第79章
79.
季節は緩やかに移ろい、港町には大陸でも一番早く春が訪れる。
低く垂れ込めた灰色の雲から粉雪が舞い落ち、家々の屋根を白く覆っていた事など、もはや遠い記憶の彼方だった。アルティフィナは商会の三階に造り付けられた硝子窓の枠に両手をついて、リングハートの少し南国っぽい造りの家々を見下ろしていた。
そう。
ここよりもっと、春の早い土地もある。
リングハートにも訪れるだろう春の出ずるところ、南方の森林地帯の、もっともっと南。
今だに魔族の残虐さを、暗闇や極寒と結び付けてイメージする者も多いが、この世界に於ける魔族の地はもっと明るく豊かだった。だから、環境が魔族の残虐だといわれる民族的な嗜好を、形作ったものではない事だけは、間違いないだろう。
魔族は、魔族に成るしてなった。多分、成らされた訳でもない。
アルティフィナは瞳を閉じて、硬質ガラスに額を寄せた。
少し冷んやりした感触が、心地良い。
暑さ寒さには動じないアルティフィナだが、苦にならないだけで、それを感じていない訳ではなかった。
『そのまだ男を知らぬ身体も、その猛々しい心も全て、俺に永遠の「服従」を誓え。然すればお前に、永遠の快楽を与えてやろう・・・』
あの日。
跪くわたしに青黒い頬を寄せると、男はそう、囁いた。
声はけして大きい訳ではなかったが、耳元を灼熱の吐息が嬲り、わたしの素肌を焼いた。
そう、今も感じているのだ、南方から吹く風の息吹を・・・。
「なぁ、アルティ、あの『きえー』っていう叫びなんだがな。敵を倒すのにアレは、不要なんじゃないか?」
デヴラ商会会長秘書の仕事の一環として、商会の内外を巡視してまわるわたしを、グレンが呼び止めてきた。
因みに巡視イコールおサボり、暇潰しとも言う。最近は目立った大事件もなく、今となってはシャーロット嬢誘拐事件だ、アイリーン第四皇女暗殺未遂だと騒いでいた頃が、妙に懐かしかったりもする。
カーン、カーンと木刀が丸太を削るように振り下ろされ、擦れた丸太の表面から僅かに黒い煙が立ち昇った。グレンは脇目も振らず、商会の中庭の中央に立てられた丸太を相手に、ひたすら打ち込みの鍛錬中。
だったはずだが、つまらないので脇を素通りしたわたしを、今日に限って何故か呼び止めた。
如何やらグレンには、何ぞ不満があるらしい。
「あのねぇ、グレン? もし妙な色気を出して『みっともない』なんていう事を言いたいんだったら、今夜はわたしが徹底的に泣かせてあげるけど、それが望みなのかしら?」
最近わたしたち、つまり、わたしとグレンと、狐っ娘のミーシャは、アイリーン嬢の許可を得て、郊外にあるルトビア王家の別宅に移り住んでいる。その理由の一つは、このグレンの打ち込みの『カーン』と『キエー』だった。『死人も起こす』と言われる街を行き交う馬車の車軸の軋みを上回る奇怪な騒音に、商会の職員たちからもクレームがあったのは確かで、住居を移す事で朝晩は別宅で鍛錬する事となった。昼もグレンは手が空くと商館の中庭に出ているが、『カーン』は兎も角『キエー』の方は控えている。
と、いう訳でわたしたちは商館の四階で、夜中に隣室に声が漏れる事を気にする必要もない。
・・・実はこちらの方が、転居の主な理由かもしれないが。
「いやいやいや、要は気合だとは理解しているんだ。ただ、その、もうちょっと、こう、しっくりこないというか」
アルティフィナは黒のメイド服の袖に包まれた腕を組んで、目の前のグレンを見上げた。
我儘な子だ。
だいたい、『猿叫』とはそういう物だ。
相手を怯ませる事だって、効果の一つだろう。
敵の耳に心地良くて、如何するのよ?
そんな事を考えながら無言でグレンを見ていると、アルティフィナの漆黒の瞳で睨まれているグレンが、ボリボリと頬を掻きながらも視線をそらせた。
そうか。
もう一つ、あった。
「わかったわ。その木刀を貸して・・・」
珍しく素直なアルティフィナの返事に思わず自分の耳を疑いながらも、グレンは手にした木刀を渡す。アルティフィナは、グレンの使う重い木刀を、その細い右手だけで受け取った。
但し何事も?チェンジは、一度きりと決まっているのよ?
左脚を前に出し、剣を握る右手がその小振りな顔の耳の辺りまで上がる。左手を軽く添えた、独特な『蜻蛉』の構え。
「チェストーッ!!」
殆ど捻り打ち下ろす右手のスピードだけで加えられる斬撃が、強烈な打撃音と擦過熱に依る白煙を残し、丸太の根本まで切っ先を沈み込ませた。
「すっ、スゲェ、けど。それって『きえー』よりアレじゃないか・・・?」
斬撃が繰り出す打撃音も、日頃の可愛らしさの欠片もない叫びも、凄かった。そして、気が付くと、何時の間にかアルティフィナはいなくなっていた。
そうだよな。
何事も『代わり』が前よりも、まともだという保証はない。
仕方ない、自分が望んだ事だ。
幸いなのは、この商館の中庭では気合の叫びは自重している事だ。
忘れない様に、頭の中で先程のアルティフィナの一挙手一投足と、思い出さずとも耳から離れそうもない、その叫びを思い浮かべながら、グレンは昼の鍛錬を再開した。




