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83/91

第83章

83.

『この蝶は、何も見ていない』

あの日の言葉が、頭の中でリフレインする。

それは、消せない記憶・・・。



「何で、ついてくるのよ?」

グレンに向かって、そう言ってはみたものの。

左脚にはミーシャが纏わり付いているし、今ひとつ緊迫感がない。

あれよ、猫の信頼を得ると、歩く足の間を縫う様に身体を擦っていく様な感じかしら?

猫じゃないけど。狐だけど。

たとえ猫でも、王様が座る玉座の様な椅子に掛け、血の色のワインをグラスの中で揺らし、メイド服の組んだ膝の上の丸まった黒猫の背中でも撫でていれば、わたしの威厳も保たれるのだろう。

何事も、形からよね?

・・・何のって、ほら、悪いサキュバスの?

取り敢えず、ミーシャの尻尾を踏まない様に、足元を気を付けている時点で我ながら威厳というか迫力に欠ける。


「いや、だって、なぁ。何か、怪しいじゃないか?」

ボリボリと、グレンが髭面を指で掻きながら、わたしから目を逸らした。

こっそりと家を出ようとしたわたしの足先に、黄金色のフサフサを発見したのが家のドアを開けた直後。家の前で『帰れ』と争ったところで、この狐娘には馬耳東風だろうし(馬じゃないけど。狐だけど)諦めて通りの角を曲がろうとしたところで、今度はグレンの尾行に気がついた。

だいたい、そんなに装備を背負っていたら、ガチャガチャと音もする。

一方、わたしは身軽で普段のメイド服に、手には愛用の枕。

完璧だわ。


「何で、気がついたのよ?」

隠れるつもりが無くなったのか、グレンはサッサとわたしの横に並んで歩き出した。

少しは『グレンは家でお留守番よ!』と言われる可能性というものを、想定しないのだろうか?

やはり、これは、わたしが舐められている証拠ではないだろうか?

物理的には舐めるのも舐められるのも好きだけれど(但し、対象はかなり限定されるのだけど。あ、可愛い女の子なら、ほぼ100%okね!)、精神的に舐められるのは許せない。わたしがムッとしていると、ミーシャも歩くのが面倒くさくなったのか、グレンの肩まで駆け登った。ミーシャはグレンの背中のズタ袋に身体を預け、前脚後脚をグレンの肩に回して横になる。まるで高級な狐毛の襟巻きだが、この季節グレンからすると暑いだけらしく、ちょっと嫌そうな顔をしている。

そうだわ、お仕置きよ!(暑いのに襟巻きの刑?)

わたしからすると無用に尻尾を踏んづけるリスクが解消したので、取り敢えず良しとしよう。


「だってアルティが『今日は、早く寝ましょう』なんて、怪し過ぎるだろう?」

わたしがサキュバスの特性上、余り睡眠を必要としていないのに比べると、この世界の人間は普通に昼型の生活サイクルで、夜は寝るものだ。

しまった、グレンの事は色々と鍛え過ぎたかしら?

朝になってわたしがいないのに気がつけば、ほって置いてもグレンは追ってくるだろうとは、思っていたけれど。

さっさと見つけられた事は、微妙に癪に触る。

こういうのは、突然いなくなってしまった恋人を探して旅に出る方が、絵になるのだ。家から数十歩で捕捉されては、ストーリー性がないというか、そこいら辺がグレンは分かっていない。

まぁ、仕方ない。


頭上を照らす、月が追ってくる。

郊外の別宅を後にして、一旦リングハートの街中を通過し、そのまま街道へと向かう。

途中、デヴラ商会の前を通り過ぎる時、無言で見上げた商会の建屋は、今はどの雨戸も固く閉ざされていた。四階には、アイリーンやステラたちが眠っているはずだ。

明日の朝、暫くお暇を頂く旨を認めた事付けが商会に届けられる事になっている。それだけは、昨日のうちに手配してあった。

それを見たら、アイリーンは泣くだろうか?

継承権の低いアイリーンではあるが、王族がサキュバスに依存するのは良いことではない。それが知れた時、父王との親子の関係に亀裂を生じさせるだろう事は想像に難くない。

そう、実績がある。それくらいに確かで、良くない事なのだろう。

ただ、それを気にしての出立などではなく、これはわたしの我儘だった。

リングハートの街の門を抜けると、目前には月に照らされ、轍の刻まれた白い街道が、永延と続いていた。

アルティフィナの漆黒の双眸が、僅かに赤みを帯びる。

そう、『緋文字写本』の存在が、一旦は閉じられていたわたしの生を、再び動かし始めたのかもしれない。

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