がちにそう、尋ねる。
『横向きになりたいの!』というアルティフィナの必死な要求(お腹がイタイのよ!? 枕があっても、丸まりたいじゃない、やっぱり)はちゃんと聞き入れられ、すぐさま用意されたのが、やたらと頑丈そうな金属の足枷。
別にメイド服に荒縄も、全く合わない事もない気もするけど。否、毛布ごと簀巻きにされるのは、ちょっと。
それに今のわたしは、ネグリジェだし。(何故か、黒のスケスケ仕様だ・・・)
「あら、勿論、外しますわ。アルティフィナさんが、私を残して何処にいらっしゃるつもりだったか、ちゃんと教えて頂けましたら。丁度、私も、そろそろ大学に復学する為に、こちらの商会の仕事を引き継ぐ準備をしていたところですの。ですから、アルティフィナさんが何処に行くつもりだったとしても、ちゃんと同行させて頂けますわ」
何故かメイド服(以前、お店のアルバイトで用意したヤツ)姿なのは、アイリーンの方だし。
しっかり、ピンクっぽい髪はツインテールだし。
眼鏡っ娘装備だし。・・・関係ないか。
アイリーンはにこやかにそう答えると、お粥を一掬い、ふぅ々々と冷ましながら、アルティフィナの口元に運んだ。
春の麗らかな、静かな午後。
旅立ちは、もう少し掛かりそうではあった。




