第75章
75.
曰く『年をとってから暖まりたい者は、若いうちに暖炉を作っておかなければならない』そうで、この商館では、どの部屋にも大なり小なり暖炉が備えられている。勿論、短い青春を無益に過ごしてはならないとの戒めだが、そんな諺が出来る位には、暖炉と言う物が一般的ではあった。
リングハートの家々の屋根からは低く垂れこめた雨雲へと、柔らかな暖炉の煙が立ち昇っていた。煙が出るのは街で売られている薪藁の乾燥が不十分だからで、購入してから長期間の乾燥を行う場所を確保出来ない一般家庭では、暖炉での不完全燃焼は已む無い事ではある。その結果、煤とこびり付いたタールの掃除を専門とする煙突掃除夫という職業も、未だに健在だった。
リングハートより寒さの厳しい内陸でも暖炉は普及しているが、南方の森林地帯から豊富な木材が輸入されているリングハートよりも内陸部での薪の流通価格は高めで、一家に最低でも一つの暖炉があるのは、このリングハートだけかもしれない。
「4階の煙突の掃除なの? 今日はそんな予定、入っていたかしら?」
一階の食堂の隅に作りつけられた勝手口に立って、ステラは小首を傾げた。銀白色の髪の先が肩口を撫でて、ファサり、と揺れた。
(アルティフィナでもいれば、腕組みで両脇から寄せ上げられた他の部位の揺れの方に視線がいったであろうが、今はここにはいない)
海岸通りに面したデヴラ商会は四階建てで、三階にはアイリーンの執務室や会議室、四階にはアイリーン以下、ルトビアから押し掛けた者たちの個室がある。
ステラの目の前にはいかにも煙突掃除夫らしい、ベレー帽(頭上から煤が降るので帽子は必須、但し狭い煙突の中では大きな鍔付きの帽子は身動きが取れない)を被った小柄な少年がいた。手にしたバケツには煙突掃除に必要なブラシやら刷毛やらが無造作に突っ込まれていて、そのバケツは小柄な少年には重そうに見える。更には小さな肩には折りたたみ式の脚立を掛けていて、身動きも辛そうだ。
「そうだよ。親方から、ここの4階だって聞いて来たんだ。お姉さん、早くしてくれないかな?」
目深に被った大きめのベレー帽の下から、声変わり前の少し高いトーンの少年が急かす。
暖炉の煙突には定期的なメンテナンスが必要なのは事実で、溜まった煤やタールは空気の通りを阻害し、燃焼効率を更に悪化させてしまう。だが、周囲の一般家庭ならいざ知らず、この商館では中庭の軒下でじっくりと乾燥させた薪藁を使っている。乾燥した薪藁を適切に燃やせば燃焼温度が上がり、煙も煤もあまり出ない。確か一ヶ月程前に掃除をして貰ったばかりで、この子のお小遣い程度とはいえ、商会の経理を預かる身としては無駄な出費は避けたい。
「悪いんだけど、一度、親方に確認してきて貰えないかしら? あ、聞いて来てくれる間、その荷物は預かってても良いから。うち、先月掃除をして貰ったばかりなのよ。多分、何処か隣の建物辺りと、今日の掃除の先を間違ってると思うのよ」
煙突掃除は実は過酷な仕事で、しかも狭い煙突に見合った小柄な少年しか雇われない。重そうな荷物を持って、親方のところまで往復させるのは酷だが、他の予約した客からクレームが出て給金が出ないなんて事態を招いては、もっとこの少年が救われない。
今日は他に仲間がいないなら、荷物を預かる位は訳の無い事だ。
普段、掃除夫の少年たちは複数でやって来る。煙突はこの街では山ほどにあり、稼ぎたい貧しい少年たちの方も山ほどいる。そんな少年たちを多く雇ってこき使うのが元締めの親方で、ステラは奴隷商人程ではないが、悪どい商売だとは思う。ただ、街はそんな小柄な貧しい少年たちによって保守されている。街に運ばれてくる小麦やトウモロコシが、何時魔物に襲われてもおかしくは無い街の外で、奴隷たちの手で収穫されているのと、同じ様なもの、なのかもしれない。
「・・・ネェ、胸の大きなお姉さん? 親切は嬉しいけど、お金は要らないから、ここを通してくれないかな?」
少年が目深に被ったベレー帽の淵を、クィ、と親指で跳ね上げた。
それにしても、この違和感は何だろう?
ステラは、先ほどから何かが気持ちの奥に引っ掛かっている、そんな気がしてならなかった。そうだ、この少年のベレー帽、ちっとも煤で汚れてはいない。手にしたバケツの道具はどれも古びて黒く汚れているのに、ベレー帽も少年の上着も、黒い煤で汚れた所が一箇所もない。
それに、それに、ベレー帽の下から現れたのは、まるで少女の様に整った細っそりとした色白の顔と、・・・真っ赤な瞳。
二つの深紅の瞳が、ステラの殆ど透明に近い目を見上げている。
「そ、そうね。お金が要らないなら、もし間違ってても、うちは損しないし、良いわよね? じゃあ、その奥に階段があるから、4階の掃除お願いね・・・」
ステラはそう言って踵を返すと、フラフラと食堂の方へ戻っていった。
少年は口元に少し笑みを浮かべ、邪魔な脚立とバケツをその場に置くと、上階に続く階段へと向かう。
閉じられた勝手口の木の扉を、勢いを増した雨脚が叩いていた。




