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84/91

第84章

84.

この世界には、否、どんな世界であっても、面と向かってお会いしたくない相手はいる。たとえば、自分より強い事が分かっている、魔物。

出会ってしまった途端に、自分の人生が終わりを告げる可能性がある。

勿論、魔物などいない方が、人間は楽に暮らせるだろう。

だが、魔物でなくても人間の健康を害し、あるいは生理的な嫌悪感を掻き立てる相手はいる。

煮沸もしてない生水が飲めたり、卵を生で食べる事が出来たり。そういった事柄は衛生面での管理が徹底されていない場合は不可能と言っても良い。同じ理由で魚を生で食べる事は、輸送時の十分な冷蔵方法が確立されていないこの世界では、ほぼ不可能と言われている。

それは貿易流通だけではなく、魚介類水揚げの港町としても栄え、他の街に比べると、はるかに新鮮な魚が手に入るこのリングハートであっても同じだった。


「怪しいわよね?」

ただ、旅というのは時として旅人の日常生活における常識や用心を捨て去る、あるいは抑制する方向で作用する事もある。『旅の恥はかき捨て』(この世界では『街道に貴族はいない』と言うらしい)などとも言う通り、旅という状況は限定的な非日常に位置する者の判断力全般に、様々な影響を与えてはいる。たとえまだ、やっと街の門を出ようかというところであっても、旅は始まってはいた。

そして、いよいよリングハートを離れるにあたり『そう言えば、その角の定食屋さんて、一度も入った事ないわよね?』などと言い出すサキュバスのメイドが約一名。


「確かに、怪し過ぎる。なぁ。昔、定食屋をやってる奴に聞いたんだが。なんでも、イカの身には虫が喰らい付いていて、調理してると出て来る時があるんだそうな」

枕を除く、ほぼ全ての荷物を受け持つグレンのズタ袋にも、けして十分な携行食が準備されている訳でもなく。且つ経口で栄養が取れないと、確実に今夜搾取される事が確定なグレンとしても、身の安全を考えざる得なかった。だから、まずは腹拵えしてから旅立つというのは、否定するべきものではない。

それに、アルティフィナは言い出したら、聞かないし。

ただ、アルティフィナに推され入った定食屋のメニューは、不思議な事に一択。

それで出て来た『お任せ定食』は、素麺ならぬ『イカ素麺』だった。

お互い顔を見合わせると、微妙に顔が強張る。

この世界では、魚の生食の習慣は皆無と言って良い。


「で、でも、杞憂かもしれないですよ? ほら、ひょっとして、良心的なお店かもしれないし?」

ミーシャの希望的観測に、アルティフィナとグレンが『それは、ない、ない』と揃って首を振った。そう、思わせるくらいは、何というか薄汚れた店ではあった。

ただ、他に選択肢が無かったのだ。漁師相手の店は開店も早いが閉まるのも早い。船が海に出て日が昇れば、その日の営業は終了だった。日が昇ってもまだ店を閉めずにいてくれるのは、確かに良心的なのかもしれない。

そして、街の家々には低く、朝の光が差し込み始めていた。


「ま、まぁ、でも大丈夫よ。これはイカ素麺、って言って、アニサキスはイカの身を細く切りイカ素麺にする事で、その身体を刃物で傷つけ無害化するのよ。それに透明掛かった感じが、すごく新鮮そうだし。んー、ちょっと、素麺て言うには、幅があり過ぎる気もするけど。お腹空いたし、頂きまーす!」

『アニサ・・・?』グレンとミーシャが聞き慣れない単語に、思わず首を傾げた。

そう、それは所謂、寄生虫という奴だ。刃物でその細長い身体の一部でも傷つけられたアニサキスは、胃液の酸には耐えらない。

目の前で一杯目を平らげ、店のおばちゃんに、サッサと二杯目の追加注文をだすアルティフィナの姿に、ようやくグレンとミーシャも自分の目の前に置かれた器に手を付けた。

食べてみれば、微妙な甘みがあって美味しい。

こうして、三人は暫くは味合うことが出来ないだろう、港町リングハートならではの海鮮の珍味で、出立の朝の腹を満たし旅立つ事が出来たのだった。


「・・・それで、その後、アルティフィナさんがお腹が痛いと騒ぎ出し、今に至ると。そういう訳ですのね?」

アイリーンはベッドで呻くアルティフィナを冷やかに見下ろしながら、ドアの前で縮こまるグレンとミーシャに問うた。

郊外の家に戻るよりは港に近い商館の方が、街の門からも近い。

急いで商館にアルティフィナを運び込んだ判断は、勿論アルティフィナの身を案じての事ではあったのだが。グレンとミーシャは今更ながら自分たちの判断の是非に、不安そうに顔を見合わせた。

「ステラさん、虫下しと水差しを。そうですわね、後、ロープも一巻き、持って来てくださるかしら? あ、ロープはベッドごと、ぐるぐるに縛れる位の長さが要りますわ」

にこやかに微笑む、アイリーンのツインテールが揺れた。

アルティフィナたちの出立は、もう暫く時間が掛かりそうではあった。


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