第65章
65.
目の前に突如として出現した余りに非現実的な事象に、ベーレンゼイルは一番上の一組の腕を顔の前で十字に組んで防御しつつ、数歩後ろへと跳び下がった。その間も残る二組四本の腕が想定される敵の追撃を牽制すべく、四本の槍となって繰り出される。
だが、その矢衾は空しく空を切った。
何の事はない、目前の小娘は頭上にその奇怪な長剣を掲げたまま、一歩たりともベーレンゼイルを追撃する素振りも見せてはいなかったのだから。
大きく仰け反る様に反らせた弓なりの身体からは、纏った漆黒の衣服を通して濃厚な雌の匂いが咽ぶ程に漂っている。少し釣り目がちな瞳は魔族の印である深紅の色に染まり、獲物を狙う肉食動物の様に欲情に爛れていた。
そして何よりも、その手にした長剣は、まるでたった今、焼き入れが終わったばかりかの様に灼熱を帯びて、見る者の目を焼くかの様に赤黒く鈍い光を放ち、逆に周囲は熱を吸い取られた様に肌寒い程に温度が下がってきている。
けして、感覚的な物だけではない。
実際に肌に痛みを覚える程に、まるで氷雪魔法の結界に、知らずして踏み込んでしまったかの様だった。
「小娘、貴様は何者だ!? その魔剣はいったい・・・」
ベーレンゼイルは混乱していた。
そもそも、この任務には気乗りがしなかった。最初から何か、嫌な物を感じていたからだ。
魔王の汚れ仕事を請け負う事は、魔族でありながら、さしたる魔力を持たぬ自分に与えられた、唯一の出世の道ではあった。故にこれまでも同族であれ、人族であれ躊躇わず、携えたその六本の剣で切り刻んできた。但し、無用に殺してきた訳ではない。与えられた仕事を全うする為には、邪魔立てする者を排除する事が必要だっただけの事だ。もちろん、退けと言って退くならば、無駄に殺生をするつもりもない。
今回の仕事に関して言うならば、戦士として人族の土地を攻めろと言われたなら、それは良い。だが、一人その奥深く潜入し、その挙句に指示書一つ回収せよなどと言うのは、ベーレンゼイルからすれば、要らぬ手間でしかない。しかも、焼き払う前に、荷箱の中の指示書の有無を確認する事が必要だと言う。
今にして思えば魔王は今日の、この小娘との遭遇を予想していたのではないのか?
だとすれば、中空から奇怪な剣を取り出して見せたこの娘は、何者だと言うのだ?
「魔剣じゃないわよ? ねぇ、ジェラールホーン。あなた一応は、聖剣だったわよね?」
アルティフィナが白磁の人形の様な顔で、小さな口元だけに厭らしく下卑た嘲笑を浮かべ、小さくそう呟いた。
美しいが故に凄惨な、そんな微笑だった。
アルティフィナと、アルティフィナが掲げる剣を中心に、瞬く間にも周囲には倉庫の荷箱や壁に霜が張り付き、冷え切った周囲から灼熱の剣に向けて膨大な大気が逆流している。まるで、溢れ出た冷気と共に、何か禍々しい物までもが吸い取られていくのが見える様だった。
「ま、まさか『悪龍の化身』かっ!? そんな事が・・・」
ベーレンゼイルは、青い顔を更に青黒く染めた。
聞いた事がある。
かつて、この世にジェラールホーンという銘の、『聖剣』が存在したと。だが、切る程に相手の邪気を吸い、剣とその使い手を魔に落とす。故に、数多の魔族の血を吸ったその剣を、恐れを知らぬはずの魔族でさえも『魔族を上回る程の悪意』との意で『悪龍の化身』と呼び、忌み嫌ったという。
「それは確かに、起こすのは処女じゃなきゃダメで、扱うには売女じゃなきゃダメって、ナンセンスにも程があるわよね。でも・・・、だからって『悪龍の化身』なんて、その呼び方は嫌いよね?」
目の前の娘が右手に掲げた魔剣を静かにその小さな顔の前まで下して、左手の鉄の棒を水平に、まるで十字架のごとく組んだ。
娘の長い黒髪が、ばさばさと大きくたなびく様に舞い広がった。
ベーレンゼイルには娘が深紅の瞳に宿した、ありとあらゆる種類の欲望が、ただ一つ『殺戮』という名の狂気に吸い込まれ膨れ上がるのが見えた様な気がした。




