第70章
港町であるリングハートには、南国で採れた果物が、一部は現地で加工された形で輸入されてくる。そして砂糖はこの世界でも南国が主な産地であり、フルーツの砂糖漬けは南方の特産品だった。また、卵(鶏ではないけど)や牛乳(牛さんではないけど)は、リングハート近郊から、街に新鮮な物が持ち込まれる。
そしてバニラ・ビーンズ(っぽい風味の何かの果実)も、南方からの輸入品で、まだまだルトビアでは入手は難しいが、リングハートなら難なく手に入る。バニラ・ビーンズが香料としてあの独特の風味や香味を得るには、キュアリングと呼ばれる発酵と乾燥を繰り返す事が必要なのだが、この世界のバニラ・ビーンズもどきは複雑で手間な工程を経ずとも、バニラ・ビーンズ同様の香りを持つ。
手間が掛かってないので、流通価格もそれ程高くはない。
「それで、その店に何があるっていうのかしら?」
ツインテールで腕組みをするアイリーン嬢は、廃頽的で厭世的な思考の蔓延した貴族社会の出身にしては好奇心が旺盛で、時として必要以上にあれやこれやと、やりたがる。たとえば、南の場末の珈琲店のメイドとか。だがそれでも、何でも理解出来ない物までも無条件に手を出す訳ではなく、相手にはきちんと自分が分かる様に説明する事を求める事もある。
民を導くとまでは言わないが、上長としては正しい在り方ではあろう。もちろん、ロリっぽい外見が凛とした態度を幾分損なっているであろう事は、当然本人の前では口に出すことではない。 ・・・別に言ってみても良いかもしれないが。だが、その外見は愛でる為にこそ在るのであり、アルティフィナとしては、まずは当事者たちの陰に隠れ、事の成り行きを見守る事に徹するつもりだった。
因みにアイリーン嬢のツインテールにも、そのピンクの縁の伊達メガネにも、意味はない。
ないはずだ、多分。
可愛いから良いが、もし可愛くなかったら、即時に止める様に諭すべきだ、とは思う。
「クレープが美味しいんです」
嘆願する具申団の筆頭は、恐れを知らぬジェニフィー嬢だ。街での土着の魔法体系の調査と言う名の徘徊の末に、件の店を見つけ、密かな勧誘活動の成果として今では多くの支持者を集めたらしい。
絶対、本来の魔法調査という目的は既に忘れている、と思う。
だが、清楚な女子大生であるジェニフィー嬢はアイリーン嬢の大学の先輩ではあるが、先輩のお勧めというだけではアイリーン嬢の承諾を得るには、如何やら若干の不足がある様だ。
世の中そう、甘くはないという事だろう。
論述での証明には長けたジェニフィー嬢も、口頭だけで人を説得する事は、まだまだ人生経験が足りないという事なのかもしれない。
そう、言葉では伝わらない事もあるのよ、やっぱり、ヤっちゃわないとダメだと思うのよね?
とは言え、ジェニフィー嬢は王立ルトビア魔法学大学校の女子寮大浴場での出来事は、一切記憶に残っていない。
残念。
如何やら世の中には、ヤっちゃっても伝わらない事もあるらしい。
「フルーツの砂糖漬けと、カスタードクリームの組み合わせは、絶品だと思います」
すかさず、シャーロット嬢が支援に入った。
シャーロット嬢は日頃からしてアイリーン嬢に何かあれば、即座にその危険を取り除くべく武力行使も厭わない。流石、絶妙なタイミングではある。あるのだが、今日は如何やら立場が違うらしい。主君に自らの意見を述べるなど、この通常は無口な近衛騎士団副団長には珍しいことと言えるだろう。テンション的にも、日頃の、ぼそり、と饒舌モードの中間くらい? 微妙なところではある。
だが、やはり残念ながら、食べてみた事のない味は分からない。『プリンの味は、食べてみなければ分からない』訳で、これだけではアイリーン嬢の説得は難しい。
「・・・実は私、子供の頃にこの街に住む親戚の家に預けられていた事があって。あの店のクレープが大好きで、毎日々々食べに行きました。一夏を過ごしたのですが、余りに甘い物を食べ過ぎたからなのか、急に太っちゃって。ルトビアに戻ってから必死に減量したんですけど、何故か胸だけは小さくならなかったんですよね。今となっては懐かしい思い出ですね・・・」
両掌を胸の前で組み、瞼を閉じて懐かしい思い出に浸るステラさん、と言うよりは両脇からの腕の圧迫で更に凶悪な寄せて上げて効果を無意識に演出するステラさんの胸に、部屋の残りの者たちの視線が集中した。
確かにクレープなどという代物は貴族が食べる料理とは言い難く、落ちぶれたりとはいえ伯爵家の幼きステラさん(可愛いお嬢様だったろうと想像は出来る)がルトビアの実家にいる間は、食する事は難しかったのかもしれない。
だが、問題はそこではない、多分。
間違いなく、発言者本人を除く全員が、初めて知るそのクレープの効能を想像し『もし、自分も・・・』と自分の胸に視線を落とした。
「わ、分かりました。皆さんがそう言うのであれば、仕方ありませんね。本日業務終了後、皆で試食に伺いましょう。そうですね、シャーロットさんとアルティフィナさんがいてくれるとしても、一応、グレンさんにも護衛として同行頂きたいのですが。アルティフィナさん、如何でしょうか?」
こうして、ついにアイリーン嬢は陥落した。
消耗してベッドから離れたがらないグレイが、無慈悲なアルティフィナに連れ出された事は言うまでもないだろう。
以後、デヴラ商会でおやつと言えば、クレープの事を指す事となる。ただ、その知られざる効能については、後で冷静に考えてみると、希望する部位だけが大きくなる訳ではない(つまり全体が太る)事をおそれ、明確な結果が出る程に食べ続ける勇気のある者はいなかったらしい。
当面は、大きいのはステラさんだけ、という状況が続きそうではある。




